(四)
平穏な日常が再び破られた俺は、それはもう肉食獣に怯える小動物のように微かな物音にも敏感に反応しながら、キョロキョロオドオドと、つまりキョドキョドと挙動不審をフルに発揮しながら登校することになった。結局、あのイカれた悪魔に出くわすことはなかったが、学校にいながらも窓には近づけなかった。ちくしょう。昨日、襲われた時に高校生だと名乗るんじゃなかった。おまけに自転車も取りに行けねぇ。
「久瀬君、どうしたのデスか? 顔色がとても悪いですよ?」
またもや昼食時に華ヶ崎先生が現れて、いつの間にか俺の横に立っている。
「べ、別になんでもないよ。それより何か用なの?」
あんたに解決できる問題じゃないし。
「今日は、久瀬君のために先生がお弁当を作って来たのですデス」
「マジっすか? 修介ばっかりズルい! 華ちゃん、俺にも作ってよぉ」
太郎、お前は先生の作る料理がどんなものか知らないからそんな事が言えるんだ。
「いらないよ。今日はちゃんと弁当を作って来たから」と先生に弁当箱を見せる。冷凍食品を詰め込んだだけだけどやっぱ朝の忙しい時間にひと手間かけなきゃいけないのは面倒臭い。それに今日は昨夜の悪魔の件があってテンションが下がりっぱなしだし。それでも昨日みたいにみんなから弁当のおかずを少しずつ分けてもらうなんてお寒く侘びしいシチュエーションは勘弁だから仕方なく持って来たんだ。
「そうなんですか。でも毎日作るのは大変でしょう? そんな時は気兼ねなく先生に言って下さいね」
「ねぇ、華ちゃん。修介が食べないとなるとその弁当はどうするの?」
「私が持って帰って夜にでも食べようかと……」
「俺に頂戴! 華ちゃんの手作り弁当を食べたい!」
華ヶ崎先生はあご先に人差し指を添えて、うーんと考えると顔をパッと明るくして「だったら山田君が食べて下さいデス。お口に合うと良いのですけれど」と手にしていたハンカチで包まれた弁当箱を太郎へ渡した。ああ、俺にはあれがパンドラの箱に見える。この世のあらゆる苦しみや絶望が詰まっている箱。ただ希望があるかどうは疑問だが。
能天気な太郎は「やったぁっ!」と声を張り上げてハンカチの縛り口を解いてピンク色の小さな弁当箱のふたを開いた。おおおおおっ! スゲー臭い! 俺たちの周りで食事をしていた生徒たちが机ごと遠のいた。
「こ、こいつは……」
さすがの太郎も臭いにやられたのか顔が青ざめて行く。そしてその弁当は、またエメラルドグリーン色! だからいったい何を使えばこんなに輝くんだ!
「無理すんなよ。また今度作ってもらえば良いじゃんか」
物凄い臭いに顔をしかめながら太郎に言うと、太郎は脂汗をダラダラと流しながら箸を構えた。こいつ、行く気か? 太郎は眉間に深くて太いしわを寄せながら箸を弁当箱に突き刺すとエメラルドグリーン色の何かを拾い上げた。玉子焼きぐらいの大きさのそれはドロドロとした液体に覆われている。太郎は口に運ぼうとしては止め、また運ぼうとしては止める。それを五回繰り返すと目を強くつむって口に頬張ると同時に「ぎゃぼんっ!」と聞き慣れない声を上げて椅子ごと後ろにぶっ倒れた。完全に白目をむきぴくぴく体を痙攣させる太郎に代わり、俺はすぐに弁当箱のふたを閉めて、ハンカチで包むとギュッと強く縛って先生に返す。
「太郎は美味しい物を食べるとこうなるんだよ。こうなったらしばらく起きないからこの弁当は返すね」
華ヶ崎先生は「そうなのですか? 私も今日のお弁当には自信があったのですデス」と嬉しそうに微笑んで弁当箱を抱えて教壇へ向かう。そして教卓の前に立った。
「みなさん」
呼びかけて教室のみんなは異臭に顔を歪めなながらも先生に注目した。
「私はみなさんともっと仲良くなりたいのですデス。ですから今日の昼休み、親睦会を兼ねてドッジボール大会を行うのですデス。ご飯を食べ終わったらすぐに体育館に来て下さいね」
二年三組一同は唖然とした。何故、この歳になって昼休みにドッジボール大会をしなければならないのか? この先生は小学生の先生にでもなった方がいい。どこで選択を間違えたのやら。
「くっだらねぇ」
静まり返った教室にポツリと言い放たれた俺たちの心情を見事に言い表した言葉。しかしそれは心で思っていても口に出してはならない言葉だった。
「ドッジボール大会? ふざけてんの?」
言ったのは教室の前の方で宮田と橋本の二人と食事をしている小森。勉強さえできれば服装や頭髪にはとやかく口を出さない校風である我が赤岡南高等学校においても、毎度の服装検査にひっかかる容姿の小森は脱色した明るい金髪の髪を耳にかけて、耳たぶのピアスを光らせる。あの高宮もこの三人の女生徒には腫れ物に触るような接し方だったぐらいだ。
「小森さん、先生にその口のきき方はないでしょ」
我がクラスの学級委員長、五十嵐が言うが、小森は聞く耳を持たない。
「ドッジボールなんか、みんなだってアホらしいと思うでしょ?」
「では小森さんは何かやりたいことがありますか? 先生に教えて欲しいのですデス」
先生は明らかに引きつった笑顔を貼り付けて小森に訊いた。けれど小森は「ねーよ。面倒だから私たちに関わんなよ」と切り捨てた。教室内は居心地の悪い空気に支配されて、みんなはなんともやりきれない微妙な表情をしている。
「私はやります」
五十嵐が言って、「まぁ、俺も暇だし」「私も少しぐらいなら」と何人かはドッジボールに賛成した。それに対して小森が苦々しい顔を見せたのは超怖かった。俺、こー言うのマジで苦手だ。
五十嵐を筆頭にドッジボールに集まったのは九人だった。先生も入れてちょうど十人になったのは不幸中の幸いだった、とでも言っておかなきゃなんだか悲しい。そして俺も本当は行きたくなかったけど、小森にボコられて凹んだ先生の顔を見てたら、一応一緒に食卓を囲んだ仲だから同情しちゃって、また太郎にも勧められたから参加したんだ。その事実に関して当然ながら小森は良い顔をしなかった。たいして盛り上がらなかったドッジボールから帰って来た俺たちに口でさえ文句を言わなかったものの、態度や視線なんかで強い抗議を示して、五、六時間目はスッキリとしない授業となった。




