第二章16 ハヤミリョウカ(前編)
速水涼香は、高校二年生になると同時にこの町にやって来た。
生まれ育った町を、離れるために。
――およそ、一年前のこと。
「ねえ、涼香!」
朝のホームルーム前の教室、元気よく涼香の名前を呼ぶのは幼馴染の瀬尾歌音だ。
高校生に上がったタイミングで染めた茶色いショートヘアーは、活発な彼女によく似合っていた。
「あ、おはよう歌音。どうしたの?」
彼女の様子からただの挨拶じゃないことはすぐに分かった。それに、後ろ手に何か隠し持っているようである。
「へへへ……ね、これ見て!」
予想通りに彼女が取り出したのは、一枚の紙だった。
「んー? ……『スター発掘オーディション』?」
「そう!」
書いてある文字をそのまま読み上げると、歌音はにへら、と顔を崩して涼香に詰め寄る。
「もしかして歌音、これに出るの?」
彼女は昔から歌が好きで、『歌を仕事にできたらいいのに』とずっと言っていた。
本気でその道を目指すというのなら、親友としては嬉しいし応援もしたいと思った。
「そう! 涼香も!」
「……へ?」
――訂正。応援は出来ないかもしれない。
「出るの、一緒に。涼香も。」
「えええ!?」
ひょっとしたら何かの聞き間違いかもしれないという涼香の期待は、もう一度締まらない顔で宣言する歌音を前にあっけなく潰えた。
「なになにー?」「どうしたのー?」と周りのクラスメートが集まってくるが、涼香は未だ混乱の中だ。
「いいじゃん、涼香だって歌好きでしょ?」
「いや、そうだけどそれとこれとは……!」
確かに歌うのは好きだ。カラオケにもしょっちゅう行くし、家でも隙あらば鼻歌を歌うくらいには。
だが、別に仕事にしたいとか思ったことは一度も無い。
「え、でも涼香ちゃんも歌上手いじゃん!」
「歌音ちゃんと二人で我がクラス自慢の歌姫ズだよ!」
「ユー、やっちゃいなよ!」
周りのクラスメートは状況を理解すると、口々に歌音の後押しをする。
「もう、自分のことじゃないからって好き勝手言って……!」
呆れるやら面白いやらで、涼香は何とも言えない苦笑いを浮かべた。
「とにかく! 私は別に歌を仕事にしようとか思ってないし」
「そんなぁ……どうしてもダメ?」
毅然とした態度でそう宣言すると、歌音が捨てられた子犬のような声を上げた。
涼香の机にしなだれかかり、全身で悲しみを表現してくる。
「私、涼香と歌うのが一番好きなのに……」
そのまま首だけくるりと返し、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。乱れた髪がハラリと流れ、涼香の母性本能は急上昇。
――反則だ。
「うぅ……」
直視するのに耐えきれなくなり、涼香はぎゅっと目を瞑って悶絶する。
しばらく葛藤した後薄く目を開けてみれば、彼女はまだこっちを見上げていて――
「ああーもう! わかった! わかったよ!」
根負けした。涼香は案外押しに弱い。
「ホント!?」
ガバリと起き上がり涼香の手を取る歌音。その目がマンガのようにキラキラと光っていて、涼香は思わず笑ってしまう。
「もう、しょうがないなぁ歌音は。でも、落ちても文句言わないでよ?」
「言わないよ。へへへ、やったぁ」
嬉しそうににへらとやる彼女を見て、涼香もちょっとやる気が出る。
――やるならちゃんと頑張ろう、歌音のためにも。
しかし今思えば、この時にちゃんと断っておけばよかったのかもしれなかった。
**********
それからは、二人でカラオケに入り浸って練習の日々だった。と言っても、二人とも歌バカなので全く苦にならなかったが。
その期間は、涼香にとってそれまでで一番充実していた。
部活にも入っていなかったし、目標を持って頑張るのは新鮮で楽しかった。
『スター発掘オーディション』は一般公開型の企画で、最終選考まで残れるのは五十組。
書類及び音源による一次選考、その後審査員の前で歌う二次選考を経て、最終選考へとようやく進める。
何組くらい応募しているのかは分からないが、狭き門だったとは思う。
だが、二人はあれよあれよと言う間に最終選考へと駒を進めてしまった。
そうして迎えた本番の日。
会場は大きなホールで、審査員以外にも多くの一般客が見に来ていた。
「緊張してる?」
もうすぐ出番という舞台袖。それは訊かなくても一目瞭然だったが、涼香は歌音に訊ねた。
「い、いや、全然? 余裕だし?」
ぎぎぎと音が出ていそうなぎこちなさでこちらに首を回す歌音に、思わず涼香は吹き出す。声裏返ってるし。
「大丈夫だよ、あんなに練習したじゃん。それよりほら、折角大きな舞台で歌えるんだから楽しも?」
後ろから両手を歌音の肩の上に置き、明るい声を出す。
振り返る彼女に笑いかければ、いつものにへら、という笑みが返ってくる。
「うん、そうだね。涼香も一緒だし、大丈夫!」
『続きまして、二十三番、瀬尾歌音さん、速水涼香さんです』
アナウンスと舞台袖のスタッフの合図で、二人はステージへと歩み出す。
歩きながらどちらからともなく手を繋ぎ、いっしょに舞台の真ん中へ。
お辞儀をして、マイクを握り、観客席を見る。
流石に涼香も緊張するが、横目で歌音を見れば彼女は楽しそうな顔をしていて。
前奏が流れ、涼香は大きく息を吸い込んだ。
*********
「ダメだったねー……」
帰りの道、二人はぐったりと座り電車に揺られていた。
「そうだね……」
涼香も力なく言葉を返す。
最優秀賞、優秀賞、観客が選ぶ優秀賞など合わせて五組が選ばれたが、その中に涼香たちの名前は無かった。
落ち込んだ空気の中、歌音がことんと涼香の肩に頭を乗せる。
元々涼香は、歌音に誘われて出場しただけだ。将来のこととか、そんなことは考えていない。
だが、歌音は本当にこのオーディションに全力で挑んでいたのだ。その心情を思うと、涼香は何も言えなかった。
「頑張ったんだけどな……」
「そうだね……」
もたれかかる歌音に、涼香もこつんと頭を当てる。熱くて、震えている。顔は見えないが、泣いているのが分かった。
しばらくその体勢のまま、歌音の静かな悲しみの音を聞いていた。
だが、彼女は乱暴に目元を拭うと起き上がり、首をぶんぶんと振った。
「でも、楽しかった! 全力は出せたし、涼香も一緒に出てくれて、本当に嬉しかったよ」
涙の跡が残る顔で、彼女はそう言っていつもの笑顔を見せる。
無理をしているのが簡単に分かる笑顔で、それを見て涼香も懸命に笑顔を作る。
「私も、楽しかったし、嬉しかった。歌音が居なかったら、こんな経験出来なかったし」
「へへへ、ありがと。涼香も楽しかったならよかったよ」
お互いに無理のある笑顔で、そう言葉を交わす。
しかし、その後歌音はふいと顔を逸らす。
「これで、思い残すことはないよ……」
「……え?」
不穏な呟きに、涼香は不安に駆られて声を上げる。
彼女は涼香とは目を合わせないまま、言葉を続けた。
「ほら、うちの両親って割と保守的じゃん。歌を仕事にとか、あんまり認めてくれてなくて」
幼馴染だし、当然お互いの家に出入りしたことはある。
言われてみれば、『安定した仕事に』とか言いそうな感じはあったかもしれない。確か父親は公務員だったはずだ。
「これが、最初で最後のチャンスだったんだ。これでダメなら、歌の道は諦めて真面目に勉強して、ちゃんと大学に入るって約束で」
「そんな……」
そんな話、涼香は全く知らなかった。言ってくれれば――
――いや、言われても、どうしようもなかった。だからこそ、歌音は話さなかったんだろう。
「で、でも、最終選考に残っただけでも十分……それに、一回しかチャンスが無いなんて、そんな――」
「いいんだよ。私も納得して約束したし、歌うだけならどこでだって出来るよ」
涼香は、歌音の歌が好きだった。だから、彼女の歌を多くの人に聞いてほしいと、この数か月で強く思ったのだ。
だが、そんな涼香の言葉を遮り、歌音は静かにそう言って笑う。
痛々しい微笑みに、涼香は何も言えなかった。
「そんな顔しないでよ。そうだ、私ちゃんと勉強して、涼香と同じ大学受けるよ。そこで軽音サークルとか入ってさ。そこでまた一緒に歌おうよ」
――ああ、彼女はそうやって、前を向こうとしているんだ。
なら、一番の親友である自分が、それを応援しなくてどうする。
「……うん、わかった。約束ね」
涼香がそう言うと、彼女は満足そうに頷いた。
しかし、話はこれで終わらなかったのである。
************
それからしばらく経った、ある日のこと。
「ただいまー」
学校から帰ると、玄関に見慣れない靴があった。
誰か来てるのかと思いながら家に上がり、部屋に向かおうとした。
「あ、おかえり! 涼香、ちょっと来て」
と、居間のドアがちょっと開き、母親がちょいちょいと手招きをしていた。
何かあったのかと疑問に思いながら居間に入ると、やはり見知らぬ男性がそこに居た。
「ああ、初めまして、涼香さん」
男はすぐに立ち上がると、胸元をごそごそやっている。
母に押されてその男性の近くまで行くと、彼は取り出した名刺を涼香に手渡してきた。
「私、ヤマナベエンターテイメントの井上と申します」
「ヤマナベエンターテイメントって……『スター発掘オーディション』の?」
そう、確か主催しているプロダクションの名前だ。
「ええ。実はあの会場に私も居たんですよ」
「はあ、そうなんですか……」
それで一体、落選した涼香に何の用事だと言うのだろうか。
「涼香さんは惜しくも受賞はされなかった訳ですが、私は光る物を感じました。それで、こうして個別でお誘いに来たという訳です」
「お誘い……?」
それはつまり、
「ええ。もし涼香さんさえよろしければ、うちのプロダクションで歌手を目指してみませんか?」
「か……」
――歌手。私が。
唐突な話に理解が追い付かず、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「もちろん強制ではありませんし、この場で決めてくれと言う気もありません。考えてみてくれませんか」
混乱する頭の中で、いろいろな感情が乱れ飛んでいる。
そして、一つの疑問にぶつかる。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょう」
涼香が声を上げれば、井上は柔和な笑みでそう答える。
「歌音は……瀬尾歌音さんは、このことは?」
「……お話しておりません。言いたいことはわかります! ですが、私が興味を惹かれたのは、貴方の声なんです」
答える井上に反射で声を上げかける涼香を、手を上げて押しとどめた上で彼はそう結んだ。
それはつまり、歌音もいっしょにという道は無いということだ。
「あの……私は元々、彼女に誘われただけなんです。彼女は本気で歌手になりたがっていましたけど、私は……。その彼女を差し置いて私だけなんて、そんなことできません」
そう、そうだ。
彼女を差し置いて自分だけが。そんなことは間違っている。本気でやった彼女が認められず、自分が認められるなんてことは。
「そうですか……残念です。ですが、一つお訊きしておきたい」
あっさりと引き下がるかのような発言をする井上は、しかし涼香をひたと見据えた。
「あの時、会場の大勢の観客の前で歌って。――楽しく、なかったですか?」
楽しかったか、楽しくなかったかと訊かれれば。
楽しんでいたと、思う。
「あ……」
「もし楽しかったのなら、貴方は歌手に向いていると思いますよ」
思わず声を発した涼香の心情を見透かしたように、井上は微笑を浮かべてそう告げた。
「では、今日はこれで失礼致します。もし少しでも興味が湧いたなら、いつでもご連絡ください」
喋りながら立ち上がり、玄関の方へと彼は向かう。
そしてふと立ち止まると、涼香の方を振り返って、
「お待ちしておりますよ」
最後にそう言い残して、彼は速水家を出ていった。
残された涼香は、しばらく固まったままだった。
「涼香、どうするの?」
見送りを済ませた母親が戻ってきて、そう訊ねる。
答えはすぐに出るはずもない。
「お母さんは、どう思う?」
そう訊ね返せば、「そうねえ」と母は考える素振りを見せ、
「もし涼香がやりたいなら、応援する。やりたくないならやらなくてもいい。でも、どんなことでも才能を認められるっていうことは素敵なことだし、滅多にないチャンスだとは思う。……そんなところかな」
肯定でも否定でもないが、どんな選択をしても涼香の味方をしてくれる。
そういう答だった。
「……ありがと。ちょっと出かけてきてもいい?」
「いいよ。遅くなりそうなら連絡ちょうだい」
歌音のところに行こうとしているのは母も分かっているのだろう、あっさりと許可が下りる。
「じゃあ、行ってきます」
そう言い残して、涼香は家を出た。
とにかく、歌音と話を。そう思ったのだった。




