第32話『名前の欠落』
朝の捜査会議は、いつも通り始まったはずだった。
だが、その“いつも通り”がもう成立していない。
白鐘雨音が資料を開く。
「昨日の現場記録ですが……」
有馬が横から覗く。
「どのやつだ?」
白鐘は一瞬止まる。
「……あれ?」
ページをめくる。
もう一度。
めくる。
「一人分、抜けてます」
沈黙。
久瀬黎司の視線が上がる。
「誰が抜けている」
白鐘は資料を見つめる。
だがその顔が少しずつ曖昧になる。
「名前が……読めません」
有馬が眉をひそめる。
「は? 印刷ミスだろ」
白鐘は首を振る。
「違います」
「“そこに書かれていた痕跡だけはある”のに、読めないんです」
久瀬は紙を見る。
そこには確かに空欄がある。
しかし空欄の形が“後から削られたものではない”。
最初からそこに「穴として設計されていた」ように見える。
久瀬は静かに言う。
「消えたな」
有馬が嫌そうに笑う。
「またそのパターンかよ」
白鐘が顔を上げる。
「消えたって……何がですか」
久瀬は短く答える。
「共犯者だ」
その一言で空気が止まる。
有馬が顔をしかめる。
「共犯者? 誰だよそれ」
白鐘も黙る。
だがその沈黙は“思い出せない沈黙”だった。
久瀬は続ける。
「この事件には、必ず補助的な存在が必要だった」
「だがそれが不要になった」
白鐘が小さく言う。
「不要……になると?」
久瀬は窓を見る。
雨は同じように降っている。
だがその雨粒の数が、わずかに減っている気がする。
「消える」
有馬が机を叩く。
「おい、またその意味わかんねぇやつかよ」
久瀬は否定しない。
代わりに資料をもう一枚めくる。
そこには“昨日の捜査記録”があるはずだった。
だがそこにあるのは、空白のレポートだった。
白鐘が呟く。
「記録まで……」
久瀬は静かに言う。
「記録は結果だ」
「結果が変われば、記録も変わる」
有馬が苛立つ。
「じゃあ昨日の奴は?」
久瀬は答える。
「“存在しなかったことになった”」
その瞬間、白鐘のペンが止まる。
「……でも」
「私は、その人と会話しました」
有馬が眉をひそめる。
「いつの話だよ」
白鐘は答えようとして、言葉を失う。
“誰と話したか”が、出てこない。
久瀬だけが静かに言う。
「そこが問題だ」
白鐘が顔を上げる。
「久瀬さんは……覚えてるんですか」
久瀬は短く答える。
「覚えている」
有馬が不快そうに笑う。
「お前だけ便利だなそれ」
久瀬は否定しない。
だがその目は、少しだけ鋭くなる。
「これは事故じゃない」
白鐘が息を呑む。
「じゃあ……何なんですか」
久瀬は静かに言う。
「構造だ」
その瞬間、廊下の向こうで足音が一瞬だけ止まる。
誰もいないはずの場所で。
有馬が振り返る。
「今の誰だ?」
白鐘も見る。
だがそこには何もない。
久瀬だけが、その“何かがいた痕跡”を見ている。
そして確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「共犯者という“役割”が、世界から剥がれ始めている」
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