第弐話-虹彩
脳電子を利用する際には人工網膜に張り替える必要があり、どうしても眼球全体が灰色にぼける。人口の半分が脳電子を利用するようになるまでは自然主義と言われた団体もあったようだがそれこそ自然消滅した。
天然網膜をしっかりと見たのは初めての事だった。
生まれて間もない頃は自身も天然網膜だったが、記憶に無い。今では生後一歳で人工網膜に張り替えるのが普通になってしまった為、目の前の成人してるかどうかも怪しい彼女の瞳の虹彩に、言葉を失い吸い寄せられた。
光が溢れるとは言っても時刻は午後八時、彼女の瞳を拡大していくと、真っ白な結膜に桃色の血管が浮き出ている。ブラウンの虹彩が波打ち、収縮して光を集めようと瞳孔を広げている。瑞々しく眼球が潤っているのが手に取るように分かった。
「あの、ち、近いです」
気付けば唇が触れそうな距離。慌てて後ずさり顔を少し逸らす。それでも弐四は自動で彼女を視界の中心に捉えていた。
頬を赤らめながら、本当に桃色に染めて唇を開く。
「ミラージュってなんですか?」
質問の意図が分からない。彼女の周りには脳電子に誤作動を与え、認識を阻害する違法障壁が展開されている。それが本人に分からないのが分からない。
「いや、あ、君が自分の周りに展開してるそれなんだけど……。ちょっと待って。 君、脳電子つけてないよね?」
「はい。つけてません、けど?」
質問に疑問で返され混乱しながらも思案する。脳電子も何も無い状態でそんな事は絶対不可能だ。なのに彼女はミラージュを張り続け、しかも何故か表面上は第二世代に偽装していた弐四と名前まで何故か知られている。警察の類では無さそうだが、分からない。頼りの弐四も自動検索中のまま答えが出ない。
「あ! ッヤバいです。ごめんなさい」
急に彼女はサトルの背に隠れた、パーカー越しに細い指が服を掴み震えているのが分かる。彼女の覗く方向に視界を合わせると、数人のスーツ姿の男達が首を左右に振りながらゆっくりと歩いている。脳電子は白金の最新型フルフェイスだ、あんな高性能過ぎる脳電子を色まで揃えるなんて警察か違法犯罪組織のどちらかにしか見えない。いずれもミラージュなんて直ぐに気付かれる、ヤバい事には変わりない。
「……い、いや…だ」
振り返ると彼女の体は小さくなって、輝いていた瞳からは涙が溢れて。
——彼女の手を握って走り出す。
弐四の制限解除により人の海を作為的に分けていく、その中心を彼女の腕を引いて駆け抜ける。
「えっ! っあの! っなんで!」
振り返るも自身でも分からないので返事が出来ない。電子ドラッグの影響か瞳に脳を奪われたのか、明確な理由が見付からない。
スーツ姿の男達が気付いて追って来ているのが見えた。絶対に不味い状況で、ドラッグだってまだ抜けていない、腑抜けながらも満足していた日常に戻れなくなる。なのに何故か握っていた手は離せない。
「あーっくそ! 訳わかんねえっ!!」
「わわ、わ、私もですっ!!」
二人は意味も分からないまま秋葉原を疾走する。
だが、残念な事に彼女の足は速くは無い。そしてのんべんだらりのサトルも同様。
今更捕まる訳にはいかない、と弐四がルートを自動検索し表示する。認識阻害の仮想障壁も同時に展開、二人は人混みをぶつかる事なく進んでいく。通り過ぎたところから仮想障壁は弐四が消していき追っ手は人混みに巻き込まれる。
歩道を照らす床に敷かれた横断信号も事前に秒数の計算と調整を行い立ち止まる事なく走り抜ける。
「こ、こんなにヤバいのか第一世代はっ!」
犯罪行為の連続に警告文のポップアップが何度も表示されるが弐四が直ぐに消していく。ルートを知らせる青い線が少し発光する。何だか喜んでいるみたいに感じた。
五分程人と光の群れとホログラムをすり抜けながら走り回ると、工事中のビルに辿り着いた。
本来なら敷地に片足を入れただけでアラートが鳴り警備会社に通報がいくのだが。何も問題は無く、いや問題はあるのだが不法浸入することが出来た。
途切れる息を整えながら奥へと進む。ビルを支える柱に寄りかかり、二人同時に座り込んでしまった。
「あのー、もう一度聞いていいですか」
「……何を」
「どうして私を助けてくれるんですか」
「わからん」
「そう、ですか……。でもありがとうございます」
彼女の方を何故か見れない。弐四は頑張っているようだが、光学レンズにも限界はある。
「ついでにもう一ついいですか」
「なに?」
「手、少し痛いんです」
言われた瞬間振りほどく「あーぁ」とため息混じりの彼女の声につい振り向いてしまう。
彼女の手の甲にまで、サトルの指の跡が赤く付いていた。何故か拡大されていく視界。
「……悪い。……なんか必死で」
「いえ、それはいいんです。少し嬉しかったので」
弐四が自動検索を掛けている。
「それよりも巻き込んでしまってごめんなさい」
検索結果に『吊り橋効果』と表示されている。が直ぐに指で弾いた。
「いや、お、おれも好きでやった事だと思う? から、いい」
「そうですか、それならそういう事にしておきましょう」
「おれの方こそジロジロ見て悪かった」
キョトンとした顔をしながら首を傾げる。鳥頭なのか既に記憶に無いようだ。口をへの字に腕を組んで、うんうん唸っているが出てくる気配は無い。
一度深呼吸して状況を整理する。おかしな事が多過ぎて常識が崩れ掛けていた。何か弐四の調子もおかしい。
「どうしたんです、サトルさん」
「あぁ、そうだった、そこからだな。まず、君は誰なんだ? なんでおれの名前を知ってるんだ」
「えーと、わたしはユキです。サトルさんは調べたら出てきました」
「ユキ。うん、そうじゃなくて、脳電子も無いのにどうやって調べたんだ?」
「どうって、ふつーに?」
知りたい答えが出ない会話。諦めてもう一つの質問をする。
「あの男達はなんだ? なんで君を追っている?」
「あの人達は、わたしで実験をする人達。でも痛いから逃げて来たんです」
「実験? なにをしてるんだ」
「さあ? でも、たまに脳がすごい痛いから嫌なんです」
益々疑問が増えるだけだった。彼女の言動を聞いていると、見た目より少し幼く感じる。具体的な事はわからないし、今どうするべきか分からない。
「そういえば、サトルさんの弐四ってお喋りなんですね」
「は? いや、こいつは喋らないよ。そんな機能はついてない」
「またまた〜、ねー弐四」
ユキはそっと弐四型に細い指を這わせる。
視界の色調が少し桃色に染まる、本格的におかしい様だ。無事に帰れたら分解清掃の必要がある。
「とりあえずこれからどうするか、だ。ユキはどうしたい?」
「どうしましょうか、うーん。行きたかった所があった様な気がするんですけど……」
「なら、とりあえず"秘密基地"に向かう。家よりは安全だ」
「秘密基地ー! なんだかワクワクしますねっ!」
愛想笑いを浮かべながら体を持ち上げる、ルートは弐四が検索済みだ。
横に同じ様に立ち上がる彼女に目をやる。まだ何故彼女に協力してしまったのか分からないが、宇宙に浮かぶ花火よりもブラウンは輝いて見えた。