第57話『消失の観測者』
有馬の声は、いつもより少しだけ低かった。
「……なあ」
資料室の空気を切るように、その一言だけが落ちる。
白鐘雨音が振り向く。
「どうしましたか」
有馬は資料を見ていない。
机も見ていない。
ただ“空間そのもの”を見ている。
「俺さ」
少し間が空く。
「昨日からずっと思ってたんだけどよ」
白鐘が息を止める。
久瀬黎司はすでに気づいている。
この発言は“ズレの自覚”だ。
有馬は続ける。
「人数、合わなくね?」
沈黙。
白鐘の表情が固まる。
「……人数、ですか」
有馬は頷く。
「最初、もっと人いなかったよな」
白鐘がすぐに否定しようとして――止まる。
“何人だったか”が出てこない。
喉の奥で言葉が止まる。
有馬は苛立つように頭をかく。
「いや、誰がって話じゃなくてさ」
「“いた気がするやつ”が抜けてるんだよ」
白鐘の指が震える。
「それは……記録には」
言いかけて止まる。
記録を見ても、“何かが足りない”としか分からない。
久瀬が静かに口を開く。
「お前が見えているのは正しい」
有馬が顔を上げる。
「は?」
久瀬は続ける。
「だが思い出せないのも正しい」
沈黙。
白鐘が震える声で問う。
「どういうことですか……それ」
久瀬は視線を落とす。
「消失は二段階になっている」
有馬が眉をひそめる。
「二段階?」
久瀬は頷く。
「存在の消失と、認識の消失だ」
白鐘が息を呑む。
「認識の……消失」
久瀬は淡々と続ける。
「最初は“いなくなる”」
「次に“いたことが分からなくなる”」
沈黙。
有馬の表情がわずかに変わる。
「じゃあ今は……」
久瀬は答える。
「後者に入っている」
その瞬間、資料室の電灯が一瞬だけ明滅する。
有馬が即座に反応する。
「今の見たぞ」
白鐘は見ていない。
だが“何かが一つ減った感覚”だけが残っている。
有馬は机を叩く。
「おい、今なんか減っただろ!」
白鐘は答えられない。
何が減ったのかを言語化した瞬間、それが消える。
久瀬は静かに言う。
「お前は“観測者”になり始めている」
有馬が眉をひそめる。
「観測者?」
久瀬は続ける。
「違和感を認識できる側だ」
沈黙。
白鐘が小さく言う。
「それって……私と同じですか」
久瀬は首を振る。
「違う」
有馬は呟く。
「何が違うんだよ」
久瀬は答える。
「お前はまだ“世界側”にいる」
その言葉が落ちた瞬間、有馬の表情が一瞬だけ止まる。
自分だけが“遅れている”感覚。
白鐘が小さく呟く。
「じゃあ有馬さんは……」
久瀬は静かに言う。
「今、最初に気づいた側に入った」
沈黙。
有馬は苦笑する。
「気づいたって何にだよ」
久瀬は答えない。
答えられないのではなく、答えると確定するからだ。
そのとき、有馬がもう一度資料を見る。
そして固まる。
「……おい」
白鐘が顔を上げる。
「どうしました」
有馬はゆっくり言う。
「この名前……誰だ?」
白鐘は見ようとして、止まる。
見た瞬間、また“消える気配”がする。
久瀬だけがそれを見る。
そして確信する。
有馬はもう戻れない位置にいる。
久瀬は静かに言う。
「次はもっとはっきりする」
有馬が顔を上げる。
「何がだよ」
久瀬は答える。
「消失そのものが、見えるようになる」
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