第27話『記録の空白』
記録室の扉の向こうは、音がなかった。
正確には、音が“あるのに認識できない空間”だった。
白鐘雨音は一歩踏み入れた瞬間、顔をしかめる。
「……ここ、変です」
有馬が後ろから覗く。
「何がだよ」
白鐘は言葉を探す。
「全部あるのに、何も記録されていない感じです」
久瀬黎司は中へ入る。
室内は異様に整っていた。
机、棚、書類、すべてが揃っている。
だが“何が書かれているか”だけが抜け落ちている。
白鐘が棚のファイルを手に取る。
「……真っ白です」
有馬が顔をしかめる。
「白紙ってこと?」
白鐘は首を振る。
「白紙じゃないです」
「“書かれていた痕跡だけが残っている”状態です」
沈黙。
久瀬が机に触れる。
指先に、かすかな違和感。
「ここが起点だ」
有馬が呟く。
「これが……?」
久瀬は頷く。
「記録が始まる前の場所」
白鐘が小さく言う。
「でも……記録が始まる前って、何もないはずじゃ」
久瀬は静かに答える。
「ここは“何もない”ではない」
「“何かが消える直前”だ」
その言葉で空気が変わる。
有馬が机を軽く叩く。
「じゃあここで何があったんだよ」
久瀬は答えない。
代わりに棚を見上げる。
そこには分類ラベルだけが残っている。
――事件記録
――証言ログ
――犯人確定ログ
だが中身はすべて空。
白鐘が震える声で言う。
「全部……消えてる」
久瀬は静かに言う。
「消されたんじゃない」
「“成立しなかった”だけだ」
有馬が顔をしかめる。
「それ何が違うんだよ」
久瀬は棚を見つめたまま続ける。
「ここでは、記録は“書かれる前に揺れる”」
「揺れた結果、成立しない」
白鐘が息を呑む。
「じゃあ……私たちが見てきた事件って」
久瀬は短く答える。
「ここで成立した結果だ」
沈黙。
その瞬間、室内の一部が一瞬だけ“埋まる”。
机の上に、書類が現れる。
だがすぐに消える。
有馬が叫ぶ。
「今あったよな!?」
白鐘も頷く。
「見えました……でも読めませんでした」
久瀬は目を細める。
「まだ安定していない」
白鐘が問う。
「安定って……何で決まるんですか」
久瀬は静かに答える。
「観測だ」
有馬が呆れる。
「またそれかよ」
久瀬は続ける。
「ここでは観測が先ではない」
「結果が先にある」
白鐘が震える。
「じゃあ……私たちが見てるこの事件は」
久瀬は一言だけ言う。
「途中だ」
その瞬間、棚の一つが軋む音を立てる。
中身がないはずの引き出しが、ほんのわずかに開く。
そこから“黒い紙片”のようなものが見えた。
有馬が身を乗り出す。
「なんだそれ」
久瀬は止める。
「触れるな」
白鐘が息を呑む。
「それ……起点の一部ですか?」
久瀬は否定しない。
ただ静かに言う。
「まだ確定していない」
雨音が、遠くで一度だけ強く響いた。
この場所だけに。
久瀬は確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「“記録が生まれる前の領域”に踏み込んでいる」
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