第5話 不憫な子
平出が保育器を押しながら当直室へ駆け込んでくると、ちょうど仮眠から目覚めた井上医師が白衣に袖を通しているところだった。
「急患です。赤ちゃんポストで保護しました。健康状態の確認をお願いします」
「わかった。じゃあ一緒に新生児室へ行こうか」
白衣を羽織りながら保育器の中をちらりと覗いた井上は——思わず二度見した。
「この子……白人だよな? ずいぶんと珍しいな」
「そうですよね。少なくとも私がここに来てからは初めてです」
平出がすやすやと眠る赤ん坊の頬をそっと指で撫でながら、自然と頬を緩める。
「それにしても、本当に可愛らしいですよね。まるで天使みたい」
こんなにも愛らしい赤ん坊を捨てるだなんて、果たしてどんな親なのだろう——井上は廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。
人にはそれぞれ事情がある。自身の半身とも言うべき子を手放さざるを得なかった親には、むしろ同情すべきなのかもしれないが、それでもやはり、やり切れない思いが胸の底から滲んでくる。
「本当だな。こんなに可愛らしい赤ん坊は見たことがないよ。——とにかく急ごうか」
歩きながら、井上の頭にはつい数日前の記憶が浮かんでいた。
三十歳にもならない若者に、がんの告知をした。
腎臓がんが肺にまで転移した末期患者。井上は医師として延命治療を勧めたが、彼は病状の説明だけ聞くと、全ての治療を断ってそのまま退院していった。
驚いたが——今となっては理解できる。絶対に死から逃れられないなら、残された時間は自分の好きなことに使うべきだろう。病室で過ごすべきではない。
だがその若者は、残された寿命を自分のために使うことすらしなかった。
退院からわずか数日後、病院の前でトラックに轢かれて死んだ。信号無視のトラックから見知らぬ親子を庇って。
病に怯えながら生きるより、人を助けることを選んで死んだ。
もしも天国というものが実在するなら——きっと今頃、彼はそこにいるだろう。
(俺は結局、あの若者に何もしてやれなかったな)
起き抜けのぼんやりした頭でそう思いながら、井上は平出の背中を追った。
贖罪にはならないだろうが——今はせめて、この赤ん坊を助けることに全力を尽くそう。
◇
新生児室に運び込むと、担当の佐藤がマスクと手袋を付け替えながら駆け寄ってきた。
「あらぁ、今日はお客さんがいたのね。どれどれ——」
保育器を覗き込んだ瞬間、彼女の目が輝いた。
「まぁ、可愛い! 本当に天使みたいね!」
ふわふわの金色の髪、真っ白な肌、薄く紅を引いたような小さな唇。
佐藤の手元に集まる視線は、気づけば全員が笑顔になっていた。
テキパキと処置を進めながら、佐藤が手際よく確認していく。
「うん、女の子ね。体重は——3,215グラム、生後約一週間といったところかしら。おめめはまだ開いてないかな」
仕事として赤ん坊を抱いているはずなのに、その顔には隠しようのない愛おしさが滲み出ていた。新生児室の担当は、佐藤にとってまさに天職なのだろう。
一通りの処置が終わると、今度は井上が健康状態を確認していく。
さっきの感傷は頭の隅に押し込めて、手早くチェックを済ませる。問題なし。
井上はほっと息をついた。
生まれてすぐに親に捨てられた。持ち物は身一つだけ。
それならせめて、健康な体であってほしかった。
自分にはこれ以上何もしてやれないが——この先は、幸せな人生を歩んでほしい。
そう願いながら、名残惜しそうに小さな手をそっと握って、井上は当直室へ戻っていった。
——ちなみに彼は帰り際、佐藤にこっそり頼んでいった。
「目が開いたら教えてくれ」と。その時はこっそり抱かせてもらおう、と思っているのだった。
◇
朝の陽光が窓辺に差し込む中、佐藤が確認作業を続けていた。
ふと気づくと、赤ん坊の小さな手が何かをぎゅっと握りしめている。
そっと開いてみると——出てきたのは、一枚の花びらだった。
桜の花びら。
まるでついさっき摘んだかのように、鮮やかな色をしていた。
「桜の花びら? どうしてそんなに大切そうに握ってるの?」
赤ん坊はもちろん答えない。ただ静かに、無邪気な顔で眠っている。
「……わかった。大事なものみたいだから、ちゃんと取っておくね」
佐藤は花びらを丁寧にビニール袋へ入れた。
この子の持ち物は、白いお包みと——この小さな桜の花びらだけ。
たったそれだけを残して、捨てられたのだ。
佐藤の目に、じわりと涙が滲んだ。
看護師として感情に流されすぎるのはよくない。わかっている。でも、止められなかった。
そこへ平出が横から声をかけてきた。
「本当に真っ白な顔ですよね。金色の髪も綺麗だし……この子、ハーフかしら?」
「どうだろうね。日本人っぽくないし、純粋な白人じゃないかな。——もしかしたら、不法滞在者の子かもしれない」
「そっかぁ……じゃあ、戸籍すらないかもしれませんね。生まれてすぐここへ来たんだから」
平出が赤ん坊をじっと見つめ、小さく呟いた。
「……可哀想に。子供に罪はないのに」
「本当にね」
こんなに可愛いのに、親がいない。
こんなに愛らしいのに、愛されずに大人になるかもしれない。
佐藤の胸が、きゅっと締め付けられる。
それでも——と、彼女は思う。
赤ん坊を静かに抱き寄せながら、その小さな命の重さを両腕で感じながら、佐藤はそっと語りかけた。
「君の人生は、こんな寂しいところから始まったけどね」
窓の外では、桜がゆっくりと風に揺れていた。
「きっとこれからは——たくさんの幸せが待ってるよ」




