第32話 初めての部活動
四月中旬。
一年生がやっと新生活に慣れ始めた、ある日の放課後。
桜子と健斗は並んで帰宅の途についていた。
学校で美少女と評判の桜子の横を歩く健斗には、多くの男子生徒から嫉妬と羨望の視線が向けられる。入学以来、健斗は何度も「ふたりは付き合っているのか」と問われてきたが、その度に「ただの幼馴染だ」と答えてきた。
にもかかわらず、桜子に近づきたいと願う男子は後を絶たず、二人が並んで歩くだけで嫉妬の視線を感じるのだった。
今日もそんな視線に晒されながら歩いていると、おもむろに健斗が口を開いた。
「あのさ、桜子。明日から一緒に帰れなくなる」
何の前触れもなく告げられて、桜子が隣の健斗の顔を思わず見つめる。彼女の顔にはどこか不安そうな表情が浮かんでいた。
「どうしたの? 何かあった? 誰かに何か言われたの?」
「ち、違うよ。部活だよ。俺、部活に入るんだ」
「……なぁんだ、びっくりしたぁ。てっきり何かあったのかと思ったよ。それで、やっぱりサッカー部なの?」
「いや、柔道部だ。もう入部届も出してきた」
「えっ? 柔道部? もう入ったの? 健斗って柔道やったことあったっけ?」
「いや、ないよ。でも俺……いや、なんでもない」
「ん?」
健斗は平均よりも小柄な体格をしている。そのせいばかりではないが、小学生時代の少年サッカーでは一度もレギュラーになれず、桜子に応援に来てもらう機会もなかった。
だが柔道なら個人戦がある。試合も体重別で分かれるから、小柄な体格が不利になることもない。
しかし、それは本当の理由ではなかった。
健斗はただ強くなりたかったのだ。
桜子をこれからも守り続けるために。
◇
「部活かぁ……」
夕食後、リビングでお茶を飲みながら桜子が呟いていると、浩司が話しかけてきた。
「おう、部活か。言っておくけどな、放課後に店の手伝いとか考えなくていいからな。お前は好きなことをすればいい」
「そうよ。せっかく中学生になったんだもの。部活を楽しむのは学生の特権よ。何かやりたいことはないの?」
キッチンから楓子も顔を出した。すっかり元気を取り戻した桜子が、中学生らしい話をしているのが嬉しそうだ。
「——あたし、水泳がしたい。また泳ぎたいな」
「あら、いいじゃない。でも……水泳部って公立の中学校には少ないかもね。桜子の学校にはあるの?」
年間を通じてプールを維持するには費用と手間がかかる。そのため、公立校で水泳部を設けているところは少ない。
桜子は母親に問われて初めて、自分の学校に水泳部があるかどうかを知らないことに気づいた。
「うーん、わかんない。明日訊いてくるよ。期待しないで待ってて」
結論から言うと、水泳部は存在していた。
中学校から一ブロック隣の区民体育館に温水プールが併設されていて、水泳部はそこを間借りして活動しているらしい。ただ、どの生徒に尋ねても詳しくはわからないと言う。そこで桜子は顧問教師に直接話を聞くため、放課後に職員室へ向かった。
「失礼します。一年三組の小林ですが、根竜川先生はいますか?」
ノックとともに入ってきた少女を見て、教師たちが一斉に仕事の手を止める。話題の美少女新入生を目の当たりにして、少なからず驚いている様子だった。
「あぁ、根竜川は私だが。どうした?」
窓側の席から手を振ったのは、短めのショートカットが似合う快活そうな外見の女性教師。常にジャージを身につけているせいで、体育教師に間違われることも多い、男のような話し方が印象的な三十歳の英語教師だった。
桜子が歩み寄ってペコリと頭を下げ、要件を切り出した。
「一年三組の小林桜子です。先生にお話を伺いたくて来ました。お時間はありますか?」
「あぁ、時間ならあるが。どんな話だ?」
「あの、あたし、水泳部に入りたいんです。部活のお話を聞かせてください」
根竜川は驚いた。自分が顧問を務める部活動に、話題の美少女が入りたいと申し出るとは思ってもみなかった。しかもほとんど存在を知られていない、非常に地味な部活に。
しかし驚いている場合ではない。
根竜川は気を取り直して、空いていた椅子に桜子を座らせて説明を始めた。
S中学の水泳部は弱小だった。
部員はわずか五人しかおらず、かろうじて部と認められる最低人数を保っている状態でしかない。そもそも顧問の根竜川に水泳の経験がなく、聞いた話や本からの知識で指導する有様だ。
年間を通じて温水プールが使えるという、公立校としては非常に恵まれた環境にもかかわらず、成績が底辺に甘んじているのはそうした事情からだった。
それでも桜子は水泳がしたかった。試合に出るのは二の次で、ただ泳げればそれで満足だった。むしろ弱小部の方が、成績やプレッシャーもなく自由に泳げるのではないかとさえ考えていた。
半信半疑の根竜川から熱心に説明を聞いた桜子は、「両親と相談して返事をします」と言い残してその日は帰っていった。
◇
数日後、桜子は水泳部に入部した。
入部届を出したその日の放課後、根竜川に案内されてプールへ向かう。
「おい、集まれ! これからお前たちに新入部員を紹介する!」
根竜川の声が響き渡り、五人の部員たちが集まってきた。予期せぬ新入部員の知らせに、瞳を輝かせながら。
「よし、集まったな。——おい、小林こっちだ」
そう呼ばれて現れたのは、今話題の金髪碧眼美少女だった。
野暮ったい学校指定のジャージに身を包んでいるにもかかわらず、その美しさと愛らしさは隠しきれていない。いや、むしろその登場は、場の空気そのものを変えていた。
それは、誰からも注目されることのなかった弱小水泳部の前に、天使が降臨した瞬間だった。




