26.末裔の道 3
26. Descendants' Path 3
「…ここらで休憩しよっか。」
彼の背中に乗って町中を練り歩いている内に、はじめの拠点とは反対側の街はずれへと出た。
ちょうど良いところで公園に出会うことが出来たので、そこで降ろしてもらうことにする。遊具なんかは無かったが、両脇に小さな雑木林を従えて、突き抜けた向こう側を中央に植えられた一組の机と椅子から眺めることが出来そうだった。点々とある木立が傾いた日を受けて燃えだしている。
一目見て、此処が自分にとってVesuvaで一番のお気に入りの場所になった。家もここの近くに引っ越そうかな。人間にとっては、これくらいのこじんまりとした自然との融和が心地良い。
「もう大丈夫なのか? 気を付けて降りるのだぞ?」
「ありがと…もう青たんできてるよ…。」
「お前は、ほんっとうに良く落っこちるよな…。」
あれから懲りずに別の屋敷にもお邪魔したのだが、そこで3階の窓を開け、身を乗り出してFenrirに向かっておーいと手を振っていた時に、なんと寄りかかっていた窓柵が外れて頭から転落してしまったのだ。
咄嗟に背中で受け止めてくれたものの、高所からの衝撃は吸収しきれず、またも鈍い音を立てて身体を強く打ち、息が止まりそうになった。彼がいなかったらどうなっていたことか…。
着地時に強打した右膝が痛み出したのもあり、邸宅の探索は一度打ち切ることにして、そのまま彼の背中で運んでもらっていたのである。しばらくここから離れることは無いだろうし、また後日探検すれば良い。
「そういう性なのかも…。」
思えば、Fenrirの背中からも俺は落っこちてばかりだ。過去には、これとは比べものにならないような転落を経験している。
「それとも、Vesuvaを見つけるのに運使い切っちゃったかな?」
自分の運を貯金か何かのように言ってみるが、禍福は糾える縄の如しという訳だな、などと難解な答えが返ってきた。
「残念だ。俺も登って見たかったのだが、たちまち崩れるだろうな。」
彼の住んでいた子供部屋は3階にあった。きっとその時の風景を堪能したかったのだろうが、それは流石に無理そうだと思う。
唸りながら椅子に座って一息つくと、短い一日の内であったことを振り返った。
「結局、目ぼしいものは見つからなかったね…。」
そう言って、例の手帳を除く戦利品を机の上に並べてみる。まだ数件の家を漁っただけに過ぎなかったが、手に入れたのはランタンと、奇麗な装飾が施された短刀や民族衣装など、日用品として使えそうで、尚且つあちらに持っていけば何かしら手がかりになりそうなものだけだった。
その中でも異彩を放つのはこの奇妙な形をした弦楽器だが、唯一目に留まって思わず手に取ってしまっただけで、残念なことに自分には芸術が悲しいほど疎い。
「そうか? 随分と魅力的な品々に思えるが。」
またも鼻を近づけて臭いを嗅ぐと、目を輝かせてじっくりと独特の模様を覗き込む。
「もっと当時のことが分かるものを期待してたんだけどなあ。何か書いてあるようなメモとかさ。」
「ううむ、確かに文字が記してあるようなものは無いが…。」
暫く彼は考え込む素振りを見せると、だがそれは当然なのではないかと言った。
「お前が見つけられないようなら、恐らくこの村には無いのであろう。」
「でもさっき言ったように運がどっかに行っちゃった可能性も…。」
「そうではない、この村にそのような文化が無いと言うことだ。」
どういうことだろう? 首を傾げると、彼は自分の考えについて語ってくれた。
「これは俺の狭い見識から物を言っているに過ぎないのだが、文字を読み書きできる人間と言うのは、そう多くないのではないか? 俺もお前も良い御身分なようだから当たり前のように使うが、この土地の人々にとっては無用の長物であったのかも知れん。そうであれば、残っていなくとも何ら不思議ではない。」
そうか、言われてみれば、ヴァナヘイムでも文字の類を目にしたことが無い。俺やFenrirが扱うことのできるルーン文字はおろか、現地に根差したそれすら無かったとすると、とんだ見当違いだった。
それで俺は、初めて現地人と家畜を手に入れるための交渉で貨幣のやり取りを断られたことを思いだした。袋に詰まった金貨が何の役にも立たないと言われたのは、ヴァナヘイムでは物々交換が主流だったからなのだと分かった。
「だが裏を返せば、それはお前の目論見通り、重要な手掛かりになる。」
「え、どういうこと…?」
「簡単なことだ。お前は崖の洞穴で見つけた文字を探しているのだろう?」
Vesuvaの話をしているところで、突然話の確信に触れられ、思わず意表を突かれた声を出す。
「この土地で幸運にも巡り合えた文字の痕跡があったなら、それは間違いなく、あの洞穴に刻まれた跡であり、持ち主はあの狼を描いた者だ。」
「…。」
「そうだろう?此処で刻まれることはないはずなの文字なのだから。」
この狼には、自分の頭の中が透けて見えるのだろうか。彼の同意を求める眼差しにそんなことを考えずにはいられない。
或いは、既に自分のポケットにある手帳の存在に勘付いているのだろうか?
そうだとしたら、こんな遠回しな警告のうちに見せてしまった方が良いような気がする。
「まあ、見つかればの話だがな。それに、見つからなければ、それはそれでヴァナヘイムとやらにその者が住んでいたことの証左になろう。そうなれば、もう俺のあずかり知らぬことだ。お前が好きなように、真実を突き止めるが良い。」
彼は俺の顔にどんな表情を見たのか、目をゆっくりと逸らして声を明るくする。
「仮に、似たような文字を見つけられたところで、解読するのは至難の業だろう。現地の人々ならいざ知らず、俺に言わせれば暗号のようなものだ。いずれにせよ、お前の試みは正しいとは思うが、過信しすぎるのもどうかと思うぞ。」
どのような手掛かりであっても、憶測の域を出ないことに満足すべきだと思うがな。と忠告めいた言葉を口にすると、それ以上俺を揺さぶることはしなかった。
動揺を少しでも紛らわしたくて、弦楽器の傷んだ糸をぴんと弾く。期待外れの音が虚しく響いた。
「…それは、何に使うものだ?」
彼はこれも調理道具の一つであると思っているらしい。
「楽器だよ。こうやって音を出すんだ。」
「おお! お前は何か弾けるのか?」
俺は笑って首を振った。期待に尻尾を揺らしていたのに、なんだか申し訳ない。
しまったな、何か一つでも知っていれば、それに合わせて吠えてくれそうな勢いだと言うのに。そんなFenrirは滅多にお目にかかれないだろう。
「では、歌は知っているか? 本で読んだことがあるぞ。そのような音色に乗せて朗々と紡ぐ言の葉があると。」
つい先ほどまでの賢狼はどこへやら、身を乗り出して尋ねる表情はなんともあどけないな。
聞いたことのある歌を思い返そうとしてみるが、悲しいほど記憶に残るようなものが思いつかない。
一つだけあったが、とても恥ずかしくて言い出せなかった。
「愛しの君へ送った歌でもあると言うのか?」
「そんなわけないだろ…!いくら俺でも、頭お花畑じゃないんだから。」
頭お花畑だろうがと言わないまでも、そうかそうか、では穿鑿など野暮であった、みたいな顔をするので、仕方なく白状することにした。
「逆だよ…。俺のことを讃えた歌、というか…。」
彼はどういうことかと目をぱちくりさせたが、すぐにそれがどういったものか悟ったようだ。
「英雄譚、と呼ばれるものだな?」
「まあ、そんなところ…。」
ああ、嫌だ。忘れてしまいたいほど恥ずかしい。思わず赤面したのを感じたが最後、一瞬で時間を奪うような記憶に視界を遮られる。
しかし、それが更に好奇心を掻き立てるかと思いきや、彼は嗅覚で巧みに一歩下がったのだった。
「俺はそのような英雄などではない、と言いたげだな。」
英雄とはそう言うものなのか? からかう口調ではなかったにも拘らず、お前には分からないさと言いそうになった。
実際、自分がしてきたことが英雄的だとは到底思えなかったし、寧ろ引きずるべきものから目を逸らしたいとすら願っているけれど、それも鑑みれば今の地位に堕ち着いてからのことであるような気がする。
誇る意味を、肯定する意味を信じては、照れ臭く思いながらその詩を悪くない気分で聞いていたのではなかったか。
彼が良い機会をくれた気がした、そのことを話す頃合いなのかもしれない。
「俺にとっては、お前は英雄みたいなものだがな。生憎そうした歌を俺も知らないのだ。」
「…。」
そう思ったが、話がそれたなと水を差されて開きかけた口を閉じてしまう。
何の、話をしていたのだっけ。
そうだ、この街の、過去の話だ。
Fenrirからしてみても、Vesuvaがあの狼と何か関係があると分かった以上、此処で起きたことを知りたいと思う気持ちは自分以上に強いはずだった。彼がその狼に対して並々ならぬ感情を抱いているのは痛いほど伝わってくるし、俺であれば焦って狼狽えていたかもしれない。そんな様子をおくびにも出さないでいてくれる彼に、せめて何かしら自分の方で分かったことを報告しておこうと思ったのだった。
「昨日は、ごめんね…。その狼のこと悪く言っちゃって…。」
「お前が何の根拠もなしに言ったとは思わん。」
喩え、はじめはそれが思い付きであったとしてもな。棘があるとも取れる言い方をするのは当然とも言えたから、ますます弁明の機会が必要だと思った。
「Fenrir…人間は戦う時、武器を持つ。」
それは、剣や槍などだ。彼の中で知らないものは無いらしく、その言葉に黙って頷く。
「傷つきたくないから、それから身を守るために防具なんかを纏うんだ。」
「それは鎧や、兜だ、と言うことだな。」
「そう。でもそれが…見つからない。」
あったとしても、狩猟に用いそうな弓矢や、このような短剣で、おおよそ来るべき戦いを見据えた備えではない。平和に暮らしていた者たちの辿る末路は、残念ながらこのようだ。
「それがヴァナヘイムが生き残って、Vesuvaが滅んだ理由の一つだと思う。」
今度は机に置いた小刀を手に取り、柄を少し抜いて刃の様子を一瞥する。おおよそ使われた形跡はない。
「今ここに持ってきたものって、現地の人にとっては貴重品なんだ。」
「ああ、とても奇麗だからな。」
「こうしたものがそのまま残っているようなことからも、やっぱりVesuvaには人が攻め入ったという考えも間違いだと思う。」
この街が戦った相手というのは、つまりヴァナヘイムの神族ではない。かと言って、他の誰かに明け渡したわけでもない。
「では…。」
それは、今まで目にした国の最期よりも奇妙に思われた。
「移民だよ。」
「…?」
「この地の人々は、立ち退かざるを得なかったんだ。」
あのヴァン川が、境界線だと言っていたね。昔、Fenrirがそう教えてくれた。この川よりこちら側に人間は来てはならないのだと。
「その話は、ヴァナヘイムでも聞いたことがあるよ。理由は教えてはくれなかったけれど…。」
「狼が脅威だった、と言いたいのか…?」
恐らくそうだ、と俺は答えた。断定とまでは行かないが、Vesuvaをそのまま捨て、脅威が行き届かない安息の地まで敗走したのは間違いない。新たな土地がヴァナヘイムなのか、はたまた吸収されて現在に至るのかまでは流石に分からなかったが。
そして狼という存在は、Vesuvaの動くという不気味な習性を説明するのに有力な候補だと思ったのだ。
「でもそれは、悪いことではないと思うんだ。」
彼の目が不安げに曇る前に、俺は慌てて持論を続ける。
「だってそれで、Fenrirのそっくりさんが人間を襲ったと言うことにはならないだろ? 実際に人間を傷付けるところまで至っていたなら、この街はこんなに美しい景観を保ってなんていられない。…それはFenrirが一番よくわかるだろ?」
「あ、ああ…。」
此処からは、正直なところ自信のない推測だ。
「だから、Vesuvaの人々に狼の妄想が膨らんでしまった理由がある。」
「…裏切り者…か…!」
彼の耳がぴくりと捻じれる。恐らくは、例の洞穴で俺に見せてくれた壁画とメッセージの主だと行き着いた。
でも、そんな呼び方までするのは、ひねくれ過ぎなような気もする。
まあ、深めていたであろう友好が、良からぬ獣との内通であるように曲解したことが発端であるのでは、という意味なので間違ってはいない。
「そんなっ…!」
彼は急に立ち上がり、地面を一心に見つめて、伝えた事実を必死に飲み込もうとしていた。
出来ることなら、こうしたことは、手帳に記された文字を読み解いてからにしておきたかった。
けれども、かの大狼が関わっている以上、これだけは分かっておいて欲しかったのだ。
呆然とする彼に、恐るおそる声をかける。
「Fenrir、落ち着いて聞いてくれ…。」
「落ち着いていられるかっ! 分かっているのか、お前は…!」
「Fenrir、大事なことなんだっ…!」
怒声にも近い言葉を、勇気をもって押し返す。彼の鼻面をしっかりと掴んで、目を合わせる。
「狼は、人間を殺さなかった、良いね?」
「…。」
それは、彼と出逢ってから、最も気にかけていることだった。
だからVesuvaがFenrirから逃げるように動いているという仮説を唱えた時、彼の表情が最も大きく動いたのだし、それを恐れて俺はあんな夜を駆けたのだ。
何があったかなんて、分からないけれど、
Fenrirが貫き通したように、彼の狼が人間を傷つけることはしなかった、そうだよね。
「…この大馬鹿者がっ!! そのようなことは問題ではないのだっ!!」
「えっ…?」
一段と大きな怒号を真正面で当てられ、面食らう。眼が怒りに震えていた。
「お前は…お前は、分かっているのか!?その構図が自分にも当てはまっているのだぞ!? もし俺のせいでヴァナヘイムとお前に何かあれば…!!」
瞳が一度閉じられると、そこから涙が零れ落ちた。
「俺はどうしたら…。」
「…。」
それは…。
そんなところまで考えてはいなかった。どう答えれば良いか分からず、言葉に詰まる。
心配ない、そんなことは絶対に有り得ないとは言えなかった。それでは今までの論法が全て投げ出されてしまうばかりではなく、どれだけ人間に対する彼の態度が素晴らしくても実を結んでしまう帰結だったからだ。
実際のところ俺のことを良くは思っていない輩なんて、それこそ山ほどいるだろうが、Fenrirとの密会について嗅ぎまわり、一端を知る者はどれだけいるだろう。
その上で俺を貶める材料に、Fenrirを利用してやろうと目論むようなことが
…Freyaぐらい、か。
思い当たる節として彼女が浮かぶことに、思わず笑ってしまった。
皮肉なことに、彼女の気持ちが少し分かったような気がする。
「その時は…一緒に暮らさないか?此処で。」
こんな僻境の地まで狼と裏切り者を追い回したりなんかしないだろう?
誰にも迷惑なんてかからない。誰かを傷つけることに怯えたりなんかしなくて良い。
だからずっと、Vesuvaにいよう。どちらかの命が潰えるその時まで。
「その時までに…Fenrirに聞かせてあげられるような歌を覚えておくから。」
「Teus…。それは、間違っている。」
目を真っ赤にして、おろおろと首を振る。
「もし、そうしていたなら…あいつはただ一人の友達と、最期まで一緒にいたはずなのだ…。」
「…?」
「あいつは…ずっと一匹で、俺のことを…待っていた…。」
どういう…ことだ…?
「一匹で…死ぬのを…待っていたのだあ…。」
「…。」
彼の中で、自分たちが過去の惨劇を追体験させられているような錯覚に陥っているのだと分かった。
それだけ抗い難い、強力な運命に引き寄せられている感覚は拭えなかった。もしかすると、俺は彼の言う通り、Fenrirを一匹で死なせてしまうのかも知れない。そういう筋書きに、なっているのかもしれない。
俺とFenrirの物語は、自分の力で紡ぐことはできないのだろうか?
この物語の結末は、変えられないのか?
「それでも良いさ。」
変えて見せるさ、などと恰好の良い台詞はとても吐けなかった。
「きっと、俺が先立ったんだ。」
「でもFenrirは、優しく俺のこと看取ってくれるだろ?」
「…。」
「そして、俺のことを思い返しながら、残りの生を生きてくれるだろ?」
予言された壊滅なんか信じて怯えるのはこれぐらいにしよう。
お腹空いただろ?あんな下手な料理なら、いくらでも作ってあげるからさ。
え、ちょっと塩辛かった?
そうか、もっと練習しなきゃなあ…。
目玉焼きですら、まともに焼けないのだから。




