第2話『証拠はあとからやってくる』
「……久瀬さん?」
刑事の声で、我に返った。
久瀬黎司はゆっくり資料を机へ戻す。
指先が冷えていた。
「どうしたんすか。そんな顔して」
「……いや」
声が掠れる。
女はまだ泣いていた。
「私がやりました……本当に、ごめんなさい……」
その懺悔は、
数分前まで必死に否認していた人間のものとは思えなかった。
いや。
違う。
“そういう人間に変わっている”。
久瀬の脳裏に、
ありえない考えが浮かぶ。
だが。
それ以外に説明がつかなかった。
刑事が立ち上がる。
「とりあえず自供取ります。久瀬さん、助かりました」
助かりました。
その言葉が妙に遠く聞こえた。
久瀬は女を見つめる。
女はもう、
自分が犯人であることを疑っていない。
まるで最初から、
そうだったみたいに。
取調室を出る。
廊下は静かだった。
夜の署内特有の、
湿った空気が漂っている。
久瀬は歩きながら、
頭の中で何度も整理した。
最初、脅迫メッセージは存在しなかった。
爪にも血は付いていなかった。
供述も違った。
なのに今は全部ある。
自然に。
矛盾なく。
まるで世界が、
“犯人である証拠”を後から埋め込んだみたいに。
「……ありえない」
小さく呟く。
すると背後から声がした。
「久瀬さん」
振り返る。
若い刑事だった。
名を有馬という。
まだ二十代後半。
捜査一課に配属されたばかりの男だ。
「映像、確認します?」
「映像?」
「マンションの防犯カメラっすよ。さっき解析終わったんで」
久瀬の心臓が跳ねた。
防犯カメラ。
彼は取調室へ入る前、
既に一度その映像を見ている。
そこには、
女が慌ててマンションを出る姿しか映っていなかった。
凶器も。
返り血も。
犯行動作も。
何もなかった。
解析室。
薄暗いモニタールームで、
有馬が映像を再生する。
「ここです」
画面にマンションのエントランスが映る。
時刻は二十時五十七分。
女が現れる。
コート姿。
俯いた顔。
そして。
久瀬の呼吸が止まる。
女の右手。
そこに。
血の付着した金属バットが握られていた。
「――っ」
思わずモニターへ近づく。
有馬が怪訝そうに眉をひそめる。
「どうしました?」
ありえない。
そんなもの、
映っていなかった。
久瀬は目を凝らす。
女は周囲を確認し、
バットをバッグへ押し込んでいる。
完全に犯人の動きだった。
有馬が言う。
「決定的でしたね」
決定的。
久瀬の背中を汗が伝う。
「……この映像、いつ回収した?」
「え?」
「いつだ」
「一時間くらい前ですけど」
久瀬はモニターを見つめる。
映像の日付も、
データ番号も自然だ。
改竄の痕跡はない。
有馬が苦笑する。
「久瀬さん、今日変っすよ」
変。
その言葉が妙に引っかかった。
変なのは世界だ。
久瀬じゃない。
そう言いかけて、
飲み込む。
言えるわけがない。
署を出る。
雨はまだ降っていた。
深夜一時。
アスファルトが濡れて光っている。
久瀬はコンビニの軒下へ入り、
煙草を取り出した。
火を点けようとして、
止まる。
指が震えていた。
昔からだった。
理解できない現象に遭遇すると、
身体の方が先に異常を察知する。
久瀬は煙草をしまった。
代わりにスマホを開く。
被害者・倉橋慎吾。
検索。
ニュース記事が出てくる。
『女性トラブルか』
『交際相手から脅迫相談』
久瀬の目が止まる。
脅迫相談?
そんな情報、
取調室に入る前は存在していなかった。
記事の日付を見る。
昨日。
背筋が冷える。
昨日から存在していることになっている。
「……なんだよ、それ」
雨音が強くなる。
久瀬はスマホを握り締めた。
その時だった。
不意に、
後ろから声がした。
「その顔」
女の声。
久瀬が振り返る。
コンビニの明かりの外。
街灯の下に、
一人の女が立っていた。
白い傘。
長い黒髪。
細い目。
年齢は二十代前半くらい。
知らない顔だ。
だが。
女は久瀬を見て、
静かに言った。
「あなたも、“変わった後”を覚えてるんですね」
久瀬の心臓が止まりかけた。
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