16.むかしむかし 1
16.Once upon a Time
約束の2週間が過ぎた。
再び足を踏み入れた森は、春の盛りを迎えすっかり様変わりしており、どこに目を向けても溢れんばかりの生命が眩しい。
ずっと春だったら良いのに。
それならこんな日和が、自然の中を生きる疲れを多少なりとも癒してくれるだろう。
だけれど、季節が巡ってこその春なのだから、そんなことは望むべきではないのかもしれない。
とにかく彼は、その訪れに合わせるようにして見事復活の兆しを見せてくれた。
暫くぶりだけど、元気にやってくれていただろうか。
呆れるくらい多難なやつだから、またどこかでぶっ倒れていたりしないか心配でならなかった。
でも今回は、以前のような悪い虫の知らせはなかったし、大丈夫なのだと信じよう。
洞穴へとようやくたどり着き、俺は姿を人間へと変えた。
少し怖くて胸が痛んだ。力なく横たわる彼の姿が頭から離れなかったから。
例の如く、開けた洞穴の傍に鎮座する岩山にはいなかった。
とすると、洞穴の中か、或いは出かけているのか。
嫌な既視感を覚えつつも、広場の中央へと進み出る。
「…!!」
そこへ右手の茂みから一匹の狼が現れ、悠然と俺の前で止まって見せた。
驚いた。
陽の光を従えて、彼の纏う毛皮の先端は白く透きとおって、とても立派に見えた。
そして威風堂々としたその動きの一つひとつから、まさしく彼がこの森に君臨した王者であることが感じられたのだ。
彼は、もう誇り高き狼であったのだ。
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「見違えたじゃないか!!」
彼ははっとしたような表情を見せると、笑顔で俺に歩み寄った。
「…久しいな。」
そう言ってもらえて嬉しかった。自分でもそう思うから。
「もう、初めてあったときの狼とは思えない。」
そう言って俺の胴の毛皮をそっと撫でる。
「…毛並みもだいぶ、良くなった。」
俺は彼に見せることなく、表情を暗くした。
そう言いながら、密かに俺の体つきを確認しているのがわかった。ちゃんと食べて、痩せ細っていた筋肉を取り戻せているかが気がかりだったのだ。
「もう、大丈夫だ。」
また心配をさせてしまった。
「…本当に、迷惑をかけた。」
「良いんだよ。生きていてくれて本当に良かった。」
彼の微笑みが忘れられない。
「箱の中身は、全部食べてくれたみたいだね。」
中を覗いて、彼は嬉しそうに言った。
「ああ、皆平らげてしまったよ。」
次に会う時までは空っぽにしてしまおうと思って。この数日間はとにかく食べて、良く眠った。
もう眠れないぐらいに体力を持て余すと、できるだけ洞穴の周辺を散策するようにして、程よく眠れるぐらいに留めて、なんと狩りは一度も行わなかった。箱の中身を喰いつくすまでは静養しようと、今回ばかりは慎重だったのだ。
みるみるうちに体力は戻り、思考もだいぶはっきりしてきたように感じる。
あれから、気持ちの整理もついたと思うし、今では走り出したくてたまらない。
そして今朝、最後の丸々と太ったヘラジカを食べ終えて、療養生活を終えたのだった。
また、怪物として生きていく。今までとは違う生き方だ。
「よし、それじゃあ早速…。」
彼は懐から例の鍵を取り出し、視線を移した先には、前よりも遥かに大きな銀の箱があった。
それに目を奪われている間に、俺か空けてしまった箱はもうそこにはなかった。
「今度はみんな野生だよ、もう放し飼いで良いかな?」
Teusは鍵を開けながら尋ねる。
無論、大丈夫だ。最早狩りに苦労することはあるまい。
扉が開いて、一斉に動物たちが野に放たれる…と思ったが、彼らが出てくる様子はない。
中を覗いてみると、突如連れてこられた新しい世界に戸惑っているようだった。人間とけた外れに巨大な狼に恐れをなし、奥へと引っ込んでしまう。
どうしたものかとTeusと顔を見合わせると、俺は箱の入り口に立ちふさがって恐ろしい唸り声を上げた。
「grrrr…gaaaar!!」
そして中へと押し入り、追い立ててやった。
途端に一目散に出口へと駆け出す動物たちにひき殺されないよう、慌ててTeusが道を譲る。
「うぉっと…危ない。」
轟音とともに、動物の群れが自然へと帰っていく。
昼食用にと一頭の雄鹿を口に咥えて出てきた俺とTeusは、その様子を呆気に取られて眺めていた。
夥しい頭数だ、はじめに彼が用意してくれたのとは比べ物にならない。
一体どうやって手に入れたのだろう。
最後尾で逃げ遅れた鹿をもう一頭仕留めて息の根を止めた頃には、辺りに動物たちの姿はなくなっていた。
人間の存在に慣れていないからだ、野生と言うのはどうやら本当のようだな。
「安定して供給できる目途が立ったんだよ。」
そのことをTeusに話すと、嬉しそうな答えが返ってきた。
「あっちに戻った時に話をつけてきたんだ。これでもう動物たちを探し集めずに済む。」
一体どこから調達したのだと尋ねてみても、彼はコネは持っておくものだねと意味ありげに笑うだけだった。
「…今俺たちが目指しているのは、この森の自立なんだ。」
Teusは鍵をしまい、そう続ける。無論そこに箱の姿はなかった。
「最終的にFenrirが食べる頭数と、動物たちの繁殖のスピードが釣り合って、もうそれ以上こちらが手を加えなくても良いようにしたいんだ。…今は数も少ないし、Fenrirがどれくらい食べるのかによるんだけど、これからどんどん増やしていくつもり。」
なるほど。確かにこの森は、俺のせいで死んでしまっている。
それを神様の手を借りて、健全な状態に戻そうと言うのだ。
良い案であるように聞こえた。
「それもそうなんだけど…その、あれから色々と考えたんだけど、やっぱり狼に“餌”はあげたくないなって思うんだ。」
彼はふと真顔になって言う。
「俺も餌付けみたいで嫌だし、Fenrirも後ろめたい思いをしなくて済むだろ?…それに、俺はFenrirがどんな生き方をするとしても、君のことを支えていくつもりだし、やっぱり餌やり係としてだけの関係にはなりたくないって考えなおしたんだ。」
「…。」
どうやら彼にとっても、この数日は、あの日のことを回顧する時間であったようだ。
「だからいつか、Fenrirが一匹で生きて行けるようになってからも、俺はFenrirに会いに行きたいんだ。」
それは、彼が俺の自分勝手な願いを聞き入れてくれたと言うことだった。
それが当然のことではない、ということを俺は知っていた。
だから俺は、今日彼の目の前に姿を現すのを一度躊躇い、彼が俺と認めるまでの間、何よりも緊張したのだ。
「だがそれまで、世話になるな。」
でも、どうしてだろう。
「ありがとう。」
それは俺の悪い癖で、でも今はそうとだけ伝えたかった。
「どうだった?俺がいない間、寂しかったかい?」
互いに座り込んで、それぞれの昼食に手を付けると同時にTeusがにやにやと笑いながら尋ねた。
悪意が滲み出ているな。
「なあ、それ旨いのか?」
Teusは、相も変わらず無機質な固形食を齧っている。
「え、これ?」
「料理とか、しないのか?」
「うーん…別に。そう言うFenrirだって、肉ばっかり食べてるじゃないか。それと同じだよ。もっと野菜食べなきゃ。」
「…。」
お前と一緒にされても困るのだが。
「ほら、話逸らさないで!で、どうだった?泣き寝入りとかしたんじゃないのか?」
その微笑みに、悪意を感じると言っているのだ。
…いや、挑発に乗ってはならない。これもまた、俺が元気になれたからこそできる嘲弄ではないかと寛大な心を持とうと努める。
「まあ…最初の夜は寂しいと思ったな。また具合が悪くなるのではと不安でならなかったし、もしそうなったとしても、お前は俺を助けに来てくれないと知っていたから、怖かった。」
予想外の反応に、Teusは困惑の表情を浮かべた。
「だがそれも初日だけであったな。慣れてしまえば、元々の一匹が心地よいのだ…残念だったな。」
「あ、そう…。」
如何にも面白くないと言わんばかりの顔に、俺は遂にTeusのあしらい方を覚えたなと思った。
「じゃあご褒美いらないか。」
「…?何の話だ。」
Teusが意味ありげに笑う。
「残念だなあ、せっかく持ってきたのに…。」
「だから何なのだ?」
俺は犬のように焦らされたくはないのだぞ、そう言うと彼は鞄を弄って取り出したものを嬉しそうに目の前に広げて見せた。
喰い物ではなさそうだ、という時点で一瞬俺は期待外れかなと思ったのだが、それが何か分かった瞬間、プレゼントを貰った子供のような、無邪気な笑顔で叫んでいた。
「本だ!!」
そうだ。自分で願い出ておきながら、すっかり忘れていた。
彼は最初からこれを渡したくてうずうずしていたのだ。
お土産だよと自慢げに言うTeusには目もくれず、思わず食べるのを止めて身を乗り出した。
何の本だろう?その表紙を見て俺は凍りついた。
この質感と、臭い。間違いない。
恐る恐る顔をあげ、Teusに尋ねる。
「こ、これは…。」
「うん、そうだよ。」
彼はにっこりと笑って答えた。
「で、でも、一体どうやって、どうして…?」
明らかな動揺を見せる俺に、Teusは何でもないような顔をする。
「簡単なことだったよ。どうせ持ってくるんだったら、馴染みのあるものが良いと思って。」
まだ状況が把握できず、俺は口籠った。
「その…Lokiは?何も言わなかったのか?」
「俺に?まさか。」
随分と悠長に構えた。と言うことは嘘だ。
「…大丈夫。Fenrirにだって何も言ってないよ。安心して、これはFenrirのものだ。」
俺の…本。
それはLokiに与えられたからなのか、それともTeusが持って来てくれたからなのか。
そうか、どちらにせよこの本は、俺が貰って良いのだ。
そこまで考えてようやく俺は、これがどんなに嬉しいことかを理解した。
「ありがとう!!」
満面の笑みで彼に礼を言った。
「良かったよ、喜んでもらえて。」
早くもっと良く見たくて、俺は急いで残りの一頭半を詰め込み始めた。
その間にTeusは、少しばかり苦労話のようなものをする。
「もう本当に大変だったよ。Fenrirにどんな本を持っていけば良いかなんて見当もつかなかったからさ、忙しい合間を縫ってやっとの思いで…。」
正直言って、舞い上がってしまっていた俺は何も聞いていなかった。
だがこんなことをTeusが零すぐらいだから、少なくともせっかく帰ったのに、あまりゆっくりできなかったのだろうなと思った。
とにかくあいつと粗相がなかったことを祈るばかりだったが、俺が口だしをしてはならない気もして黙っていた。




