最終話 ある日の風景
日曜日がやってきた。
季節は本格的な春を迎え、巴は進級、皇は進学し、なんだかんだ2人はお付き合い(仮)を続けている。
(私はこのままでも楽しいんだけど、やっぱりそれじゃダメだよね)
皇は優しい。時々重いけど、束縛されるよなことはない。正直、自分にはもったいないのでは、とさえ巴は思う。
(私は、どうしたいんだろう——)
自分でも分からないんだから、師匠に聞いても分からないだろうな、なんて頭の片隅で考えながら、皇と新大久保で食べ歩きデートなどしている。
ただ、あんまり考え事をしてしまうと心配そうな顔を向けられるし、そもそもデート中に上の空病を患っていては失礼なので、ほどほどにしないといけない。
(でも、いくらなんでも引き伸ばしすぎてる、よね——)
現状に不満はない。ないのだから、正式に彼氏彼女になっても何も問題ないはず、なのだが——。
というか、今この状態って、ちゃんと付き合ってるのと何が違うんだろう。
(——って、そっか)
巴はすぐに思い当たる。
(別れるときに楽なんだ。関係解消しやすいから、嫌われても逃げ道が目の前にあるから——)
言わば、付き合う前から別れるときの心配をしている。それで、巴は巴からの、最後の一歩が踏み出せない(皇からはぐいぐい来る)。
でも、その時が来たら——もし愛想を尽かされる前に覚悟を決めることができたなら、自分から逆告白キメちゃってもいいかな、くらいのことは企んでいる。
(——いや、本当に。マジで。それくらいの誠意は見せないとダメだって、分かってますとも……!)
日が暮れて家に帰り、玄関のドアを1人で開ける。部屋着に着替え、2階の自室の窓から空を見上げる。
欠けているのかいないのか、だいたい満月。
巴は最近よく見る夢の少女のことを思い返していた。
——夢の中の女の子。どこの誰とも知らないけれど、なぜだか悲しく、とても大切に感じられる存在。
儚い印象を受ける一方で、しかし本人に悲壮感はない。ひどく劣悪な環境の下、前を向いて生きている。
そんな彼女に巴が抱く感情は、同情よりも憐憫よりも——自分でも不思議なことに——その在り方への、感謝が上回っていた。
巴は夜空に浮かぶ月を見ている。
地球に最も近く、さりとて手を伸ばしても届くことのない天体を。
幻想的な円。まるで闇夜にぽっかり開いた穴のよう。
なら、穴に棲むのは兎か蟹か——
(——なんてね)
巴は知っている。月には何もないことを。
大気も生命も。希望も絶望も。
——だというのに。
(なんで、なみだ、が——)
誰にも言えない悲嘆があった。行き過ぎた自棄があった。許されることのない過ちがあった。——そして、泣き出したいほどの後悔があった。
そんな気がして。そんな気がするだけで。それでも頬は濡れていく。
ああ、自分はそれらを忘れている。きっと、もう思い出せない。かろうじて分かるのは、そんなことだけ。あまりの無責任さに息が詰まる。
——だけど、そうであるのなら。すべてが気のせいでないのなら。
(きっと、誰かが助けてくれたんだ——)
名前も顔も知らない誰かが。もしかしたら、知っている誰かが。
そうでなければ、多分、少なくとも私は耐えられなかった。そう巴は思う。
——だから、今は感謝しよう。鏡に願いをかけずとも、明日を迎えられることに。
心に留めよう。それは決して、当たり前のことではないのだと。
そして約束する。悲嘆も自棄も、過ちも後悔も、今では忘れてしまったけれど、誰かに助けられたという奇跡だけは忘れない。
これから先、挫けそうになっても、心が折れそうになっても、立ち直るのに時間がかかっても、それでも必ず覚えている。
誰かが起こしてくれた、その奇跡を。
◇
空を仰いで、目尻を拭う。
精いっぱい、上を向いて、強がって。少女は涙を越えていく。
(——はずだったんだけどなぁ)
にじむ視界に拓けた星空は。
きらきらぼやけて、泣きたくなるほど美しかった。
<了>




