全部いらなかった。簡単なこと
家に着いたさとみくんはいつもように先へ……と行かず、私が靴を脱ぎ終わるのも手を洗い終わるのも待って、手を繋いだまま部屋へと入っていった。そこからはいつもと同じですぐにベッドに入り横になってしまったけれど、その瞬間少しだけ離れた手はまたすぐに掴まれて
「…!わっ、さとみくん────」
指先に柔らかい何かが触れ、熱い吐息のようなものがかかり鼓動が少しだけ速くなる。
もしかして…今の、さとみくんの唇があったんじゃ……。そう考えると途端に顔が熱くなり、背を向けたままのさとみくんから視線を少し下げた。
しばらく続いた沈黙は
「……えるがオレといるのは可哀想だから?」
予想もしてなかった言葉によって破られた。
「え───?」
一瞬真っ白になった頭は
「オレがこんなだから一緒にいるの?」
その言葉によって引き戻され
「違うよ!さとみくん!可哀想だからじゃないよ…!そばに居たいからいるの。さとみくんは大切な幼馴染で友達だから……。だから、一緒に…いるの…」
溢れ出そうな涙を堪えながら思いの丈をさとみくんに伝えた。
「…………っ、怪我をしてたら胸が苦しいし、学校に来てなかったら心配になる…。だから、そんなこと言わないでよっ……さとみくん………」
反応をうかがうようにさとみくんを見たけれど、背を向けたままの彼は何も言ってくれない。
どうしよう…なにかもっといい言葉があるはずなのに、上手く言えないよ……。でも、届くまで伝えなきゃ。そうじゃないときっと…もうこんな風に話せる機会はない気がするから───。そう思い顔を上げようとしたその時
「……!! わっ──」
掴まれていた手をぐいっと引き寄せられた。
さとみくんの顔にぶつかる、そう思って反射的に目を瞑ったけれど何かとぶつかった感触はなく、そっと目を開けると、まっすぐ私を見つめるさとみくんの顔が視界いっぱいに映った。そのあまりの近さに自分でも分かるほどドキドキしてしまう。仰向けになった彼の上に私が覆い被さるような状態なのだと気づけば私の鼓動はさらに加速していく。そんな私のことなんてお構いなしなさとみくんは、私の頬を両手で包み引き寄せ、鼻先が軽く触れ合う距離まで近づけた。
「さとみ、くん───?」
戸惑いながらも彼の真意を探るように私は名前を呼んだ。返ってきた答えは
「キス、してほしいならしてあげる」
「………!!」
イタズラか本気か分からないものだった。
私を見つめるその瞳に吸い込まれそうになり、私の全てが停止しかける。それでもなんとか自分の意識を保ち口を開いた。
「それは、ちょっと…ダメ、かも…………」
体を動かして離れようとしても両手の力は思っていたよりも強く、簡単に離れることは出来なかった。更にさとみくんがおまけと言わんばかりに私の唇を親指でそっと撫でた。至近距離でくすぐったい感覚に襲われ、変に意識をしてしまい、顔がどんどん熱くなっていくのが自分でも分かる。それがきっとさとみくんにも伝わっていると考えただけで彼を見ることが出来ずさとみくんから視線を逸らした。
「…じゃあしない」
いつもより少しだけ低い声音が部屋に響く。
「えるが嫌ならしない」
私が、嫌なら────?
「女遊びも喧嘩も…えるが嫌なら全部やめる。その代わり一緒に学校行ってメシ食って帰って毎日ここに来る。これが条件」
だから─────これ以上オレの知らないえるを増やさないで。
「…………!!」
逸らした視線を彼に戻すとさとみくんが私を真っ直ぐ見つめていた。その視線は時折感じるそれとは違くて、瞳には柔らかな焔が灯っていた。
さとみくん───────。
「うんっ!うんっ!もちろん!一緒にいよう…!全部、一緒に…!」
じんわりと胸に広がった温かな気持ちが込み上げて、涙が出そうになったけれど、そんな私の目元をさとみくんが指先で優しく拭ってくれた。少しだけ強ばっていた表情は綻び自然と明るいものになっていく。気づけば私はさとみくんの頭を撫でていた。
「…ガキじゃないんだけど」
少しむくれてしまったさとみくんだったけれど
「ふふっ。嬉しくてつい」
そう笑えば彼もどことなく嬉しそうで、その顔を見るだけで私の頬はさらに緩んでいった。きっと私の顔はとってもふにゃふにゃだ。そんな私の頬をさとみくんは優しく撫で続ける。恥ずかしくてくすぐったいけれど、いつになく優しい彼の瞳に見つめられれば騒がしかった鼓動も落ち着いて、心地良さだけが残った。この優しくてあたたかい時間がこれからも続きますように────。
あ────オレが見たかった大好きなえるの笑顔だ。この笑顔が一番好きで大切なはずだったのに、もう見れないのかと思ってた。でもそっか。困らせなくてもよかったんだ。そんなことしなくてもえるの瞳にはオレだけが映る。なんだ、最初からこうすればよかった。女遊びも喧嘩も全部いらないじゃん。そんなものなくてもえるはかまってくれる。オレの傍にいてくれる。心配がなくなって安心したって大丈夫なんだ。笑顔でもいいんだ。ね?そうだよね?える。そうじゃなかったらオレ────。……ううん。そんなのありえない。だってえるの隣にオレ以外がいる世界線も、オレの隣にえる以外がいる世界線も、どこにも存在しないから。もしあるとするなら……オレが全部壊しに行く────。




