第十五章 白の妖精デビュー
ステーブルに迎えて、十日が経った。
アルバは少しずつ、人に慣れてきていた。
少しずつ——本当に、少しずつ。
駿介が近づくと、まだ一歩引く。リリアナが声をかけると、シルフィーの後ろに隠れる。アイリスとは目が合うと固まる。
それでも——ローズが焔リンゴを差し出した時だけは、おずおずと受け取るようになっていた。
「ほら、口開けなさい」
「……」
アルバが恐る恐る口を開け、焔リンゴを一口かじった。
目が、丸くなった。
「……っ」
「美味しいでしょ」ローズが得意げに鼻を鳴らした。「私が認めたものだもの」
アルバが小さく頷いた。
それを見ていたリリアナが、目に涙を浮かべていた。
「か、可愛い……! アルバちゃん、もっと食べていいですわよ! 経費で落とし——」
「リリアナ」
「……はい」
アイリスが静かに制した。アルバがリリアナの剣幕に縮んでいる。
「ごめんなさいね、アルバ。この人は口だけだから」
「シルフィーも同じこと言ってた」
「……本当のことだから」
走る練習を始めたのは、三日目からだった。
最初は馬場の端を、ゆっくり歩くだけ。
アルバは人型のまま、おずおずと馬場に立っていた。
「……走らなきゃ、だめ?」
「だめじゃない」駿介が言った。「歩くだけでいい」
「……歩くだけ?」
「ああ。今日は歩くだけだ」
アルバが、ゆっくりと歩き出した。
その時、シルフィーが馬型に変わり、アルバの隣を歩き始めた。
アルバが驚いてシルフィーを見た。
「……一緒に歩くの?」
シルフィーは答えなかった。ただ、静かに隣を歩いた。
アルバは少しの間、シルフィーを見ていた。それから、また前を向いた。
その日は、それだけだった。
五日目。
シルフィーとアルバが、並んで馬場を走っていた。
アルバはまだ馬型になることを怖がっていたが、人型のまま走ることなら、少しずつできるようになっていた。
シルフィーが隣でペースを合わせる。速くもなく、遅くもなく。アルバの呼吸に合わせた、穏やかなペース。
しばらく走って、アルバが言った。
「……シルフィー」
「なに」
「もう少し、速くていい?」
シルフィーが、かすかに目を細めた。
「いいよ」
二頭のペースが、少し上がった。
アルバの表情が、変わった。
怯えが消えて、何か別のものが顔に出てきた。
駿介は馬場の端でそれを見ていた。
アイリスが隣で小声で言った。
「……あの顔」
「ああ」
「楽しい、って顔ですね」
「初めて見た顔だな」
七日目。
アルバが初めて、馬型になった。
震えながら、シルフィーの隣で。
純白の馬体が、朝の光を受けて輝いた。
ローズが息を飲んだ。
「……本当に、綺麗ね」
シルフィーが、アルバの首筋にそっと鼻先を当てた。
アルバの震えが、少しずつ止まっていった。
「……大丈夫」
「……大丈夫?」
「ここには、鞭がない」
アルバが、深く息を吐いた。
それから——走り出した。
最初はゆっくり。次第に速く。
シルフィーが並走する。
アルバのペースが上がる。シルフィーが合わせる。さらに上がる。
気づいた時には、二頭は全力で馬場を駆けていた。
アルバが、シルフィーを追い越した。
シルフィーが、もう一度加速する。
アルバがまた追い越す。
追い越した瞬間——アルバが嘶いた。
高く、澄んだ声だった。
それまで一度も聞いたことのない声だった。
駿介が思わず笑った。
アイリスが記録板を持ったまま、固まっていた。
「……アイリス」
「……今の速度、計測不能でした」
新馬戦の朝。
クラウンフィールドのパドックに、アルバが姿を現した瞬間だった。
静寂が走った。
一秒の沈黙の後——。
「……白い」「白い馬だ」「本当に白い……!」
囁きが波紋のように広がり、気づけば観客がパドックの柵に鈴なりになっていた。
アルバは人型のまま、駿介の隣を歩いていた。純白の髪が朝の光を受けて輝き、白い肌が透き通るように見える。
視線が集まってくるのを感じたアルバが、駿介の袖をそっと掴んだ。
「……見られてる」
「ああ」
「なんで」
「綺麗だからだ」
アルバが、自分の手を見た。それからまた前を向いた。
「……綺麗」
その言葉を、どう受け取ればいいのか分からないような顔をしていた。
観客席から声が飛んだ。
「白の一族だ! 本物の白の一族がいるぞ!!」
「可愛い! あの子、可愛すぎる!!」
「ちょっと待って、あの白い髪……天使じゃないの!?」
どよめきが歓声に変わっていく。
アルバの肩が、ぴくりと動いた。
駿介が横目で見ると、アルバの頬が、ほんのりと赤くなっていた。
「……シュンスケ」
「ん」
「あの人たち、なんて言ってるの」
「可愛いって言ってる」
アルバが、また自分の手を見た。
「……可愛い」
小さく呟いて、また頬が赤くなった。
その様子を後ろで見ていたローズが、腕を組んで鼻を鳴らした。
「……ふん」
「ローズ?」
「別に。……私の方が、圧倒的に美しいわよ」
シルフィーが無言でローズを見た。
「……何よ」
「……何でもない」
リリアナが帳面を広げながら、目を輝かせていた。
「パドックだけでこの反応……! グッズ展開、応援旗、アルバちゃんのイラスト入り特製馬券——計算すると金貨が——」
「リリアナ」
「……分かりましたわ」
パドックを一周し終えた頃には、観客の数が倍に膨れ上がっていた。
噂が噂を呼んで、競技場の外まで人が集まってきていた。
「白の一族が出走するって本当か!?」
「本物らしいぞ! 白い髪の女の子だって!」
実況のミラが興奮気味に魔導具を握っていた。
「皆様、本日の新馬戦に、なんと白の一族が出走します! 大陸広しといえども、その存在を直接目にした者が極めて少ないという幻の血統! シュンスケステーブル所属、アルバ! 白の一族、見参です!!」
アルバの肩が、小さく震えた。
「……見られてる」
「競馬場はそういうところだ」駿介が隣に立った。「慣れる必要はない。今日だけ、走ることだけ考えろ」
「……走ることだけ」
「ああ。シルフィーと練習した時みたいに」
アルバが、少しだけ顔を上げた。
シルフィーが人型のまま、離れた場所からアルバを見ていた。
目が合った。
シルフィーが、小さく頷いた。
アルバが、深く息を吸った。
ゲートが開いた。
アルバは馬型になり、外枠からスタートした。
序盤、中団につけた。
だが——。
三完歩目で、アルバの耳が後ろに倒れた。
前を走る馬たちの背中を見た瞬間、何かが弾けた。
〈……気持ちよくない〉
前に馬がいる。それだけで、体が嫌がっている。
〈もっと前。もっと前に行きたい〉
本能が叫んでいた。
駿介が感じた。手綱から伝わる衝動。
これは命令じゃない。シルフィーが感じていた恐怖でもない。
ただ純粋な——欲求だった。
「……アルバ」
〈前が好き。一番前が、私の場所〉
「行っていいぞ」
アルバが弾けた。
一完歩で、三頭をまとめて抜いた。
二完歩で、先頭に立った。
観客席がどよめいた。
「な、何が起きた!? 白い馬、一瞬で先頭!?」
先頭に立った瞬間——アルバの走りが変わった。
前を塞ぐものが何もない。
視界の全てが、自分のものだった。
体中の何かが、溢れ出した。
〈ここだ〉
〈一番前が、私の場所〉
アルバが加速した。
後続を引き離す。さらに引き離す。
「先頭のアルバ、後続を五馬身、七馬身——離れる、離れる! 白い馬体が、まるで光の帯のように——!」
直線。
アルバは後ろを見なかった。
見る必要がなかった。
ただ前だけを見て、走った。
「——ゴォォォォルッ!! 圧勝!! 白の一族、アルバ! 新馬戦、後続に十二馬身差!! コースレコード更新!!」
ゴールを駆け抜けたアルバは、人型に戻った。
荒い息をついて、その場に立っていた。
駿介が駆け寄ると、アルバが顔を上げた。
その目に——涙が、光っていた。
「……どうした」
「わかんない」アルバが首を振った。「なんで、泣いてるのか……わかんない」
「嬉しいんだろ」
「……嬉しい?」
「ああ。お前、今日初めて——自分の場所を見つけた」
アルバが、もう一度泣いた。
今度は声を出して。
子どもみたいに、泣いた。
シルフィーが近づき、何も言わずアルバの隣に立った。
ゲートが開き、レースが終わり——十二馬身差の圧勝。
コースレコード更新。
クラウンフィールドが、割れるような歓声に包まれた。
「アルバ!!」「白の一族ー!!」「可愛いー!!」
三万の観客が、一斉にアルバの名前を叫んでいた。
アルバが、固まった。
自分の名前が、こんなにたくさんの声で呼ばれたことが——生まれて初めてだった。
「……シュンスケ」
「ん」
「あの人たち……私の名前、呼んでる?」
「ああ」
「なんで」
「勝ったからだ。……それに、お前が走るのを見たかったからだ」
アルバが、観客席を見上げた。
三万の視線が、全部自分に向いていた。
追われる時の視線とは、違った。
怖くない。
むしろ——。
「……あったかい」
アルバが、小さく呟いた。
表彰式。
アルバが表彰台に上がると、歓声がさらに大きくなった。
係員が優勝杯を差し出した。
アルバは受け取り方が分からず、駿介を見た。
「両手で持て」
おずおずと両手で受け取った瞬間——フラッシュのような魔力光が一斉に焚かれた。
画家たちが、スケッチブックを手に走り回っている。
「描かせてくれー!」「その笑顔のままでいてくれ!」
アルバが眩しそうに目を細め、優勝杯を胸に抱えた。
その顔に——笑みが浮かんでいた。
小さな、おずおずとした笑みだったが、確かにそこにあった。
観客席が、もう一度沸いた。
「笑った! アルバが笑った!!」
「可愛すぎるだろ!!」
アルバが驚いて、また無表情に戻ろうとした。
でも——口の端がもう一度、上がった。
今度は、自分でも止めなかった。
表彰式が終わり、控室に戻ったところで、ローズがアルバに近づいた。
「……まあ、悪くない走りだったわ」
「ローズ……」
「次はもっと速く走りなさい。あなたの場所は一番前なんでしょ」
アルバが頷いた。
「……うん」
「それと」
ローズが、そっぽを向いた。
「さっき表彰台で笑ってたわね」
「……うん」
「……悪くない顔だったわよ。一回だけ言うわよ、一回だけ」
アルバの目が、丸くなった。
それから——今日一番の笑顔が、咲いた。
「……ありがとう、ローズ」
ローズの耳が、真っ赤になった。
「一回だけって言ったでしょ!! もう終わり、この話は終わりよ!!」
シルフィーが静かに見ていた。
アイリスが記録板に何かを書いていた。
駿介が苦笑いをした。
リリアナだけが、帳面を広げて呟いていた。
「アルバちゃんの笑顔グッズ……需要が爆発的に——」
「「「リリアナ」」」
「……分かりましたわ」




