21.電脳の森 3
21. Electric Forest 3
雲の流れとか毛先の感覚とか、そういうものでしか俺は天気を察知できないが、これからが荒れることだけは確信していた。
「今晩、ここに留まることはできない。直に空の模様も怪しくなっていくだろう。」
「そうなの?こんなにすっきりした天気なのに…。」
山の天気は変わりやすいからな、今は確かにそうだが厚い雲がもう峰を超え始めている、とTeusに教える。
「とにかく、こんな吹き曝しの下で一晩過ごせば俺だって風邪を引いてしまう。今日中に次の目的地へ移りたいのだ。」
なるほど、わかったよと残念そうにTeusは頷いた。
「…大丈夫だ、また来れるさ。」
俺は思い出の中から、自らの琴線に触れた森の景色をTeusに見せてきたつもりだった。そして実際彼が、感動して、共感してくれるのを、俺は嬉しく思っていたのだ。
「…うん、ありがとう。」
これが最後だと覚悟するのも良いが、期待するのも悪くはないかも知れない。
「それで、次に泊まる場所ってどれくらいかかるの?」
「うむ…早くて日没、といったところだ。」
希望的観測だ。また真夜中までこいつを背負って歩く可能性もある。
「それまでに天気は崩れるだろう、しかし俺たちも森の中へは入る。ここより雨風はひどくないだろう。」
そっか、とTeusは何も気にも留めず展望を受け入れる。俺は懸念していることをTeusに説明しにかかった。
「なあ…お前、寒くはないか?」
「そうなんだよ!昨晩から急に寒くなったよね。今も風が吹くとけっこう冷たいし…。春だと思ったのに一気に冬に逆戻りだよもう…。もふもふなFenrirにはわかんないかもしれないけど。」
「も、もふ…。」
突拍子のない質問だと思ったが、ずれた答えが返ってきた。
彼の言うモフモフな俺は確かに、あまりここ最近の寒さが堪えてはいない。しかし毛皮を身に纏っていない人間からすれば、体調を崩すには十分な冷え込みではあった。
「い、いや違う…そうでは無くて…。」
俺が聞きたかったのは、具合が悪いときの、あの風が吹くだけで身が削れるような悪寒はないかと聞いているのだ。
もしそうであれば、風当たりの良い俺の背中で揺さぶられるだけでもかなりしんどいはずだ。
冷たい雨にも打たれるとなると、体調の悪化は免れない。下手をすれば…。
…元々弱っていたならいざ知らず、Teusが死ぬことはないだろう。
いいや、やめろ。俺がいるのだから万が一でも絶対死なせなどしない、だが…。
経験上見ず知らずの土地で病を患うというのは思っている以上に堪える。
拠り所の無さが、どうしようもない不安感となって弱気な身体に追い打ちをかける。
そして、一匹だとなおさら辛い。
自分は一匹だと改めて向き合う。このまま一匹で死ぬ、と考える。
…それだけは絶対にTeusに味合わせてはならない感情だった。
良く知った相手ではないかもしれないが、Teusの支えになりたい。
その決意を口には出さず、またTeusにこれ以上体調のことを考えないよう話を切り上げて、ことが上手く運ぶよう俺は祈った。
「寒い…やっぱりこのマントじゃ足りなかったかなあ?」
「…随分分厚そうなものを羽織っているように見えるがな。」
俺は焦る気持ちを抑えて穏やかな口調で答えた、言うまでもなく走るスピードを緩める。
その手の外套は便利かもしれないが前が開いているからな、風ではためいて身体が温まらないのだろう。
「裏地が毛皮のやつとかもあるんだけど冬用だから必要ないと思ってた…。」
「うむ…。」
少なくとも、Teusの寒気が止まらないということだけはわかった。
曇天の下とは言え、決して鼻先は寒くないし、食事は彼の体温を上げた筈だった、もう疑いようがない。
空は今にも割れ、崩れそうだった。いや、既にひげが雨を感じている。
俺たちは今、はるか先にようやく見えだした疎らな立木に向かって湿地を駆けている。
これから悪くなる泥濘に足を取られていくことを思うと、それは心情と等しくもどかしかった。
こんな場所あっただろうか、記憶にない。恐らくは俺がこの土地を闊歩した後、風景を変えている。
「Fenrirの首の後ろ側の毛の中に顔埋めてても良い?すごいあったかい…。」
「…好きにしろ。」
彼が言っているのは狼の首周りに生える、毛先の長い立派な毛皮のことだ。
自慢のそれなので、尻尾の次に触るなとうるさく注意していたが、この際どうでも良かった。
「あー幸せ。この毛皮の中埋もれたい…」
寒さから来る言葉なのか、それとも単純に肌触りが良いのか、どちらにしろ触られて悪い気分ではない。
彼曰く、毛皮に包まれた動物の中に顔を埋めてすーはーするのを”ケモ吸い”と呼ぶらしく、しきりに俺にそれをせがんできていた。夢が叶って良かったということにしておこう。
「特別だと思え、風邪を引いた子に親は、…やたらと甘くするのだろう。」
何かおいしいお菓子でも持ち合わせていれば良かったのだが。
「ちっちゃい子扱いかよ」
Teusは苦笑する、と同時に軽く咳き込む。耳元だったので驚いて右耳がびくんと動いてしまった。
「優しいなあほんと、Fenrirは…。」
声がしんどそうだ、それを辛いと思った自分を諫めた。
こいつの方が、もっと辛いのだ。
「…なあFenrir、ずっと気になっていたんだ。Fenrirはどうして…その、そういうことを、知ってるんだ?」
「……。」
俺は、止まりそうになった。
「Fenrirがそんなことしてもらえなかったと思ってるのは、とんだ間違いだったのかな。だとしたらごめん。でも…」
渇望していたからこそ、良く知っていると思われることは、この上なく俺の自尊心を傷つけた。
「黙れっ、そ、それ以上……!!」
俺は声を荒げ、その続きを無理に制しようとする。
「あれかな、そのFenrirがときどき話してくれる狼との記憶なのかな?」
「なっ…にを…。」
今度は、完全に歩みを止めてしまった。
「なんて名前なの? その狼は。」
ようやく気が付いた、雨が降っている。
「も、もう良かろう…、楽にしているのだ…。」
それ以上の言葉をお互いが発することはなく、俺はTeusが振り落とされない限界までスピードを上げた。
もう抑えきれないとばかりに雨足は一斉に強くなる。
何もかもが上手くいかなかった。
こんなとき、苦しいと身体にわからせるかのように、息を止めていたくなる。
裏目などない、懸念した最悪の事態は、すべてその通りになった。
どうしていつも、俺は…。
走っているのだから、それはすぐに苦しいとわかった。
苦痛に顔を歪めて、それが泣き顔に似ているからか、自然と目には涙が溜まる。
雨だかよく分からないものに流され、もうTeusを乗せていることすら忘れるほど、俺の思考はぐちゃぐちゃだった。
辿り着いた森の中へ踏み込んだ時も、気が付けばとか、ようやくとか、そんな感情は一切わいてこなかった。
申し訳なかったが、早くTeusを、という気持ちすらなかったのだ。
放心状態のまま、記憶に任せて駆ける。
雨は幾らか凌げても、曇り空の下の森は闇の中を進むに等しかった。動転しておおよそ狼としての思慮に欠けていた俺は、何度も身体を木々に擦り、脚をとられた。
牙のように突き出た幹で脚を切り、一度体勢を崩してTeusを揺さぶり落してしまったが、どさりと地面にぶつかる音がするまで全く気が付かなかったほど俺は、自分の惨めさで覆いつくされていたのだった。
はっとして踵を返し、駆け寄るも、Teusは既に意識を失っているらしく、動かない。
…どこかでこんな瞬間に出会った、いつだろう。
ああ、始めてこいつがこの森に来た時、か。
どうでも良いが。そう言えてしまうほどに腐っていた。
声をかけることすらせず背中に乗せ、とぼとぼと歩く。
彼を助けるために、急ぐ気になれない。
その契機すら探せないまま、脚を引きずるようにして歩き続けたのだ。




