8.溢れかえる芽吹き 4
7. Sprout Swarm 4
治療と言っても、傷口を水で洗って膿を布で拭き取り、薬を塗布するだけだ。
とは言えそれは簡単なことではない。
いくら俺の身体が異常に頑丈とはいえ、それは首の傷だ。慎重に処置を行ってくれている。
「……。」
Teusには世話になってばかりだ。何もできない俺は、こうして彼の好意に甘んじるしかない。感謝してもしきれない。
だからだろうか、魔が差したのは。
不意に、引き込まれてしまったのだ。
俺はようやく、重い口を開いて切り出した。
「なぁ…。」
「何故、助けてくれたのだ。」
Teusは反応一つ示さないまま、黙々と作業を続けた。
視線をどこか遠くへ置き、俺はぼんやりと言葉を選んで探す。
「お前はあの時、…さっさと尻尾を巻いて逃げるべきだった。」
ほんの二日前のことだったが、随分と昔のことのようにも思える。その幸福さゆえに、それは俺にとって、俺を守ってくれる一つの思い出となっているのだ。
「諦めてくれて良かったのだ。…そうすれば…。」
そうすれば。
その先を、今となっては想像することさえ恐ろしい。
「俺は死ぬはず…。」
「やめてくれ!」
Teusが声を荒げてそれを制する。
「…それで良かった。」
「…?」
「俺も死ぬ気になれたから…。」
「いい加減にしろ! どうしたんだよFenrir…。」
「頼む、答えてくれ…わからないのだ。」
どうしても、俺には。
「何故、助けてくれた?」
彼は淡々と自虐的な言葉を発し続ける俺に、明らかに一種の憤りを覚えていた。
至極当然のことだろう。
「それは…なんでだろうな、Fenrirみたいに苦しんでる奴がいたら、助けてやりたいと思うのは、当然なんじゃないかな? 俺がしてやれたことなんて、誰だってできるさ。」
そんな言い草は、いとも簡単に否定してしまえた。
「誰だってできることじゃない。」
口にするのも寂しかった。
「来たのは、お前だけだ。」
「お前は…」
絞り出す声は掠れ、時折裏返った。
「Teusは、俺は助けに来たと言ってくれた…。
そんな言葉信じようとも思わなかったが、歓迎したよ。
俺を殺しに来てくれたに決まっていたからな…。
本気で言っていると知った時、愕然とした。初めは怒りすら覚えた。よくも生半可な意志で俺の縄張りに分け入りやがったなと思ったのだ。
内心笑っていたさ、お前に俺は助けられない、とな。
…でも、なのに…。」
Teusの顔が、涙で滲む。
「…ごめんなあ。俺がお前の同情を誘うような言い方をしたのだったら謝るから…。
そりゃあ、少しは期待していたのかもしれない…。俺だって死ぬのは怖かったのだ。
だが、…そんなまさか、本当に助けちまうなんて思わなかったのだ。
俺が今までに出会ってきた神様はそんな奴じゃなかった。こんなに優しくしてくれた奴なんていなかった。
二人でさえ…、俺に触れる手は震えてた…。それで良かったのだ、別に…。
狼だから…俺が狼だから…優しくしてもらえなかった、そうだろう?
色々迷惑かけたと思っている…。あのような言い方をすれば、勇気があって、優しいお前は勢いで助けるなどと言ってしまうよな…。
別に大丈夫だったのだ、俺はお前が来てくれなかったからって、わざわざ探しにこの森から抜け出してくるほど馬鹿じゃないからよ…、裏切るのだって難しくなかったんだ…。
それでも、Teusは、来てくれた。
知らなかったのだ、許してくれ…。
俺はお前がこんなに“優しい神様”だなんて思わなかったのだ。
…どうしてそんなに優しいのだ? 俺なんかに。」
「なあ…どうして助けてくれた…。」
目にいっぱい涙を溜めて、そこまでして聞かなければいけなかったのだろうか。
「…別に理由が無いのだったらそれでも良いのだ。お前のその人好しな性格に、俺が偶然引っかかっただけかもしれぬからな、…ただ、…ただ、もし理由が無いのだったら、その…。
同じようにTeusは、俺の元を去って行ってしまうのではないかと、そう不安でならなかったのだ…。
…ごめん。」
Teusは長い間、口を開かずにいた。いつしか彼の手は止まっていたが、治療の途中であった傷口に、また薬を塗布し始めた。
「俺はさ…Fenrirが言うような優しい神様なんかじゃないから…。」
彼は、今まで見たことないような悲しい顔をして笑った。まるで何かを悔いていた。
「でも、もしそういってくれるんだったら…。そうだね、ありがとう。
理由は…ごめん、少し考えさせてくれ。」
「…。」
ない、と彼は言わなかったにも拘らず、俺はその答えにちょっとがっかりした。
彼がまた俺に理由を聞かせてくれる時が来るのかで悩むぐらいならば、適当な言葉を並べ立てて俺を安心させてくれた方が良かったかもしれない。
「ただ…、どうか人間が冷たい生き物だなんて思わないで欲しいんだ。そんなわけないだろうと言われても仕方ないことを俺達はしてきた…。俺にさえFenrirは優しいと言ってくれたんだから、きっと他の人にもそうやって言ってあげられるはずなんだ。ただその優しさを狼に向けてあげられなくて…。ごめん、俺達のことをFenirirは憎んでると思うけれど…。」
Teusはそう付け加えた。
果たしてそうなのだろうか、そうなのだろう。
だからこそ俺は、Teusが俺のためにしてくれたことを、人として受け入れたがったのだ。
ありがとうと言えることも、優しさだと思ったのだ。
「…そうだな。」
俺は、人が心優しい生き物であることを知っていた。
そしてTeusは、その優しさを、俺に向けてくれているのだった。
それはどうしてだろう。
俺は、もう一つ分からないことがあって、Teusにそれを打ち明けることにした。
「俺は…Teusが優しい奴だと信じていながら、…お前の手が俺に触れるたびに、怖くて怯えているのだ。」
Teusの手が一瞬止まり、俺の方を見る。
良いから続けてくれと促し、俺は続ける。
「さっきも、俺は吐いている間、そんなことを考えながら震えていたのだ。小さい頃の俺は、…二人が撫でてくれる手を信じていた。だからその手に突き放された時のことが忘れられない。…死ぬほど辛かったと思っている。
未だにはっきりと覚えているさ、これだけ年月をかけてもまだ…。
だからもし、その手がまた…あの時と同じように…そう思うと、怖くて、耐えられない。」
彼に邪推して欲しくなくて、俺は慌てて付け加えた。
「お前のことは優しい奴だと信じているのだ!…だがそう信じていても…生きた心地がしないのだ。喩えお前が俺を嫌ったとて、俺はきっと受け入れて許すのに…でも嫌われる瞬間がどうしようもなく怖くて、びくびくしている。」
そこまで言って後悔した。これではまるで、俺を嫌わないでくれとTeusに懇願しているようなものだ。
ようやくできた相手なのだが、俺はこうやって喋るのが苦手だ。
Teusと話していて、俺は彼を不快にしかさせていないと思った。やはり嫌われても当然なのかもしれない。
ただ俺は、この子供のような不安をどうして良いか、Teusに聞きたかっただけなのに。
「…やっぱりFenrirは俺の思った通り、優しい狼だね…。」
「…?」
「ごめんな…大丈夫か?怖かったな…」
そう言って、俺の頭を撫でたのだ。
「……!」
思わず耳を後ろへと寝かせてしまう。
俺はあろうことか、安心してしまったのだ。
「…まだ許せるって思えるFenirirのそういうところが、優しいなって思ったんだ。」
彼は微笑んで言う。
「もし俺がFenirirだったら、もう誰かと触れ合うことすら拒絶してしまうだろうなあ…。でもFenrirは、それを乗り越えようとしてる、だから俺が此処にいることを、Fenirirは許してくれているんだろう?凄いことだ…。
俺みたいな薄っぺらい人間が言うことかとは思うけれど、怖いと思うことは、自然なことだと思う。…だからどうか、怖がっている自分のことを、…どうか嫌いにならないで欲しいんだ。慣れるまで付き合うからさ?それで安心してくれれば嬉しいな。」
「……。」
Teusは再び、治療に戻った。
あっさりと彼にまた救われてしまった俺は、なんだか自分が弱くなったような、悪いことをしてしまったような気持になって俯いた。
…やはり俺は悪役だ。彼の優しさに、こんなにも動揺してしまう。
そして尻尾がくるりと上を向いているのに気が付き、そっと下ろす。
格好つけないで、素直に喜べばよかったのだ。
「…よし、これで大丈夫だ。」
傷の手当てが終わり、Teusは顔を上げる。
痛みはもう殆どない。本当に治ってくれるような気さえした。
ありがとう。感謝してる。
自由に動かせるようになった顔をTeusに向けようとすると、彼は言った。
「あ、Fenrir。最後に一つ良いかな?」
「なんだ、エリザベスカラーはごめんだぞ。」
「あるかよ、そんなもの…。」
救急箱をしまいながら、Teusは言う。
「これだけは言っておかなきゃと思って…。」
ふと真顔になり、俺の方へ向き直った。
「俺はFenrirを助けたこと、後悔してないからな。」
「…。そうか。」
彼に目をあわせることができなくて、代わりに頭を両前脚を組んだ上に乗せて、地面を見た。
ならば俺は、Teusに助けて貰えて良かったと思えるように生きなければと、そう思った。
「…ありがとう。」
眼下では、命が芽吹きを始めている。
風を受けて光る姿は、俺に、始まるのだという気持ちを起こさせてくれる。
もうすぐ、春だ。
ここからようやく始まるのだ。そう思うと、嬉しくなった。
「…眠たくなってきてしまった。」
久しぶりだ、一体いつ以来だろう。このまま眠っても、悪夢は襲ってこない。
そう思えるくらい、俺は満たされていた。
「…しかしだいぶ暖かくなってきたなあFenrir。もうすぐ春だな…。」
Teusが、こちらは空を仰いで呟く。
どうやらこいつも、この季節の訪れを喜んでいるらしい。
俺は彼に、今の自分の気持ちを伝えようとした。
…ああ、まずいな、本当に…。
「Fenrir、そう言えばさあ…。」
俺が聞きとれたのは、そこまでだった。
別に良いんだ。また後で話せば良い。
やっと、始まるのだから。
「春、だ……。」
俺はゆっくりと目を瞑り、それから春風に誘われるまま、幸せに眠りこけた。




