第32話 初めての部活動
4月中旬。
1年生がやっと新生活に慣れ始めたある日の放課後。桜子と健斗は一緒に帰宅の途についていた。学校では美少女と評判の桜子である。その横を歩く健斗には、多くの男子生徒から嫉妬と羨望の入り混じった視線が向けられる。
入学以来、健斗は何度も桜子と付き合っているのかと問われたが、その度に「ただの幼馴染だ」と答えてきた。にもかかわらず、桜子に近づきたいと願う男子は後を絶たず、二人が並んで歩くだけで嫉妬の視線を感じてしまうのだった。
今日も今日とて、そんな視線に晒されながら歩いていると、おもむろに健斗が口を開いた。
「あのさ、桜子。明日から一緒に帰れなくなる」
何の前触れもなくいきなり告げられた桜子は、隣を歩く健斗の顔を思わず見つめる。その顔には何処か不安そうな表情が浮かんでいた。
「どうしたの? 何かあった? 誰かに何か言われたの?」
心配そうに青い瞳で見つめてくる少女に対し、健斗は慌てて否定した。
「ち、違うよ、部活だよ。俺、部活に入るんだ」
「なぁんだ、びっくりしたぁ。てっきり何かあったのかと思ったよ。やっぱりサッカー部なの?」
「いや、柔道部だ。もう入部届も出してきた」
「えっ? 柔道部? もう入ったの? 健斗って柔道やったことあったっけ?」
「いや、ないよ。でも俺……いや、なんでもない」
「ん?」
健斗は平均よりも小柄な体格をしている。それが全ての理由ではないが、小学生時代の少年サッカーでは一度もレギュラーになることができず、桜子に応援に来てもらう機会もなかった。
だが、柔道ならば個人戦がある。試合は体重別に分けられているので、小柄な体格が不利になることもない。努力して強くなれば、桜子に応援してもらうことも可能だ。
しかし、それは本当の理由ではなかった。
健斗はただ強くなりたかったのだ。
桜子をこれからも守り続けるために。
「部活かぁ……」
桜子が夕食後にリビングで茶を飲みながら呟いていると、それを目ざとく見つけた浩司が話しかけてきた。
「おう、部活か。言っておくけどな、放課後に店の手伝いとか考えなくていいからな。お前は好きなことをすればいい」
「そうよ。せっかく中学生になったんだもの。部活を楽しむのは学生の特権よ。何かやりたいことはないの?」
キッチンから楓子も顔を覗かせて話に加わってくる。最近すっかり元気を取り戻した桜子が、中学生らしい話をしているのを見て彼女は嬉しそうだった。その彼女へ桜子が返答する。
「――あたし、水泳がしたい。また泳ぎたいな」
「水泳? あら、いいじゃない。だけど……水泳部って公立の中学校には少ないかもね。桜子の学校にはあるの?」
年間を通じてプールを開設するには、かなりの費用と手間がかかるため、公立学校で水泳部を設けているところは少ない。もっとも、母親に問われるまで水泳のことを忘れていた桜子は、自身の学校に水泳部が存在するかは知らなかった。
「うーん、わかんない。明日訊いてくるよ。期待しないで待ってて」
結論から言うと、水泳部は存在していた。
中学校から1ブロック隣の区民体育館に温水プールが併設されており、水泳部はそこを間借りして活動しているらしい。
しかし、どの生徒に尋ねても詳しくはわからないと言い、活動状況は不明だった。そこで桜子は、顧問教師に直接話を聞くため、放課後に職員室へ行ってみることにした。
「失礼します。1年3組の小林ですが、根竜川先生はいますか?」
ノックとともに職員室に入ってきた少女を見て、教師たちが一斉に仕事の手を止める。いま話題の美少女新入生の姿を目の当たりにして、彼らは少なからず驚いている様子だった。
「あぁ、根竜川は私だが。どうした?」
窓側の席にいた若い女性教師が手を振ると、それに気付いた桜子が歩み寄った。
根竜川は短めのショートカットの髪型が似合う快活そうな外見と、男のような話し方が印象的な30歳の女性英語教師である。常にジャージを身に付けているのとその風貌から、体育教師に間違われることも多い。
桜子は彼女の元へ近づき、ペコリと頭を下げてから要件を切り出した。
「1年3組の小林桜子です。先生にお話を伺いたくて来ました。お時間はありますか?」
「あぁ、時間ならあるが。それで、どんな話だ?」
「あの、あたし、水泳部に入りたいんです。部活のお話を聞かせてください」
根竜川は驚いた。自身が顧問を務める部活動に、いま話題の美少女が入りたいと申し出るとは思ってもみなかった。しかも存在すらほとんど知られていない、非常に地味な部活に。
しかし、驚いている場合ではない。根竜川は自分を落ち着かせ、空いていた手近な椅子に桜子を座らせて説明を始めた。
S中学の水泳部は弱小だった。部員はわずか5人しかおらず、かろうじて部と認められる最低人数を保っている状態だ。
そもそも顧問である根竜川には水泳の経験がなく、聞いた話や読んだ本からの知識による指導しかできていなかったため、年間を通して温水プールが使えるという、公立校としては非常に恵まれた環境にもかかわらず、成績は底辺に甘んじていた。
それでも桜子は水泳がしたかった。
試合に出るのは二の次で、ただ泳げればそれで満足だった。むしろ弱小部のほうが、試合や成績などのプレッシャーもなく自由に泳げるのではないかとさえ考えていた。
半信半疑の根竜川から熱心に説明を聞いた桜子は、両親と相談して返事をすると言い残し、その日は家に帰っていった。
数日後、桜子は水泳部に入部した。
入部届を出したその日の放課後、彼女は見学のために根竜川に案内されてプールへ向かった。
「おい、集まれ! これからお前たちに、新入部員を紹介する!」
プールに根竜川の声が響き渡り、それに引かれるように5人の部員たちが集まってくる。彼らは予期せぬ新入部員の知らせに瞳を期待で輝かせていた。
「よし、集まったな。――おい、小林こっちだ」
そう顧問に呼ばれて現れたのは、今話題の金髪碧眼美少女だった。
緩くウェーブした白金色の髪に、透き通るような青い瞳と抜けるように白い肌。顔が小さく、頭身の高いスラリとした肢体と神懸り的に整った目鼻立ち。
野暮ったい学校指定のジャージに身を包んでいるにもかかわらず、その美しさと愛らしさを隠しきれていないその様は、まさに天使と言っても過言ではなかった。
そんな美少女が、誰にも注目されることのない、弱小水泳部員たちの前に現れたのだった。




