22.荒野の再生 2
22. Reclamation 2
Fenrirの毛皮は、少し獣くさいけれど、お日様に当てられた布団のような温もりがあった。
立派な毛皮だろうと自慢するだけあって、野生の動物であるにも関わらず、本当に毛並みが良い。
少し内側の毛がごわごわしているけれども触り心地は抜群で、一生もふもふしていたいぐらいだった。
いつかブラッシングしてやろうと目論んでいる次第である。
それで、今の身体の状態はどうかと言うと、やっぱり悪いようだ。
昨日はもういかにも衰弱と言った感じで、正直具合がどうだったかなど覚えていないのだが。
Fenrirは少し元気になったかなと言ってくれたし、目が醒めたばかりの時はそれでもだいぶ楽になったように感じていたけれど、さっき少し体を動かしただけでしんどくなってしまい、これは駄目だとわかった。
彼の言う通り、じっとしているのが今は一番よさそうだ。
あれだけ大泣きするFenrirは久しぶりに見た。よっぽど俺が体調を崩してしまったことに責任を感じているのだろうと思うといたたまれない、はやく元気になろう。
洞穴を見渡す気力も、現状を把握する気力もあまりなく、轟々と遠くでする滝の音もあまり耳に響かない。
何か重ねて身に纏っていないと寒気がして、座っているのも少し辛い。
はやく帰ってきてくれないかな、Fenrirの毛皮に潜って寝たい…。
身体をその場に横たえ、昨晩取り出して火の尽きたランタンをぼんやり見つめる。
Fenrirが先ほど話してくれたことの意味を、少しでも掴もうと考えた。
聡明な彼の考えることは、自分の頭ではどこまで深いと受け取れば良いのかが、いつも分からない。
けれども彼の、救われることへの価値観のようなものを、自分が作り上げてしまっているのなら、それは…。
内省は長くは続かず、それは一つの爆音とともにかき消された。
「…。」
あいつ、また何かやらかしてるな…。
ズドゥォオオオオンンンンンッ…!!
大木が一本、滝の壁を突き抜けて飛んできたのだ。
水圧で地面に叩きつけられ、俺の目の前まで滑って止まる。
ランタンが吹っ飛んだんだが。俺の位置はちゃんと把握していたんだろうかあの狼は。
俺が両手を広げても半周にも届かないような太さの丸太が、根本と、枝葉があったであろう先が切り落とされてあった。倒木であると信じたいが、切り口からのぞくやわらかな肌色が痛々しい。
添い寝をするような態勢でランタンの代わりにしばらくその大木を眺めていると、今度は水面からざぱっ、という音がして、Fenrirが現れた。
彼は上陸すると、一度水面に顔を近づけ、もう一本の丸太の一端を引っ張り出す。
…え、まだあるの?
全長が大狼1匹分もある丸太を2本、彼は運んできたのだった。
もし俺が元気で、口を聞く気概があったとしても、彼には呆れてものも言わなかっただろう。
ましてや今、である。
俺がそんな目つきで視線を送っていると、Fenrirは一瞬極まりの悪そうな顔をしたかと思うと、悪びれずに答えた。
「その…、お前に当たるほど強く投げてはことだ、と口から離した刹那思ってだな。2本目は丁寧に運んできたのだ。」
「…そーだね。」
冗談だと思いたい…。ただでさえ冗談のような行動に及んでいるのだから。
しかしその次の行動はさらに俺の想像を超えた。
Fenrirは運んできた巨木のうち一本を口に咥えて軽々と持ち上げると、眉間にしわを寄せて小さく唸り声をあげる。
「ぐるぅぅ…。」
ぱきっ、と柔らかな音とともに丸太は真っ二つに割れてしまった。
その一方をまた咥えて砕き、鋭い爪でいとも簡単に大木を引き裂いていく。
そ、そんな。家屋がつくれる太さなんだぞ?
この狼の前ではレンガの家すら頼りないだろうが…。
彼が食事をするときに、肉を喰らいつくして骨だけをきれいに残すのを見てきたけれど、あれは単にFenrirの行儀が良いだけだとわかった。きっと彼にとってあんなの小骨のようなものでしかない。
恐ろしいと錯覚する光景とは裏腹に、小枝を折るような子気味の良い音がしばらく響いたかと思うと、一本の丸太は手ごろな大きさの木切れに姿を変えていた。
そしてその内のいくつかを纏めて加えると、俺の目の前でばらばらと落とす。
あっ、そういうことか。
彼は焚き火に必要な薪を調達してきてくれたのだ。
確かに滝の門を何度もくぐって往復するよりも、こうしてでかいのを一度持ってきてしまったほうが効率が良い。木もそんなにしけらずに済む。
またも火炎放射で火をつけると、生きていた木とはいえ、樹皮の油もあってか薪はすぐに燃え上がった。
少しFenrirと離れていただけでも寒いと感じていた、ありがたい。
「…これで我慢してくれ、直ぐに戻る。」
黙って頷き、身体を丸めたままゆっくりと両手をかざす。
実を言うと、こうしていると背中が寒い。後で寝返りを打てば良いのだが、やはり身に纏うものか、Fenrirのぬくもりが欲しい。
彼はもう一本の大木を口に咥えてそそくさと焚火の傍に寄せると、俺のマントを広げて被せ、乾かしておいてくれた。
どうしてか、Fenrirは火との距離感を知っている。マントが燃えてしまわないよう気を付けるそぶりを見せた。熱さを知らない、という訳ではないのかな。
それから彼は俺の様子が大丈夫か伺うと、すぐ戻るともう一度約束して去っていった。
あっという間の出来事だった。
Fenrirでなければ一瞬でこんな芸当はできない。
俺はゆっくりと起き上がると、身体を丸太の傍までひきずり、もたれかかるようにして座った。
動くのはやはりしんどかったが、先ほどの態勢で寝たままでいるのは良くないと思ったのだ。
移動し終えて居ずまいを直すと、震える長い溜め息を吐く。
「ふぅー……。」
焚き火の奥には、Fenrirが出て行った滝の入り口が見える。その奥に広がる景色は、彼が教えてくれた通りならば、動物たちが憩うような水辺と、少し荒れた雑木林が広がっているはずだった。
カーテンに閉ざされているが、今は昼なのだろう、ぼやけた明かりが透けて見えるだけだ。
まるで別世界への入り口だった。
実際のところ、そのような入り口を何度か見たことがあるし、くぐり抜けた先を歩いたこともある。
ゆらめく光がそう感じさせるのか、冒険というか、期待に胸を膨らませてその扉に手を触れるのだ。
…その先に何があるのかを見たい、とはもう思わない。
好奇心を失った、とかその先でひどい思いをした、という訳ではない。だが、もう二度と行かないと決めたのだ。どこにも。
だから、Fenrirにはなぜか、置いて行かれてしまったような気分になっていた。
この扉の先へと俺は進めない、ここにいるしかない。彼がもし、帰ってこなかったら、俺は、ずっとここで独りだ。
…Fenrirもそんな気持ちでこの森を生きていたのかな。
突拍子のない空想にFenrirを重ね合わせるのは失礼だと思い、その先を考えるのをやめる。
狼がこの森で生き延びてきたことと、人間のばかげた英雄譚を同じ土俵に並べるのは余りにもかわいそうだ。
ただ、Fenrirがどこかに行ってしまって寂しい、という気持ちが彼への同情を誘ったのだった。
…もう良い、なにか別のことを考えよう。
Fenrirは甘いものが食べたい、という我儘に、どうやって答えるつもりなのだろう、とか?
やっぱり身体がつらい、背中を丸太にこすって上体を倒し横になる。目をつぶったら眠れそうだった。
それなら少し休もう、Fenrirは当分帰ってこないだろうし…。
「……。」
意識が薄れて楽になっていくのを感じていると、ざばっという水の音で戻された。
見れば狼の顔が水面から顔を出している。
Fenrirだ、もう帰ってきたのか。
彼は何も言わずに陸へ這いあがると、丸太のもとへ移動した俺を認め、小走りで駆け寄った。
待たせたな、といつもなら言いそうだけど、と思った矢先に口を開く。
「…ぶぁはっ…。」
どさりと音も立てて地面に落ちたのは2頭のカモシカだった。
なるほど、彼の大口なら丸ごと口の中に放り込んでおいて運んでしまった方が滝の入り口を潜り抜けやすいのかもしれない。
理にかなっているとはいえ、相変わらずやっていることがクレイジーだ。
別によだれは気にならない。彼のなめていた飴玉を、俺は皮ごと食べる気はないし。
そんなことを思っていると、Fenrirはまたすぐ戻るとだけ告げて滝の壁に向かって飛び込んで行ってしまった。
「あっ…うん…。」
この洞穴は時間の感覚が薄れる。目をつぶっていただけだが、結構時間は経っていたのだろうか。
気分はちょっと良くなった気がする。横になるのを止めて、座っていても良さそうだった。重たい身体をどうにか起こし、丸太に頭をそっとあて天井を眺める。
昼下がりの病室のようだ、と今度は思った。
どんな病気でも、どうしてか夜の方が苦しい。まるで魔物かなにかの力が強くなり、守ってくれる神様の力が届かなくなるような感じだ。
だから峠を乗り越えて夜の帳から最も遠い日中はほっとする。
今だけは死神の類にもおびえる必要がなかったから。けれども少しずつ日は傾き、やがてまた闇の支配が訪れる。
そんな緩やかな滅びの予感に目を背けられるぐらいには平和で、けだるいのだ。
Fenrirはどんな気分でこんな憂鬱になりかねない時間を過ごしていたのだろうか。彼は頭が良いから、必ず苦しむと分かっていただろうし、余計に怖かっただろう。
いやだな、そんなことを考えてしまうのは。Fenrirが苦しそうにしているのを見るのは、本当につらい。
自分も狼のことを言えた義理ではないのかもしれないが。ちょっと体調崩しただけでこんな気分になるなんて、Fenrirに言ったらどう思うだろう?
…やっぱり横になろうかな、眠っている方が遥かに良い選択である気がする。
またすぐ、戻ってきてくれるよね?
右手を地面につき、どさりと身体を倒す。思わずため息が漏れた。
「はぁあ…。」
Fenrirは一匹でこの森を旅し続けてきたと言った。それは本当にすごいことだと思った。
自分だって幾度も長旅を経験してきたものだったが、そこには誰かしら、意思の疎通ができる人間がいた。たとえ分かり合えないような相手だったとしても、何かしら触れ合えたのだ。
それができないような、こんな世界に生き続けては、狂ってしまうのではないかという気さえした。閉口した思いはどんどんと、自分を沼の中へ引き込んでいく。
独りで生きていたいなどとは軽々しく言うものではなかったのだ。それがわかっただけでも、この旅は過酷ということなのだろう。
Fenrirはどうして、十数年もの間、生きてこられたのだろう?
ちょっと卑屈で、死にたがりなところがあるけれど、それでもなんとか生きてきたのだ。俺はFenrirのその命をなんとかつなぎとめることができたけど、そんな繋がりもなしに、今までどうやって…。
それはずっと謎のままだ。
彼が崇めているであろう、あの狼の存在のおかげなのだろうか。
いつか、教えてくれるのかな。
どんな狼なのだろう。
きっとFenrirにそっくりに違いない、それだけはFenrirの親友として自信を持って言えるのだった。
うん、やっぱり自分以外の誰かを考えていた方が、遥かに健全でいられて安心する。
また微睡んできたなというところだった、当の本人がすがたを現した。
首から上をひょいと水面から出し、俺の方を見ると、目をぱちくりとさせてまた戻って行ってしまった。
「え…?」
帰って来たんじゃなかったのか。
どうしたのだろう、俺の様子でも見に来たのかな。
だとしたらちょっと心配しすぎやしないかと思ったけど、なにかFenrirの勘に訴えるものがあったのかもしれない。それが取り越し苦労だとわかって安心してまた狩りに戻ったとか、そんなところだろう。
彼が意味もなく行動するとは到底思えなかった俺は、そんな風に思うことにした。
それに、自分だってFenrirのことが心配で、あの大雨の夜にたまらず駆け出したではないか。
今は立場が逆である、ただそれだけのことだ。
あのとき彼が綴った言葉は、やっぱり到底飲み込むことが出来なかった。
彼の声はひどく自分の心に刺さるのだが、それが人間の言葉ではないせいか、形がどうしても朧気で、つかみきれない。Fenrirの心の奥に入っていける気がしない。
どうなんだろうな、実際のところは。
Fenrirは、あの狼は、俺を何処まで許してくれるのだろう。




