第62話『招待状』
雨は降っていなかった。
それなのに、資料室の窓ガラスには水滴が残っていた。
久瀬黎司は、その水滴を見ていた。
第2編が終わってから三日。
世界は静かだった。
静かすぎた。
誰も共犯者の話をしない。
誰も消えた人間を覚えていない。
有馬も。
白鐘も。
そして警察組織そのものも。
まるで最初からそんな概念は存在しなかったように。
久瀬だけが覚えている。
消えた人数。
消えた名前。
消えた役割。
消えた世界。
資料室の扉が開いた。
有馬だった。
「おう」
久瀬は振り返らない。
有馬は机の上に缶コーヒーを置く。
「最近ずっとその顔だな」
「どんな顔だ」
「寝てねぇ顔」
久瀬は小さく息を吐いた。
否定はできない。
眠るたびに夢を見る。
知らない誰か。
消えた誰か。
存在できなかった人間たち。
そして最後に残る空白。
有馬が椅子に座る。
「事件もねぇし暇だな」
久瀬は窓を見る。
「本当にそう思うか」
有馬は笑う。
「思うね」
その瞬間。
机の上で紙が一枚だけ滑った。
誰も触っていない。
有馬が固まる。
「……今動いたか?」
久瀬は答えない。
視線だけを落とす。
そこには白い封筒が置かれていた。
一秒前まではなかったはずの封筒。
有馬もそれに気づく。
「なんだそれ」
久瀬は封筒を見る。
無地。
差出人なし。
宛名なし。
消印なし。
ただ一つだけ。
封蝋のような黒い印が押されている。
円。
その中央に一本の横線。
どこかで見た気がした。
いや。
見たことがある。
だが思い出せない。
久瀬はゆっくり封筒を手に取った。
軽い。
中には紙が一枚だけ入っている。
有馬が覗き込む。
「開けろよ」
久瀬は封を切る。
中から現れたのは白い招待状だった。
綺麗な活字。
中央に書かれているのは――
零和水族館 特別観察会
沈黙。
有馬が首を傾げる。
「水族館?」
その時だった。
資料室の扉が再び開く。
白鐘雨音が入ってくる。
そして招待状を見るなり立ち止まった。
「……それ」
久瀬が振り向く。
白鐘の顔色が変わっている。
「知ってるのか」
白鐘は首を振る。
「知りません」
そう言った後、少しだけ迷う。
そして続けた。
「でも」
「見たことがあります」
有馬が眉をひそめる。
「どっちだよ」
白鐘は困惑していた。
知らない。
だが知っている。
その矛盾した感覚が確かにある。
久瀬は招待状へ視線を戻した。
下部に小さな文字があった。
――参加者11名
その文字を見た瞬間。
久瀬の胸に奇妙な違和感が走る。
11名。
ただの数字。
それだけのはずだった。
なのに。
なぜか。
その数字が。
減る前提で書かれているように見えた。
白鐘も同じ場所を見ていた。
「11人……」
有馬が笑う。
「普通じゃね?」
白鐘は答えない。
久瀬も答えない。
二人とも同じことを感じていた。
その数字はおかしい。
理由は分からない。
だが。
間違いなくおかしい。
その時。
招待状の裏面が自然にめくれた。
風はない。
誰も触っていない。
それでも紙だけが動く。
裏面には短い文章が書かれていた。
――観測を開始します
沈黙。
資料室から音が消える。
有馬の笑顔が固まる。
白鐘の目が揺れる。
久瀬だけがその文字を見続けていた。
そして。
自分でも理由が分からないまま確信してしまう。
これは招待状ではない。
事件の開始通知だ。
そして今回の事件は犯人探しではない。
もっと根本的な何か。
世界そのものに関わる異常だ。
招待状の文字が一瞬だけ揺らぐ。
――参加者11名
そう書かれていたはずなのに。
久瀬にはほんの一瞬だけ別の数字が見えた気がした。
――参加者10名
次の瞬間には戻っている。
だが久瀬は見た。
確かに見た。
そして理解する。
この事件は始まる前から壊れている。
その予感だけを残して。
資料室には再び静寂が降りた。
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