一章・二(2)
その時―タイヤ止めとでもいうのか、駐車場にあるアレに腰かけた一人の女の子が視界に映った。
視線強奪。
あるいはそれが、失恋して泣いているようだとか、もしくは男だったのなら、華麗にスルーできたのかもしれない。基本的に他人との積極的な係わり合いが好きではない僕には、それくらいの自信はあった。
でも、無理だった。肩の下までまっすぐ伸びた流麗な黒髪に、十代前半と想像がつく、幼さの残る端整な横顔。そして、厚手のコートを羽織った僕には見ているだけで寒くなってくる、気温と不釣り合いな薄着。まとう陰鬱な雰囲気。
無意識のうちにその場へと歩みを進めていた。このまま見なかったことにして帰ったら、どうも今日は寝付けそうにない。
その女の子の前に立つ。足を抱えて体育座りをするようにして、口元を腕で覆い隠しながら、まるで殻にこもるように震えていた。段ボールに入れて置き去りにされた捨て猫の方がまだ、世界に希望を持っているような気さえする。
神秘的。そう形容することさえ決して間違いではないような、美しい絶望だった。
その瞳には光が宿っていずに、僕のことも見えていない。
何があったのかなんて察するすべもないけれど、ただ事ではないことだけはわかった。世界が明日終わるの、とかそんな宣告をされても、ありえないと切り捨てることはできないかもしれない。
でも、それを問いただすよりも、僕はここへ来た理由を思い出す。深夜まで及んだ作業中に腹が減ったのだ。この時間に僕が、目の前でコンビニ袋から漂う唐揚げの香ばしい匂いを嗅がされたら、飯テロだと言って非難するに決まっている。
「これ、食べる?」
少女の前のコンクリートにしゃがみ込む。固い地面に染み込んだ冷気が体を芯から冷やしてくるような感覚だった。ビニール袋から唐揚げを取り出して差し出す。そこでようやっと僕の存在に気が付いたようだった。少女が顔を上げて、目線が合う。自分から近づいといてなんだけど、緊張で心臓が跳ね上がった。
「いや、僕は彼氏にフラれて泣いているクラスメイトはスルーするけど、腹を空かせた野良犬には手を差し伸べてやりたい性分なもので」
突然何を弁解し始めたんだ僕は。いかに対人スキルが低いからって、こうも初手でしくじるのは……。野 良犬とか、語彙の少なさと思慮の浅さをいきなり露呈しちゃったよ。
「なんか言ってよ…。まあ、いいから食べて」
それでも少女はぽかーんとしていたので、沈黙に耐えかねた僕が爪楊枝に刺した唐揚げを半ば強引に口元へもっていくと、ムシャムシャと食べ始めた。二つ目を口元へ近づけると、それも同様に食べる。三つ、四つ、五つとあっという間に全部食べ終えてなお、彼女は全く表情が崩れなかった。今日一日真顔でいる、とかそういう微妙な罰ゲームであろうか?
まだ物ほしそうな雰囲気を醸していたので、ホットのお茶を取り出して渡してみると、手がかじかんで開けられないようだった。それどころか、この寒さで手袋もしていないのだから、凍傷にならないともわからない。キャップを取って渡してやると、おそるおそる口をつけた。
薄汚れたジーパンに、複数穴の開いた、元の色がなんだったのか推測しづらい灰色とピンクを混ぜたような色のボロボロのセーター。中にはシャツ一枚しか着ていないのか、華奢な体がさらに細く見える。目の下にはクマに加えて赤く腫れたような跡があって、頬は若干こけていた。山に猪退治でもしに行った帰りだろうか。整った顔がかえって恐ろしいくらいだ。
着ていたコートを脱ぐと、それを少女の肩にかける。量産品とはいえ機能面は十分だったらしく、震えは徐々に収まっていった。
これはいったいどういう状況だ。
傍から見たら、僕がこの少女に餌付けしているように思えるかもしれない。
手の中のスマートフォンは、とっくに日付が変わったことを画面越しに伝えてくる。警察が巡回していたら即補導確定、警察署行きだ。一度だけ訪れたことがある警察署に良い思い出はない。
さっきからこの子―見た目で勝手に年下だと判断してしまっているけれどだ―が一回も言葉を発していないのが不可解だった。まるで話し方を忘れてしまったかのように、すべて抜けきってしまったみたいに。少なくともこんな表情をする人間に出会ったことはなかった。
なにはともあれ、この場には長くいたくない。補導されたくないし、とにかく寒い。なにか行動を起こさないと。
「今から僕の質問に、マルバツで答えてほしい。頷くか、首を振るだけでも構わない」
少女は小さく首肯する。
「まず一つ。君は、家に帰りたくない」
首を振る、否定。
「君は、家が遠かったりして帰る手段がない」否定。
「終電を逃した」否定。
「帰る場所が、ない」
首をひねった。どっちでもない、疑問?
いやどういうことだよ。家には帰りたいし帰る手段もある、だが帰る場所がない。
孤児、とか。だとしたら孤児院とかに入るものじゃあないのか? このあたりにそんな施設があるなんて聞いたこともないが。家を失った子供に対して何の手も差し伸べられないほど、この国が腐敗しているとは思いたくない。
だとしたら、後は…親に捨てられた、とか。もしくは家出? その確率が一番高そうだけれど、僕の考えうる範囲なんてそれが限界だ。この発想力の低さが、自称進学校と揶揄される所以なのだろうか。
周りを見回しても、この子の保護者らしき人など見当たらない。あのエロ本親父が、なんてことは間違いなくないだろう。もしそうだったのなら、僕は世界の因果を相手に大声で反論を数時間並べ立てる。
「じゃあ、それは後で聞こうか。それより、ここで一夜を明かそうなんて無茶だ。どこか宿を予約をしているならまだしも、もうビジネスホテルだって受け入れてくれないだろうし」
少女はずっとうつむいたままだった。せめてなんか言ってくれると嬉しい。
「二択。このまま自分の足で警察署へ行くか、それとも僕の家へ来るか。警察署までの道案内ならしてあげるけど。選んで」
それでも、少女は首を振るだけだった。
「じゃあ、後者を選んだということでいい? さすがに、君をこの場において帰るのは僕のなけなしの良心が許せない。ついてきて。すぐ近くだから」
僕は自宅へ向かって歩き始める。自分勝手に勢いで言ってしまったが、犯罪にならないだろうか。見方によっては、とは言っても誰も見ていないだろうが、お持ち帰りしたとかそっちの方面に取られかねない。
信号が周囲一帯を青く照らし、その光さえ差し込まない誰も居ない小学校のグラウンドは少し不気味だった。五メートルほど離れた場所に彼女はついてきていた。相変わらず俯いたままで、うんともすんとも言わない。いくら気配を消したところで、幽霊ごっことかそんな妙な遊び流行ってないと思う。
ほどなくして家は見えてくる。茶色一色で全体が塗られた、五階建てのごく普通のマンション。立ちどまった少女についてくるよう手招きし、蛍光灯で照らされた玄関から入り、エントランスホール内に二カ所設置されたエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。もうほとんどの部屋は消灯していて、エレベーターはおろか階段を使う人もいない。
ぐんぐんと階を重ねていくその間も全く表情を変えず、ただ一点を見つめるその姿は、何か大切なものを失ってしまっているように見えた。それが何なのか、人なのか物なのかは見当がつかない。とても危うい。あまり踏み込みすぎると、決定的なものが崩壊してしまうような、そんな気がしてならない。
エレベーターを降りて六○三号室と書かれたドアに立ち、鍵を開ける。電気をつけて中に通すと、少女は所在なさげに周りを見回した。
「あー、僕は高校生なんだけど、いろいろ事情があって今は一人暮らし。だから気はつかわなくていいよ。トイレはここ、こっちが洗面台」
指差ししながら部屋を案内して回ると、小さくうなずいて薄いながらも反応を示してくれた。思考停止しているわけではなさそうで、ひとまず安心する。
思えば、家に女の子を招いたのなんてこれが初めてかもしれない。勝手に上がりこまれたことはあったけれど。その事実に、緊張の糸が張る。
少女のジーパンは膝下あたりまで泥で汚れていた。今日、というか昨日は近隣県まで含めて雨が降っていない。ということは、仮にこの汚れが水たまりで車に撥ねられたのものだとするならば、少なくとも一昨日からこの服を着ているということ。さらに、量産品と見受けられるパーカーもこれだけボロボロだということは、あまり家柄も良くないということも示唆している。そもそも家があるのかすらわからないが。
嫌な予感がした。とりあえず考える時間がほしい。
「とりあえず、風呂だね。あんな恰好で外にいたなら、体冷え切っているでしょ。さっき家出る前に沸かしたから、溜まってるころだと思う。シャンプーとかも適当に使っていいよ。パンツはこっちに未使用のがあるから、男ものだけど我慢してほしい」
クローゼットから取ってきた、包装されたままのトランクスを渡す。これって、完全にセクハラじゃないか。
だが少女は全く動揺した様子なく、今日一番しっかりとうなずくと、脱衣所へと向かった。貞操観念というか、もちろん僕は襲ったりするつもりなんてないのだけれど、思春期の女性としての何かが欠けている。
シャワー音がしているその間に、タンスからシャツとスウェットの上下を取り出して、脱衣所の外に置いておく。出会ったばかりの女の子に自分の服を着られるのはだいぶ恥ずかしいが、未使用の服なんてないのだから仕方ない。その足で台所へと向かい、冷蔵庫を開ける。
キャベツ、ネギ、豆腐、豚肉。どれも中途半端な量だった。
「鍋しかないか…」
料理が得意な人ならもっと工夫も凝らせるはずだが、自炊歴一年未満に加えて二日に一食程度しか作らないから、スキルには限界がある。それこそ到底他人に出せる料理なんて作れないのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
一人用の土鍋に水を入れて加熱しつつ、単価数円の出汁を投入。タイマーをセットして材料を適当に刻んでぶち込み、その間に机を整理しておく。鍋が良い感じに出来上がるのと、リビングのドアが開けられるのはほぼ同時だった。