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第5話 不憫な子

 看護師の平手が、保育器を押しながら足早に当直室へ駆け込んでくる。その先には、ちょうど仮眠から目覚めて身支度を整えている井上医師がいた。

 通常ならば保護された赤ん坊はそのまま新生児室に連れていかれるはずだが、途中に当直医の部屋があるため平出はそのまま寄ったらしい。その彼女が井上に告げた。


「急患です。赤ちゃんポストで保護しました。健康状態の確認をお願いします」


「あぁ、わかった。それじゃあ一緒に新生児室へ行こうか」


 井上が白衣を羽織りながら保育器の中をちらりと見る。彼の専門は内科だが、目の前にいるのは生まれたばかりの赤ん坊だ。触れただけで壊れてしまいそうなほどに小さな身体。それを見ているといささか不安になってくる。


 もっとも、当直医が赤ん坊にしてあげられるのは簡単な健康チェックと既往症の確認だけだ。だからもしも不測の事態にでもなれば、そこから先は小児科医の出番になる。


 赤ん坊の顔を見た井上は、思わず二度見してしまう。次いで、しげしげと眺め始めた。


「この子は……白人だよな? ずいぶんとまた珍しいな」


 意図せず井上が独り言を漏らす。それに平出が相槌を打った。


「そうですね。白人の赤ちゃんを保護したのは初めてだと思います。少なくとも私がここに来てからは。――それにしても、本当に可愛らしいですよね。まるで天使みたい」


 スヤスヤと眠る赤ん坊の頬を指で撫でながら平出が微笑む。その姿を眺めながら井上は考えた。


 こんなにも愛らしい赤ん坊を捨てるだなんて、果たしてどんな親なのだろう。想像すると、なんともやり切れない思いがこみ上げてくるが、人には様々に事情があるものだ。自身の半身とも言うべき子を捨てざるを得なかった親の気持ちを思うと、むしろ同情すべきなのかとも思ってしまう。


「本当だな。こんなに可愛らしい赤ん坊は見たことがないよ。もっとも、赤ん坊は皆可愛いがね。それにしてもこの子は特別だろう。とにかく急いで新生児室にへ行こうか」

 

 内科医の井上は、つい最近も三十歳にもならない若者にがんの告知をした。その若者は腎臓がんが肺にまで転移した末期の患者だったが、井上は医師として延命治療を勧めたのだ。しかし、彼は病状の説明だけを聞くと全ての治療を拒んでそのまま退院していった。


 その行動に井上は驚いたものだが、今となってはそれも十分に理解できる。もしも絶対に死から逃れられないならば、残された時間は自分の好きなことに費やすべきで、決して病室で過ごすべきではないだろう。若者の半ば諦めたような表情を思い出し、井上は気の毒に思ってしまった。


 しかしその若者は残された寿命を己のために使うことはなかった。退院した数日後に病院の前でトラックに轢かれて唐突にこの世を去ったのだ。


 通りがかりの幼い女の子とその母親を、信号無視のトラックから庇った。残された短い人生を病に怯えながら生きるよりも、人を助けることを選んで死んだのだ。もしも天国というものが実在するなら、今頃彼はそこにいるのかもしれない。


 そんな数日前の出来事を思い出しながら、井上は妙にしんみりとする。一人ひとりの患者に心を乱される自分は医者として未だ未熟なのだ。起き抜けのぼんやりとした頭でそう考えながら、前を歩く平出の後を早足で付いて行った。


 若者に何もしてやれなかった贖罪にはならないだろうが、とにかく今はこの赤ん坊を助けることに全力を挙げよう。そう誓うのだった。



 赤ん坊を新生児室に運び込むと、担当者の佐藤が新しいマスクと手袋に交換しながら走り寄って来る。彼女は保育器の中を覗き込みながら目を輝かせていた。


「あらぁ、今日はお客さんがいたのね。どれどれ――まぁ、可愛い! まるで天使みたいね!」


 真っ白なお(くる)みを捲ると、そこには白人の赤ん坊が眠っていた。

 緩くウェーブのかかったふわふわの金色の髪と、真っ白な肌と薄く紅を引いたような小さくて可愛らしい唇。それらすべてが天使のように見えて、見つめる周囲の顔には微笑みが溢れる。

 そんな愛らしい赤ん坊を手に取りながら、佐藤はテキパキと処置していった。


「うん、やっぱり女の子ね。体重は――3,215グラム、生後約1週間といったところかしら。おめめは……まだ開いてないかな」


 あくまでも佐藤は仕事として赤ん坊を抱いているのだが、その顔には愛おしそうな表情が溢れていた。仕事とはいえ、それは彼女が喜んで行っていることがわかるのものだ。子供好きの佐藤にとっては新生児室の担当は天職なのかもしれなかった。



 一通りの処置が終了すると次は医師の井上の出番となる。先ほどの感傷などは頭の隅に追いやると、こちらもテキパキと赤ん坊の健康状態を確認していく。赤ん坊の健康に問題がないことがわかると、井上はホッと安堵の溜息を吐いた。


 生まれてすぐに親に捨てられた不憫な身の上である。

 この身一つしか残してもらえなかったならば、せめて病気のない健康な身体であってほしかった。

 自分にはこれ以上何もしてあげられないが、この先は幸せな人生を歩んでほしいと願うのだ。そしてこんな愛らしい赤ん坊を捨てた親に対して、言いようのない口惜しさを感じていた。

 

 一通りの検査が終わると、名残惜しそうに赤ん坊の小さな手を握って井上は当直室へと戻って行く。

 彼はこの子の目が開いたら是非自分に知らせてほしいと頼んでいた。その時はこっそりとこの子を抱かせてもらおうと思っていたのだった。

 


 陽光が窓辺にそっと寄り添い、その中で佐藤が確認作業に没頭する。彼女の手元にはまだ何も知らない赤ん坊がいた。

 見れば小さな手がぎゅっと何かを握りしめている。佐藤が慎重に小さな掌を開くと、そこに一枚の花びらが現れた。それは桜の花びらだった。まるでついさっき握られたかのように鮮やかな色合いだった。


「桜の花びらかな? 君はどうしてそんなに大切そうに握っているのかな?」

 

 佐藤が赤ん坊に問いかける。そして無邪気な顔を見つめながら話を続けた。


「うん、わかったよ。これは大事なものみたいだから、大切に保管しておくね」


 佐藤は花びらを大切にビニール袋に入れて保管することに決めた。この子の持ち物は、全身を包む白いお包みと、この小さな桜の花びらだけ。

 多くの赤ん坊が生まれながらに多くのものを持つこの時代に、この子はたったこれだけを残して捨てられたのだ。その事実に心を痛めた佐藤の目からは思わず涙が溢れそうになる。


「君の人生はこんな寂しいところから始まったわけだけど、きっとこれからは、たくさんの幸せが待っていると思うよ」


 佐藤はそっと赤ん坊を抱きしめ、その小さな命の重さを感じながら未来への希望を胸に秘めた。

 

 佐藤はこれまで数え切れないほどの赤ん坊を見守ってきた。この施設にやって来る子供の多くは、何も持たずにこの世に放り出されている。

 保育器の中に様々な品物が入れられていることもあるが、何も持たせてもらえずに来る子供たちの運命に佐藤は特に心を痛めさせた。


 佐藤自身も親として子に愛情を注ぎ、その成長を温かく見守る喜びを知っている。しかし目の前にいるこの赤ん坊は、生まれた瞬間から親の愛を知らずに育っていくのかもしれない。

 この世に生を受けたにもかかわらず、愛されずに大人になる可能性があるのだ。その思いに佐藤の胸は締め付けられる。

 そんな彼女の横から同僚の平出が話しかけてきた。


「本当に真っ白な顔ですね。金色の髪もとても綺麗だし……この子、ハーフかしら?」


「どうだろうね。それにしては日本人っぽくないし、純粋な白人じゃないかと思うけど。もしかしたら、不法滞在者の子かもしれないね」


「そっかぁ……それじゃあ、戸籍すらないのかもしれませんね。生まれてすぐにここへ来たんだから。……可哀そうに、子供に罪はないのに」


「本当にね。こんなに可愛いのに、親がいないなんて」


 歳を重ねるごとに涙もろくなった佐藤の瞳に再び涙がこみ上げてくる。看護師として感情に流されすぎるのはよくないことだと分かっている。しかし彼女にはその感情を抑えることができなかった。プロ失格かもしれないと自分を責めながらも、子供たちへの情は止められなかった。


 彼女の前には、絵画や映画に登場する天使のような赤ん坊がいる。その愛らしい姿に心を奪われながらも、この先の厳しい人生を思いやる佐藤の心は深い慈しみで満たされていたのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 優しい表現ならば:ここに来た 「まぁ、生まれてすぐに{捨てられた}んだから、戸籍なんてないでしょ、たぶん。……可哀そうにねぇ、子供に罪はないのに」
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