3.死者が幸せに眠る丘(6)<終>
「あんまりだよ、アシュリー」
ノエルがアシュリーの背中で泣き言を吐いた。
頭をアシュリーに押し付けて、ぐりぐりと擦りつける。まるで猫みたいなしぐさだ。声は落胆に満ちている。もしかしたら、本当に泣いているのかもしれない。
「せっかくの僕との時間なのに。君は誰とも知れない赤ん坊を抱いて、僕に見向きもしない」
ノエルは言いながら、アシュリーの背中に爪を立てる。服を握り締めながら、痛いくらいに肌を掻いた。
「僕が君を助けたのに。僕がいなかったら、君はあの町で一緒に燃えていたはずだよ」
ノエルの言う通り。アシュリーはノエルに抱えられて、町を逃げ出すことができた。町から少し離れたこの場所で、犬も赤ん坊も含めて無事でいられるのは、間違いなく彼のおかげだ。
どうにか火を焚き、簡易なテントを張り、傷を負った方の犬には、苦手な《治癒》をかけた。最低限の野宿の準備を終え、一息つけたところで、ノエルに《魅了》をかけたはいいが、その直後に運悪く、赤ん坊が泣き始めてしまった。
本当に運が悪かった。《魅了》中のノエルは、普段よりもずっと厄介だ。
「いつもいつも、僕は君のために尽くしているのに。君がどれほど浅はかな判断をしたって、一度も見捨てずに助けてきたのに!」
背中にノエルの額が押し付けられる。ときおり、ぐすぐすと鼻を鳴らす音がする。だが、片時たりとも離れない。アシュリーは、赤ん坊をあやしている間中、背中にぴったりくっつくノエルの存在を感じていた。そして、絶え間なく恨み言を吐き続けるのだ。
「わかってるって。だから背中を貸したんじゃない」
《魅了》中のノエルは、アシュリーの体に自由には触れられない。節度を知らない魔物が、とんでもないところに触れようとするからだ。
ノエルに許可されているのは、アシュリーの手と頭を撫でること。それから、膝の上に頭を乗せることだけだ。
だが、今のアシュリーの両手は、赤ん坊を抱えるのに必死だ。抱える腕と膝の間に、ノエルの入り込む隙間はないし、ずっと赤ん坊を見ているから、頭だって自由にはならない。
だから、仕方なく背中を許可した。アシュリーにとってはかなりの譲歩だったが、やはりというべきか、ノエルには納得してもらえない。背中にぴたりと張り付いて、ずっとこんな調子だった。
「背中なんて。君はこっちを向いてもくれない。頭を撫でてもくれない。僕ばっかり君を見ている」
不満を背中に聞きつつ、アシュリーは腕の中の赤ん坊を抱え直した。わずかな振動に、赤ん坊は不快そうにぐずり出す。
――やっと落ち着いたばっかりなのに。
落ち着いたと思ったら、すぐに泣き出す。泣いていたかと思うと、不意にぴたりと止む。アシュリーは振り回されてばかりだ。
「仕方ないじゃない。放っておくわけにはいかないし、声だって響くし」
夜の森に、赤ん坊の泣き声はよく響く。聞きつけた野生動物が近寄ってくるかもしれない。それに、あまりに腹いっぱいに泣き叫ぶ様子は、見ていても不安になる。どこか具合が悪いのかもしれない。泣きすぎると体力も使うだろう。だが、今のアシュリーには赤ん坊のための食事も持っていない。
「泣かせておけばいいんだよ。声でなにが寄ってきても、僕が君を守るんだから」
「そうかもしれないけど……やっぱり泣いているのに、無視はできないわよ」
背中でノエルが爪を立てるのを感じつつ、アシュリーは近くの荷物を引き寄せた。食料にはまだ余裕があったはずだ。赤ん坊の食べられるものはないだろうか。
――果実なら食べられるかな。
食料の中に、乾燥したイチジクがある。一つ取り出して赤ん坊に差し出すが、口に入れてすぐに吐き出してしまった。
アシュリーが途方に暮れていると、横から犬の片割れが寄ってきた。傷つき、伏せっている方とは別の、健康な犬だ。彼はそのまま、当たり前のように落ちたイチジクを口にする。
こら――と言いかけた口を、アシュリーはつぐむ。
二匹とも、見るからに狩猟犬だ。アシュリーについてくるあたり、かなり人慣れもしている。人に飼われていた犬だろう。であれば、町の住人が主人であり、すでにアンデッドになっている。食事を与える主人がなくなり、彼らだって空腹だったはずだ。
そう思って見ていると、犬の様子がおかしい。彼はイチジクを何度か噛むと、飲み込まずに赤ん坊に顔を寄せた。そのまま赤ん坊の口に、自分の口の中のものを押し付ける。赤ん坊は、不器用そうに犬の噛んだイチジクを口に含む。
――噛んで柔らかくしたんだ。
犬はアシュリーの傍に座り込み、食事する赤ん坊の頬を舐める。アシュリーはその犬の姿を眺め、しばらく瞬いた。
犬は、亜麻色の毛並みを持つ大型犬だ。毛足が長くて柔らかい。二匹とも体格は似ているが、怪我をした方はがっしりしていて、今傍にいるのはやや小さい。腹を撫でてみれば、発達した乳房に触れる。出産経験のある、メスの犬のものだ。
怪我をした方の犬はオスだった。となると、この二匹の犬は、オスとメスのペアなのだ。
彼女はアシュリーのぶしつけな手にも、嫌がる素振りを見せない。母親めいた顔で、赤ん坊の頬を舐め続ける。その姿に、アシュリーはこの赤ん坊がどうやって生き延びていたかを見たような気がした。
「それ、どうするの」
アシュリーの背後から、ノエルが低い声で尋ねる。
――どうしよう。
即座に返答が浮かばず、アシュリーは赤ん坊を見下ろした。
やせ細った体に、ボロボロで薄汚れた服。陽の光を知らないような、青白い肌。犬に頬を舐められながらも、アシュリーの服をぎゅっと握りしめ、離さない。
いくら犬たちが世話をしていたとはいえ、相手は人間の子だ。このままではいられないだろう。
だが、アシュリーは根無し草だ。赤ん坊を抱えて旅はできないが、一か所にとどまることも難しい。それに、アシュリーは魔女。万が一にも魔女に育てられた子と知られた場合、きっとこの子も無事ではいられない。
ならばギルドに預けるか。孤児院に捨てていくか。だとしたら、犬たちはどうする? 引き離すのはあまりにしのびない。
「悩むくらいなら、捨てなよ。自分の子でもないのに」
「ノエル!」
「赤の他人だよ。君が連れて行く義理なんてないでしょう」
「そんな言い方……」
「それに、僕は君以外守らないよ。僕の時間を邪魔するものなんか、守りたくもない」
ノエルの言葉は辛辣だ。顔は見えないが、憤りは背中に立てられた爪の痛みで伝わってくる。
無理もない。ノエルにとって唯一の喜びである《魅了》の時間を、ないがしろにされているのだ。赤ん坊だから仕方ない――と思うのは、人間であるアシュリーの勝手な考えだ。
でも、アシュリーはこの子を手放すこともできない。
「…………義理はあるわ。リサから依頼されたんだもの」
「アンデッドでしょう?」
「アンデッドになってでも、託したかったのよ」
「そう見えるだけだよ。魂のないアンデッドなんて、生前をなぞるだけで心も思考もないんだ」
ふん、とノエルが鼻で息を吐く。
「だから術者も平気で殺せる。術者がいなければ、自分だって動けなくなるのに。生きたいとすら思わない、エレメント以下の魔物だよ」
「………………違うよ」
アシュリーは目を伏せた。小さな焚火が、燃え上がる町を思い起こさせる。
アシュリーには、あの町であったことを想像するしかない。リサと魔女の関係も、本当のところは知らない。
知らないけれど、ノエルのように切り捨てることはできなかった。
「愛しているからだよ」
「……なに?」
「愛しているから、自分の手で終わらせたのよ」
「それ、本気で言ってるの、アシュリー」
アシュリーは頷く。リサの感情は、アシュリーの単なる想像だ。でも、確信している。愛していなければ、どうしてあんな最期を迎えられるだろう。
赤ん坊を殺させたくはなかった。復讐を遂げさせたくなかった。死者を冒涜されたくもなかった。アンデッドの枠を超えてまでも止めたかった理由は、相手がリサにとって特別な存在だからだ。
背後で、ノエルが身じろぎをする気配がした。
次いで、嘲笑うようなため息が聞こえる。
「身代わりになって死んだのに、その相手を今度は自分で殺したって?」
「そうだね」
「馬鹿じゃないの」
吐き捨てるように言ってから、ノエルはアシュリーの服を握りしめた。背中に押し付けられた顔は、アシュリーからは見えない。
「そんなことで、君はアンデッドに心があるって言うの? 命もない、作られた魔物にも心があるって?」
押し殺したような声音だった。それでいて、明確な苛立ちが滲んでいる。
怒りでもない。嘆きでもない。いつものような恋情でもない。アシュリーに向けられたノエルの感情は、なんだろう。
「僕にもないのに。君はあんなものにもあるって言うんだ」
――ああ、そうか。
背中の痛みが腑に落ちる。これは嫉妬だ。
ノエルは、アシュリーがアンデッドに心があると認めたことに、妬いているのだ。
「アシュリー、心ってなに」
「……そんなの、私にもわからないわよ。人それぞれ、違うものだろうし」
「じゃあ、君にとっての心ってなに?」
姿の見えないノエルの問いに、アシュリーは目を伏せる。腕の中で、赤ん坊は小さく寝息を立て始めていた。メス犬も、アシュリーの傍に伏せったまま目を閉じている。
焚火の炎が爆ぜる音がした。否が応でも、火は町の姿を思い起こさせる。
――心ってなに?
腕の中で、小さく脈動する赤ん坊を抱きながら、アシュリーはかすかに口を開いた。
「心は………………」
自分の鼓動が聞こえる。心の音だ。
だが、心臓はアンデッドには存在しない。それでもリサは、愛し、嘆き、期待し、終わりを喜んだのだろう。
死んでも守りたかったはずの、愛する人の死を望んでいたのだ。
「……心は、矛盾だよ」
「矛盾?」
きっと、ノエルにはわからないだろう。繰り返される言葉を聞きながら、アシュリーはゆっくりと瞬く。
顔はこわばっていた。無意識に、苦笑にも似た表情が浮かぶ。他に、どんな顔をすればいいのかわからない。
「愛していながら、憎んでいる。生きてほしくて、死んでほしい。死にたくないけど、死んでしまいたい。あるはずないのに、求めている」
出てくる声は抑揚少なく、ひどく淡々としていた。
手を伸ばしても届くはずがない。それでも諦めきれない。いくつもの矛盾した思考が、いつだって心にひしめいている。
「相容れない二つの思考に挟まれて、軋むもの。痛くて、苦しくて、傷つき続けるのが、心だよ」
「…………なにそれ」
背後のノエルが嘆息する。アシュリーにとっては、予想通りの反応だった。
「君の心は、僕にはわからない。僕にとって、心は幸せなものだよ。ずっと君で満ちている」
そう言うと、ノエルはアシュリーに爪を立てるのを止めた。代わりに、傷ついたその場所を優しく撫でる。
「どんな扱いを受けたって、君への思いは変わらない。こんなにないがしろにされても、僕は君に夢中なんだ」
きっと今、ノエルはうっとりとした笑みを浮かべているのだろう。見えなくても、アシュリーには想像がついた。
瞳にはアシュリーだけが映っているはずだ。彼の怒りも嫉妬も、すべてアシュリーに向けられた、平坦な愛の一つに過ぎない。
「僕は矛盾しない。君を愛している。君の望みならどんなものでも叶えるし、なにがあろうと君を守り続けるよ」
愛しさを込めたノエルの声は、アシュリーの耳に響いた。柔らかいけれど男性的で、嘘のない真っ直ぐな音だった。聞いているだけで、思わず縋りたくなる響きがある。
そしておそらく、ノエルはわかってやっている。自分の姿が、自分の声が、その言葉がどれほど魅力的かを知って、あの手この手で、アシュリーを振り向かせようとしているのだ。《魅了》による、純粋な愛ゆえに。
アシュリーは赤ん坊を抱えたまま、黙って目を閉じた。
瞼の裏に、まだ燃え上がる町の最期が残っている。




