第17話『観測者のずれ』
資料室の空気は、さっきよりも静かだった。
静かすぎる、と言った方が正しい。
白鐘雨音は、時計を見ていた。
秒針が動いているのに、音がしない。
「……音、消えてます」
有馬が耳を押さえる。
「いや、聞こえてるだろ普通に」
だが白鐘は首を振る。
「違います。私の中で“音として認識されてない”んです」
久瀬が視線を上げる。
「認識の問題か」
白鐘は小さく頷く。
「はい……情報は入ってるのに、確定しない感じです」
有馬が眉をひそめる。
「それもう疲れてるだけじゃね?」
白鐘は否定しない。
ただ、資料を指す。
「でもこれも同じです」
そこには事件記録が並んでいる。
だが、読むたびに微妙に意味が違う。
――被害者の発見者が変わる
――犯行時刻の前後が入れ替わる
――関係者の位置関係が揺れる
有馬が顔をしかめる。
「さっきからずっと変じゃんこれ」
白鐘が静かに言う。
「でも“全部正しい状態でもある”んです」
沈黙。
久瀬が資料を閉じる。
「観測の問題だな」
白鐘が顔を上げる。
「観測……ですか」
久瀬は窓を見る。
雨は変わらない。
だが、その雨粒の落ちる位置だけが、ほんのわずかにズレている。
久瀬は続ける。
「誰が見ているかで、事件の形が変わる」
有馬が呟く。
「それもう現実じゃなくね?」
久瀬は即答しない。
代わりに静かに言う。
「現実は一つじゃない」
白鐘が息を呑む。
「じゃあ……どれが本当なんですか」
久瀬は少し間を置く。
そして言う。
「“確定したもの”だけが本当だ」
その瞬間、資料室の蛍光灯が一瞬だけ消える。
すぐ戻る。
だが白鐘は気づく。
戻る前と後で、机の上の資料の“順番”が違う。
有馬が机を叩く。
「今絶対動いたよなこれ!」
白鐘は震えながら言う。
「でも……誰も触ってません」
久瀬は静かに言う。
「触る必要はない」
「観測されれば十分だ」
白鐘が顔を上げる。
「観測って……誰の?」
久瀬は一瞬だけ黙る。
そして答える。
「俺たちだ」
沈黙が落ちる。
有馬が嫌そうに笑う。
「俺らが原因ってこと?」
久瀬は否定しない。
白鐘が小さく言う。
「じゃあ……私たちが見てる限り、この事件は変わり続ける……?」
久瀬は静かに頷く。
「そうだ」
その言葉で、空気が一段重くなる。
白鐘の指がわずかに震える。
「じゃあ……どうやって終わらせるんですか」
久瀬は答えない。
ただ窓の外を見る。
雨は同じように降っている。
なのに、その雨だけが“確定していない存在”のように見えた。
久瀬は静かに言う。
「観測をやめることはできない」
「なら、方法は一つだ」
有馬が聞き返す。
「何だよ」
久瀬は短く言う。
「観測の中心を変える」
その瞬間、白鐘の表情が強張る。
「中心……?」
久瀬は目を細める。
「この事件の“基準点”が誰かを決める」
雨音が少しだけ強くなる。
そして久瀬は確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「観測者そのものが、事件の一部になっている」
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