27.残骸の漂着 1
27. Settle the Wreckage
「もう…もう、限界だ…。」
彼が首を垂れてこんな弱音を吐くのを見るのも、悪くない気分であるように感じる。
ふうん、そうなの。空かした声で答えては笑いを堪えていた。
ついこの間までは、彼が苦しんでいるのが身を裂かれるほど辛かったと言うのに、何ゆえ無慈悲な思想に残忍な笑みを浮かべているのか。それは狼ならではの悩みがあったからなのだ。
「暑い…ぞ。」
「そうかなあ、今日は涼しい方だと思うよ?」
「うう…。」
どうやら夏の日差しが、耐えられないらしいのだ。
彼が自分と一緒に眠ることを許さない理由は程なくしてわかった。それは換毛期が訪れてからだ。
今までの肌触りの抜群だった長くて美しい冬毛ではなく短くて固い夏毛を纏うため、生え変わりの時期にはFenrirほどの巨体であればそれはもう夥しい量の毛が自然と抜けていく。触れれば手に絡まってごっそり抜けるのは勿論、風に吹かれてふさふさと毛玉が常に飛んで転がるような有様は、何かの気を纏っているような感じだが、毛先の長さが疎らな毛皮はなんともみすぼらしく、お世辞にも美しいとは呼べそうにない。
そしてそれが自分の衣服や頭髪にもひっつくので中々に厄介なのだった。残念ながらボディタッチは暫くお預けだ。
あまりにも抜け毛が酷いので、近くの納屋で馬用のブラシを見繕い、それで気になる部分の毛をブラッシングしてやろうかと進言したのだが、彼はそれを全力で嫌がった。
寝込みを襲ったり、そこそこ上手くなってきたお手製の肉ばっかりスープを人質にとったりもしたのだが、頑として触らせてくれない。
邪魔臭くてなんども身を震わせたり、地べたに仰向けに寝転がって擦ったりしているくせに、どうしてなのかと問いただすと、
「…くすぐったい…のだ!」
という何とも可愛らしい理由だったので、観念してやった。
しばらくの間、彼の抜け毛を拾い集めて丸め、ボール状にするのが自分の中で流行った。
如何に球に近づけるのかを考え黙々と丸め続けていたら、手のひら大のそこそこな大きさにできたので、Fenrir玉と名付けて宝物にしている。
それでようやく夏毛に生え変わり、元来痩せ型だった体型が露わになるほどにすっきりすると、こんな文句を垂れるようになっていたのである。
狼と言うと、冬の寒さをものともしない毛皮に、首から背中にかけての立派でふさふさな鬣を想像してばかりだったから、その姿を始めに見た時は拍子抜けしてしまった。大狼の名に相応しい風貌こそ失われてはいなかったものの、彼が纏っていたものは、どうやら毛皮だけではなかったらしい。
「だめだ…昼寝も、満足にできん…。」
見た目にはこんなに涼し気な装いになったと言うのに、それでもまだ厳しいようで、Fenrirは自分に今まで見せたことのないような、四肢を放り出して力なく横たわり、口から舌をだらしなく垂らし、へっへっと喘ぎながら溶けた体を晒すようになってしまった。
彼に言わせると、Vesuvaは日当たりが良すぎるらしい。普段であれば、日中は涼しい洞穴の奥で冷たい岩に張り付き、難を逃れるらしく、そうでなくても、森には巨体を覆うような日陰はいくらでもあったから、そこまで陽の光もきつくなかったと言うのだ。確かにこの土地では、せいぜい手狭な馬小屋の屋根の下で、恨めしそうに己を苦しめる空の主を睨むことしかできそうにない。
そしてこれは本当かどうかわからないのだが、人間とちがって、四足歩行の動物は背中で日を受けやすく、ただでさえ身体に熱が籠ってしまうのだと言う。
確かにそうかも知れないと思ったが、だからお前には俺の辛さが分からんのだと吠えたいだけなのではという気もしてくる。
とにかく、このままでは身が持たぬと、彼は唐突に旅立ちを告げた。
「日没に、発とうと思う。」
「また急だね…。」
昼下がりの図書館の一角、読みかけの本を閉じて机の上に置いて素直な感想を口にする。
栞を使ったことが無かった。それと言うのも一度に読み切ってしまうからではなく、前に読み終えたページを覚えていないのならば、そこまで読んだ意味がないと思うからだ。確かこの辺りだったような、と少しばかり読み返してから先に進むのが好きだった。
まあ、大抵の場合、そのせいで全然先に進めないのだけれど。
返却期限が近づいているのもあって、今日は久しぶりに例の図書館を再び呼び寄せて読書とお昼寝の日にしたのだ。ここは開けた平地が近くにあって有難い。
Fenrirも新たな本との出会いに大喜びの様子だったし、何より彼の潜り込める屋内というのが日陰として貴重だったのだ。いそいそと扉を開けると、生き返ったと言わんばかりにふうっと息を吐いて腹這いになって、昼寝の強烈な誘惑に駆られていた程だった。
それでも借りられる本の吟味に勤しみ、やがて座り込んで俺と一緒に静かなひと時を過ごしていたのだが。
彼は一体、何の本を読んで、どの場面に感化されたと言うのだろう。
「そろそろ、動き出しても良いころだと思うのだ。この旅の終わりに向かって。」
終わり、という言葉がじわりと実感を持ち、思わず唾を飲み込む。
確か滝の壁に隠れた洞穴で、秋が訪れる頃には帰るようにすると言っていたのを思い出した。
気付けばもう一月が経とうとしていた。俺達は今こうして、誰もいない土地に定住し、新たな生活に慣れつつある。ただそれも旅の道中で腰を下ろした、仮の宿に過ぎない。次の目的地へと羽ばたくための宿り木として、Vesuvaを選んだだけのことなのだ。
しかし、そうは思えないほどに自分は腰を落ち着けてしまった気がする。
結局、仮住まいの家はあの公園の隣に引っ越した。壊れかけのあばら家を補修するのに、Fenrirは大いに役立ってくれて、必要な木材をいとも容易く切断して、俺と一緒に屋根へと運んでくれた。お陰でヴァナヘイムに用意された仮屋と遜色ない物件ができて、とても満足だ。
正直なところ、今までのどんな所よりも居心地が良かった。扉を開ければ、彼がいつものように待ってくれている。今日は、何処に行って、何をしようかと話しながら、懲りずに料理をこしらえてなど見る。
他の神様との関わり合いに辟易せずに済むような、かと言って今までの暮らしとそう遠くないような便利が手の届く範囲にあって、そして何よりもこの狼が傍にいる生活が楽しくて仕方が無かったのだ。
言うなれば、この森をFenrirが案内してくれたように、俺が彼の羨望した景色を見せて回っていたのだ。
きっと彼が俺の驚き喜ぶのを嬉しそうに見ていたように、この狼が人間の世界におずおずと笑いかけるのを見ては顔を綻ばせていたのだ。
こんな日々が、一生続けばよいのにと心から願うほど。
でもいつか、終わりが来る。
今度は、Fenrirが草原を駆け、同じことを思う番なのだ。
寧ろ、ここにずっと居続けたいという考え自体が間違っていたのだと目が覚めた俺は、乗り気ではないような声で返したことを謝った。
「今度は、俺をどこへ連れて行ってくれるの?」
「避暑地だっ!」
暑いだけじゃんか!
「…というのは半ば冗談だが。そうだな、途上で是非とも一緒に見たいものがある。」
それは行き着いてからのお楽しみというわけだ。だけれど、もう少し道中の妄想の助けになるものが欲しい。
「お前は夏の暑さをものともしないようだ。そんな奴には打って付けの場所だろうよ。」
そんな素敵な場所に連れて行ってくれるなんて。彼なら避けて通りたいに違いないのではないだろうか。
「ああ…俺一匹で赴けと言うなら願い下げだ。だが、確かめてみたいことが、一つあるのだ。」
それで、彼が読み耽っていた本の表紙に目をやって、言葉の真意を測ろうと試みる。
「ふうん…。」
“世界樹” か。また難しそうなやつを読んだんだな。
一体、行動に移すことが出来るような何を知りたいと言うのだろう。
燻りかけていた冒険心に火が灯り、俺はどこまでもついて行くよと覚悟を示した。
「よし、飛び込もう。」
再び、彼の世界に。そう心の中で付け加えると、かれは少し驚いて微笑んだ。
「あ、涼しくなってからだぞ。言った通り日没から出ないと…。」
「じゃあそれまでに本の貸し出し済ませちゃおうか。」
最後の帰り道、俺はお隣の家に起きた不思議なことに気が付いた。
「ねえねえ、Fenrir。なんかこの家から甘い匂いしない?」
「うん…? この空き家からか?」
窓も扉も壊れた、初めて訪れたときから何も変わらない小屋だ。
「そう、ケーキを焼いたような…。食べた時の匂い、覚えてるだろ?」
彼の嗅覚なら、俺よりも正確に何かを語ってくれると思ったのだ。
彼は髭をゆらして鼻をひくひくと動かすと、やがて柔らかく微笑んでこう言った。
「お前は…良い鼻を持っているな。」
「えへへ、そうかな。」
狼に褒められたのだから、きっと本物に違いない。
「…また、会えるかな。この土地に。」
あの集会場でもう一度立ち竦んで息を吸ってから、俺は彼の背中に飛び乗った。
この旅で、こんなに後ろ髪を引かれる思いをしたのは初めてだ。やはり、ここで袂を分かつのは、名残惜しい。
もしかしたら、この街は、住んでくれる者が訪れることをずっと待ち望んでいたのではないかと言う気がしていた。だって、そうでなければVesuvaは、俺を歓迎しながらもFenrirをそれ以上に拒絶しただろうから。
土地に、感情が芽生えるなんて聞いたこともないけれど。
「今度は、何処に向かって行くんだろうね。」
「さあな。」
「…お前が望むのならば、あちらからやって来るだろうよ。」
さようなら。
陽の光が弱まる夕刻、人を乗せた狼の影が、静かに街を後にしたのだった。




