番外⑥:離したくない理由(卒業後)
また山に行きます。一歩前進。
卒業してから、キースは来週には実家へ帰ると言っていた。
ミアも春から城での勤務が決まっていて、二人でゆっくり会える時間は、思っていたより少なかった。
そんな、少しだけ残された休みの日のことだった。
その日の遠出は、キースからの誘いだった。
「明日、山の方行くか」
相変わらず不器用で短い誘い方だったけれど、ミアにはそれだけで十分だった。
山、と聞いて、少しだけ思い出したことがある。
突然の雨に小さな山小屋に駆け込んだ、あの夏の日。
屋根を叩く雨音と、薪の匂い。
冷えた手を、何も言わずに握ってくれたキースの手。
あのときは、ただ近いだけで胸がいっぱいだった。
今は――少し違う。
そう思いながら迎えた翌日。
山の空気は、街より少しだけ澄んでいた。
「ねえ、のんびり出来るね」
ミアが振り返って笑う。
山道には、街とは違う涼しい風が流れていた。
木漏れ日が足元に揺れて、踏みしめる土は少しだけやわらかい。
どこかで鳥の声がして、草の匂いが風に混じる。
「まあな。人も少ないし」
キースは周囲を軽く見渡しながら答える。
特別なことをしているわけじゃない。
ただ並んで歩いて、同じ景色を見ているだけ。
それなのに、ミアの胸は少しだけ弾んでいた。
山の風が髪を揺らす。
隣を歩くキースの足音が、土を踏む音に混じって聞こえる。
「こういうの、なんか久しぶりだね」
「……そうだな」
並んで歩く距離が、自然と近い。
手を伸ばせば触れられる距離。
でも今は、あえて触れていない。
それが余計に意識させる。
キースの歩く音。すぐ隣にある気配。
時折、袖がかすかに触れそうになる距離。
(なんか、ちょっと緊張する)
ミアが小さく息を吐いた、そのとき。
がさり、と草が揺れた。
「……止まれ」
キースの声が低く落ちる。
空気が一瞬で変わった。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、ふっと遠のく。
草の匂いに混じって、獣のような生臭い気配が流れ込んだ。
「え――」
次の瞬間、茂みの中から影が飛び出した。
低く唸る、小型の魔物。
ただし、一匹ではなかった。
茂みの奥で、さらに二つ、三つ、赤い目が光る。
群れだ。
「……群れか」
キースの声が低くなる。
魔物そのものは、卒業した二人なら倒せない相手ではない。
けれど、足場の悪い山道で、しかもミアのすぐ横から飛び出された。
一瞬でも遅れれば、噛みつかれる距離だった。
「下がれ」
短く言って、キースが前に出る。
「キース、大丈夫!?」
「ミア、右を見ろ」
「え?」
言われた瞬間、ミアも気づく。
別の魔物が、斜面の上から回り込んでいた。
「っ……!」
ミアが火を灯す。
風を巻かせて、牽制するように炎を広げた。
その隙に、キースが地面に手をかざす。
次の瞬間、土が盛り上がり、正面の魔物の動きを止める。
さらに足場を隆起させ、斜面から飛びかかろうとしていた一匹を弾き落とした。
「すぐ終わらせる」
キースが一気に距離を詰める。
ミアの炎が、逃げ道を塞ぐ。
キースの土が、足を止める。
二人の動きは噛み合っていた。
けれど、最初の一瞬だけは本当に危なかった。
だからこそ、キースの顔から余裕が消えている。
無駄のない動き。鋭く、一撃。
魔物はそのまま崩れ落ちた。
静寂が戻る。
けれど、さっきまでの穏やかな静けさとは少し違っていた。
「……はあ」
ミアが大きく息を吐く。
さっきまで聞こえていた魔物の唸り声はもうない。
代わりに、木々の葉が風に擦れる音だけが戻ってくる。
「びっくりした……」
「怪我は?」
キースが振り返る。
その声は短い。でも、いつもより少しだけ硬かった。
「ないよ、大丈夫」
そう答えた瞬間、力が抜けたのか、少し足元が揺れた。
「おっと」
ぐっと腕を引かれる。
土の匂いと、キースの近い体温が一気に近づいた。
支えられた腕に、強い指の感触が残る。
「ほんとに大丈夫か」
少しだけ近い距離。
「うん……でも、ちょっとびっくりして」
ミアは苦笑する。
その顔を見て、キースの表情が少しだけ変わった。
「……無理すんなよ」
低くて、やわらかい声。
次の瞬間――ぐっと、引き寄せられた。
「え……?」
そのまま、腕の中に収まる。
さっきよりずっと近い。
胸元に頬が触れそうな距離。
キースの呼吸が、少しだけ乱れているのが分かった。
「……キース?」
名前を呼ぶと、ほんの少しだけ腕の力が強くなる。
「……ほんと、心臓に悪い」
ぽつりと落ちる声。
「え?」
「一瞬、間に合わねえかと思った」
少しだけ乱れた呼吸。
いつもより、余裕がない。
「お前が弱いとか、そういう話じゃねえ」
一瞬、言葉が途切れて。
「……俺が、怖かっただけだ」
いつもより低い声。
けれど、その奥に混じっているのは怒りじゃなかった。
焦り。心配。それから、うまく隠しきれていない熱。
「……ちゃんと守るけどさ」
一瞬、言葉が途切れる。
木々の間を抜ける風が、二人の髪を揺らした。
さっきまで涼しかったはずなのに、腕の中だけがやけにあたたかい。
「……離したくなくなるだろ」
その一言で、ミアの心臓が強く跳ねた。
(なにそれ……)
顔が一気に熱くなる。
でも。そのまま、そっと腕を回す。
「……ありがとう」
小さく言って、ぎゅっと抱きつく。
キースの体温が、はっきり伝わった。
さっきまで緊張で冷えていた指先まで、じんわりと熱が戻っていく。
安心と、ドキドキが混ざる。
山の風はまだ少し冷たいのに、腕の中だけがやけにあたたかい。
少しだけ間があった。
キースが、静かに息を吐く。
そして――
「……好きだよ」
低くて、まっすぐな声。
いつもより、はっきり。
ミアの思考が、一瞬止まった。
「……え」
顔を上げる。
キースは少しだけ目を逸らしている。
でも、腕は離れない。
「こういう時くらい、言っとく」
少しだけ照れたように言う。
その声が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく。
ミアの顔が、一気に赤くなった。
「ちょ、ちょっと待って……!」
「なんだよ」
「今のは反則でしょ……!」
言いながら、でも笑っている。
嬉しくて。恥ずかしくて。
どうしたらいいか分からない。
次の瞬間。
「もう無理」
そのまま、勢いよく抱きつく。
「おい――」
ぐっとしがみつく。
「嬉しい……!」
そのまま顔を埋める。
キースの服から、外の風と草の匂いがした。
少しだけ土の匂いも混じっていて、妙に安心する。
キースは一瞬だけ固まって、それから、ふっと笑った。
「……大げさだな」
そう言いながら、軽く持ち上げる。
「え!? ちょ、ちょっと――!」
「落とさねえよ」
キースは当たり前みたいに言う。
視線が近い。
さっきまで少し離れて歩いていたはずなのに、今は息がかかりそうな距離にいる。
腕に支えられているせいで、逃げる場所もない。
でも今は――恥ずかしさより、嬉しさの方が大きかった。
風が吹く。
木々の葉がさらさらと揺れて、山道にやわらかな音を落とす。
さっきまで張り詰めていた緊張が、ゆっくりほどけていく。
「……ねえ」
「ん?」
「もう一回言って」
「やだ」
「なんで!?」
すぐにいつもの調子に戻る。
その空気が、心地いい。
雨宿りしたあの日は、手を握るだけで精一杯だった。
何も言えなくて、それでも離れなかった。
でも今は、ちゃんと近づける。
抱きしめられて、好きだと言われて、それを嬉しいと思える。
ミアはむっとした顔を作ってみせるけれど、すぐに笑ってしまった。
「さっきは言ってくれたのに」
「一回言っただろ」
「一回じゃ足りない」
「欲張りだな」
「そうよ」
ミアは少しだけ腕に力を込める。
「キースのことだもん」
その瞬間、キースの動きが止まった。
今度はミアの方が、少しだけ勝った気がした。
「……お前な」
低く呟く声。
けれど、怒ってはいない。耳が少し赤い。
ミアはくすっと笑う。
キースは小さく息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。
でも。抱き上げた腕は、さっきより少しだけ強くなる。
繋いだ温度は、さっきよりもはっきりしていた。
山の風は涼しい。
けれど、二人の間に残った熱は、しばらく消えそうになかった。




