【第二話 出港】
フランツが技術士官を呼んだのは、ベルゼビュートへの処置から三日後のことだった。
小さな会議室だった。呼ばれたのは一人だけ。艦の主任技術士官、ヴァルナー少佐。四十代の、無口な男だった。
「一つ聞きたい」とフランツは言った。「クリスタルを使わずに、戦艦の光砲と同等の打撃力を出すことはできるか」
ヴァルナー少佐は少しの間、黙っていた。
「……理論上は、可能です」
「続けろ」
「大口径レールガンに、大容量のキャパシターを組み合わせる必要があります」少佐は慎重に言葉を選んだ。「ただし現代では、光砲もエネルギー供給もクリスタルで安価に実現できます。わざわざそれをやる理由が——」
「費用はどのくらいかかる」
少佐はフランツを見た。何かを察したような目だった。
「膨大な費用になります」と少佐は言った。「クリスタルを使わない分、全てを機械で代替しなければならない。建造費だけで、通常の艦隊整備の数倍は——」
「やれ」
少佐は何も言わなかった。
「軍事機密だ」とフランツは言った。「この会話は、記録しない」
少佐は頷いた。それ以外に選択肢がなかった。
会議室を出た後、少佐は廊下で少しの間立っていた。何を考えていたかは、わたしには分かる。しかし記録するのは、起きたことだけだ。
ベルゼビュートの艦橋は、静かだった。
静か、といっても、人の気配がないのではない。士官たちはそれぞれの持ち場に就いており、計器の確認が続いていた。ただ、声が少なかった。普段の出港前には必ず飛び交う冗談や雑談が、この朝はなかった。
艦長のゾルダート中佐は、艦橋後方から前方を眺めていた。四十五歳。ベルゼビュートに二十年近く乗り続けてきた、この艦のことなら何でも知っている男だった。
だが、今朝は分からないことだらけだった。
前日の夜から、艦内に見慣れない技術者たちが入っていた。どこの所属かも告げられなかった。作業内容も知らされなかった。ただ、クリスタル区画への立ち入りを一時的に制限するよう命じられた。それだけだった。
もう一つ、気になることがあった。
艦長席に、見慣れない端末が増えていた。フランツが自分で取り付けたものだった。何のための端末か、中佐には告げられていなかった。
朝になって、フランツ侯爵が艦橋に来た。
フランツ=バイアロウト侯爵。この艦の表向きの新しい契約者だった。昨日から、そういうことになっていた。中佐は内心、まだ飲み込めていなかった。ルートヴィヒ大公が倒れて、エドゥアルト様が演習で——という話は聞いていた。詳しいことは何も知らされていなかったが、この艦に何かが起きたことは肌で分かった。
フランツは艦橋中央に立ち、士官たちを見回した。
「諸君に伝えることがある」
声は落ち着いていた。
「ベルゼビュートは現在、本来の戦闘能力を発揮できる状態にない。これは軍事機密として扱う。艦外への一切の言及を禁ずる」
誰も口を開かなかった。
「出港の手順については、今回は通常とは異なる方法を用いる。クリスタル主機の起動を確認した後、航行は手動補助を主体とする。クリスタルの出力に過剰な負荷をかけてはならない。目的地は帝都星。以上だ」
中佐は一歩前に出た。
「侯爵閣下。通常とは異なる、とおっしゃいましたが、具体的な手順の変更点を確認させてください」
「主機の起動確認後、推進はまず補助エンジンで行う。クリスタルの出力は最小限に留め、障壁展開も帝都に着くまでは行わない」
「……了解しました」
中佐は頷いた。頷きながら、内心では様々なことを考えていた。USR格の艦が補助エンジン主体で航行するというのは、通常ならあり得ない話だった。しかし今は、あり得ないことが次々と起きている。
艦長席の見慣れない端末にも、目がいった。
しかし何も言わなかった。
「出港準備にかかれ」と中佐は振り返り、士官たちに命じた。「クリスタル区画の確認を優先する。各部署、報告せよ」
艦橋に、静かな動きが広がった。
格納区画より二層下、クリスタル区画への通路は施錠されていた。技術士官のリッター少尉は、ロック解除のコードを入力しながら、隣の先任下士官に小声で言った。
「昨夜から、誰が入ってたんですか」
「知らん」と先任は言った。「俺たちは廊下で待機してた」
「クリスタルに何かされたんですかね」
「余計なことを考えるな」
通路の扉が開いた。二人は区画に入った。
クリスタル区画の中心には、ベルゼビュートのクリスタル主機が据えられていた。
直径三メートルほどの台座の上に、結晶体が鎮座している。透明に近い青白い輝きを持つそれは、リッターがこの艦に配属されて以来、常にそこにあった。近づくと、何か大きなものの呼吸を感じるような、そういう感覚がある。リッターは毎回、少し緊張する。
しかし今朝のクリスタルは、いつもとは違った。
光が、弱い。
リッターは計器を確認した。出力値が表示された。数値を見て、彼は思わず先任の方を向いた。先任は既に数値を見ていた。二人は何も言わなかった。
艦内通話が鳴った。
「クリスタル区画、状態報告を」
先任が応じた。
「クリスタル、起動確認。出力——」一瞬の間があった。「出力、安定。通常手順での起動準備完了」
通話が切れた。
リッターは小声で聞いた。「これで通常なんですか」
「今日はそういうことだ」と先任は言った。「忘れろ」
コンテナの中で、アビゲイルは宇宙怪獣の図鑑を読んでいた。
光が揺れ、ベルが現れた。
「アビゲイル様。これからベルゼビュートが動きます」
「うん」アビゲイルは顔を上げた。「どこへ行くの?」
「帝都星でございます」
アビゲイルはページを閉じた。帝都星というところがどんな場所か、よく知らなかった。お父様は行ったことがあると言っていた。
「ベル、ベルゼビュートを動かすって、どうやるの?」
「クリスタルが動力を発動し、艦を推し進めます」
「クリスタルって、あのひかりのやつ?」
「はい。わたくしの……本体のようなものでございます」
アビゲイルはそれを聞いて、少し考えた。
「じゃあ、ベルが動くの?」
「少し違いますが、そのような感覚でございます」
「わからない」とアビゲイルは正直に言った。
「では、一緒にやりましょう」とベルは言った。「わたくしが動かします。アビゲイル様は、感じてみてください」
「うん」
ベルの輪郭が、わずかに変わった。輝きが増したようでもあり、遠くなったようでもあった。
しばらくして、アビゲイルは気づいた。
床に、かすかな振動があった。
金属の艦体を通して、何かが動いている。機械の音ではなかった。もっと深いところからくる、低い、息のような感覚だった。
ベルゼビュートのクリスタルが、動力を発動していた。
半封印の、弱められた光で。それでも確かに。
「ベル」とアビゲイルは言った。「動いてる」
「はい」とベルは答えた。「ベルゼビュートが、動きました」
アビゲイルは手のひらを床につけた。振動が、指先に伝わってきた。遠く、深く。まるで、大きな生き物の鼓動のようだった。
宇宙怪獣の図鑑に、こんな記述があった。怪獣は内部に独自の生態系を持つ、と。その鼓動は、惑星の地震に似ているという観測記録がある、と。
アビゲイルには、今の感覚が少し分かった気がした。
艦橋では、出港の手順が淡々と進んでいた。
「補助エンジン、起動確認」
「クリスタル出力、安定維持」
「バイアロウト星管制より離脱許可、受領」
「全艦、第一種航行配備」
中佐は前方スクリーンを見ていた。バイアロウト星の大気層が、ゆっくりと後方に流れ始めていた。雲が、青い空が、緑の大地が、遠ざかっていく。
USR格のはずの艦が、補助エンジンで静かに飛んでいた。
中佐は何も言わなかった。ただ、前を見ていた。
ふと、艦長席の端末に目がいった。
フランツはその端末に、時々手を触れていた。何かを確認するように。あるいは確かめるように。何のための端末か、中佐にはまだ分からなかった。
「バイアロウト星、離脱完了」と航法士が告げた。「帝都星方向、設定完了。現在速度——」
「了解」と中佐は言った。「そのまま続けよ」
ベルゼビュートは、帝国の星の海へと出ていった。
その格納区画の一角に、小さなコンテナがあった。コンテナの中には、宇宙怪獣の図鑑と、五歳の少女がいた。
艦長席には、誰も知らない端末があった。




