第24話 既視感と絶望
不快感を催す表現と暴力描写があります。苦手な方はご注意下さい。
ふと目覚めると、そこは暗闇だった。
目を開けられない。
布のような物で目を覆われて、手は後ろで縛られている。
足は――だめだ、まったく動かない。
手と同様に両足も縛られて、立ち上がるどころか、ろくに動かすことも出来ない。
声を出そうとするものの、布のようなもので口を塞がれて、呼吸さえもままならない。
酷く頭が混乱する。
考えるのが辛い。
ここはどこなのだろう。
あたしはどうして……
……思い出した。
箱根さんの家に行く途中で、何か薬のようなものをかけられて気を失ったのだ。
でも、どうしてそんなことを……
あたしはどうなるのだろう。このまま殺されてしまうのだろうか?
あたしは何か悪いことをしたのだろうか。
箱根さんを怒らせるようなことをして、お仕置きされているのだろうか。
どうして?
どうして?
怖い
怖い
助けて
助けて
パパ、ママ、たすけて――
買い物を終えた箱根晃が、コンビニから興奮気味に出てくる。その顔には隠しきれない喜びが溢れ、何か楽しいことを見つけた子供のように、彼の心は高揚していた。
当面必要なものはこれで足りるだろう。もしも不足があれば、桜子ちゃんと相談してまた買いに来ればいい。
あぁ、楽しみだ。
これから二人の生活が始まるのだ。
箱根の心は、これから訪れるであろう目眩く夢と希望、そして興奮で満ちていた。
桜子が顔を床に擦り付けて、目を覆う布を必死に外そうとしていると、突如として足元の方から物音が聞こえてくる。ハッと頭を上げると、ガチャガチャという音の後に金属製のドアが開くような音が響いた。
動きを止めて、聴覚に全神経を集中する。するとそれは聞こえてきた。
「桜子ちゃん、ただいま。――あれ? 目が覚めたんだね。喜んでよ。君が眠っている間に、買い物に行ってきたんだ。これからの生活のために色々と必要だろう?」
男にしては甲高い、やや早口な喋り声。
桜子はこの声と話し方を知っていた。そう、それは間違いなく箱根晃のものだった。
実を言うと桜子は、初めて箱根に会った時から既視感があった。最初はどこかで会ったことがあるのかと思う程度だったが、ある日突然に思い出したのだ。
箱根は桜子の前世の記憶に現れる人物だった。その中で、前世の自分が彼と親しくしていたことを思い出す。
会話を交わし、笑い合い、仕事と食事をともにした。そして自分が死ぬ直前に、一緒に酒を飲んで泣いてくれたのも彼だった。
そのため桜子は、箱根に対してまるで警戒心を持っていなかったのだ。
それを思い出した桜子は、口の中が急速に乾く感覚とともに、全身に絶望感が満ちていくのを感じた。そしてその感覚を味わいながら、彼女はあることを思い出していた。
桜子には以前から両親に注意されてきたことがある。
「世の中には子供を攫う悪い人間がいる。お前は可愛いから、特に注意しなければいけない」
そう何度も言い聞かされてきたのだ。
けれど「悪い人間」というものがどうにもピンとこなかった桜子は、両親の注意に耳を傾けながらこう思った。
こんな自分を攫ってどうするのか。
人よりいっぱいご飯は食べるし、何か面白いことを話せるわけでもない。それどころか、食事や風呂など、お世話の手間を考えれば、連れて行ったところで何の得もしないのではないか。
しかし、事ここに及んで、ついに桜子は理解する。両親の言葉の意味を。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、どこか能天気な口調で箱根が言った。
「あぁ、だめだよ桜子ちゃん。無理に動くから、スカートがめくれちゃったじゃないか。しょうがないなぁ、僕が直してあげるね」
少々聞き取りづらい早口とともに桜子のスカートを引っ張り直し、ついでに腿をさらりと撫でていく。桜子の背筋に言いようのない嫌悪と恐怖が走り抜けるとともに、その心は耐えがたい絶望感に押しつぶされそうになった。
自分は箱根を怒らせて、お仕置きされているのではなかった。
悪いのは自分じゃない。箱根が「悪い人間」なのだ。
箱根は悪戯をしたいのだ。
自分はおもちゃにされるに違いない。
いや……いやだ……怖い、怖い、怖い……
助けて……パパ、ママ……誰か……
桜子が恐怖のあまり身動きできずにいると、目を覆う布がゆっくり取り払われて瞼の裏が明るくなる。戸惑いながら徐々に目を開けると、瞳に飛び込んでくる光の眩しさに顔を顰めた。
次第に目が慣れてくると、目の前にぼんやりとした人の顔が見えてくる。当然のようにそれは箱根だった。しゃがみ込み、スラリとした桜子の肢体を舐めるように眺めていた。
桜子にとっての箱根は、優しくて礼儀正しい成人男性だった。しかし、いま目の前にいるのは、歪んだ欲望に瞳をギラギラと輝かせる、まるで子供のような男である。
だから余計に恐ろしかった。大人であれば理屈は通じる。感情に訴えることもできるかもしれない。けれど相手が子供であれば、そんなものは通用しなかった。
「うーうー! むー!」
桜子は声を絞り出して叫ぼうとしたものの、がっちりと結ばれた猿轡のせいで小さな唸り声にしかならない。その様子をいやらしい笑みとともに眺めていた箱根は、床に置かれた買い物袋をゆっくりと開け始めた。
その様子を横目に見ながら桜子が周囲を見渡す。するとここは、古いアパートの一室のようだった。窓が正面と後方のみであるところを見ると、ここは左右を隣室に挟まれているらしい。なんとか大きな声を出せれば、隣の人に聞こえるかもしれない。
「うー! むー! うー!」
一縷の望みに掛けた桜子が、必死に大声を出そうともがいていると、買い物袋から荷物を取り出しながら箱根が声をかけてくる。
「叫んでも無駄だよ。両隣は空き部屋だから、いくら叫んでも聞こえないんだ。ただ疲れるだけだから、やめた方がいいね」
箱根の窘める声を聞きながら、それでも桜子は叫ぶのをやめようとしない。いかに無駄であろうと、そうしていなければ、すべてがここで終わってしまうような気がした。
「むー! うー! むーむー!」
桜子が唸り声を上げ続ける。それを見ていた箱根が、憐れみの混ざったような視線とともに近づいてくる。その瞳は欲望に醜く歪み、桜子の小さくて可愛いとがった鼻を指でなぞって話し掛けた。
「ねぇ。僕がやめろと言っているのに、どうして君はやめないの? 無駄なことだって何度も言っているじゃないか。あぁ、聞き分けのない悪い子にはお仕置きが必要だと思うんだけど、君はどう思う?」
感情のこもらない、妙に平坦な声。肩をビクリと震わせた桜子は、青い瞳を大きく見開き、今にも零れそうにうるうると涙を溢れさせた。
その刹那、彼女の腹に箱根のつま先がめり込んだ。
ドカッ!
「うっ! ……うううぅー! むー! うぅー!」
「あぁ、ごめん! ごめんよ、桜子ちゃん! 痛いよね! とっても苦しいよね!?」
衝撃と痛み。そして襲い掛かる呼吸困難のために、身体をくの字に曲げて震える桜子。箱根は彼女に縋り付くと、耳元で優しく囁いた。
「だから桜子ちゃん、僕に逆らわないでよ。痛いのは嫌だよね。ごめんね、僕も本当はこんなことをしたくないんだ。だから、君が言うことを聞いてくれれば、もう酷いことはしないと誓うよ。――大丈夫? ここが痛いのかい? 僕がさすってあげるね」
言いながら桜子の腹をさする箱根は、今や顔に浮かぶ恍惚とした表情を隠そうともしていなかった。
◆◆◆◆
健斗が小林家に駆け込んできてから、わずか3分で警察へ通報された。それから10分後に二人の警察官が到着して楓子と健斗に事情を聞き、車両のナンバーを無線で照会すると、その後彼らは本部からの返答を待つ間に近隣へ聞き込みに取り掛かっていった。
本部から返答で、その車がレンタカーであることが判明する。すぐさま別の警官がレンタカー会社へ向かい、楓子たちは自宅で待機することになった。浩司は配達先から急いで戻ってくると、青ざめた楓子を支えながら警官たちとともに本部からの連絡を待った。
「誰だ! 誰が桜子を攫った! あの子に何かしやがったら……」
警官の説明に感情を抑えきれない浩司を、もう一人の警官が落ち着くように宥めた。理性ではわかっていても感情がそれを阻害する。それでも楓子の手前、落ち着かざるを得ない浩司は、なんとか気を紛らわせようと、地面を見つめて何かをぶつぶつと呟いていた。
通報者ではあるものの、家族ではない健斗はこれ以上その場にはいられなかった。全ての情報を聞き取った後に彼を家へ帰し、犯人からの連絡が入る可能性があるため、警官たちは小林家で待機を続けることになる。
その後すぐに警察本部から連絡が入り、レンタカーの借り主が特定されたのだった。




