第2話 余命宣告
その瞬間、鈴木秀人の世界は、まるで夜の闇に呑み込まれるように暗転した。
人が「絶望」と呼ぶものがあるとすれば、きっとこういうことなのだろう。
この記憶は、これからの人生の全ての日々を通して消えることはないはずだ。
……もっとも、その「人生」がどこへ向かうのかなど、この時の彼には、想像もつかなかったわけだが。
◇
どうも最近、腰が痛い。
先日、仕事でちょっと派手に暴れたので、最初はそれが原因かと思っていた。
でも、まだ二十八歳だぞ? 腰痛持ちって何? まじで? これからの人生設計、大丈夫か俺?
……悩んでいても仕方ないので、とりあえず桜の病院で診てもらうことにした。
「どの辺が痛いですか」「いつ頃から」「思い当たる原因は」と矢継ぎ早に質問を受けながら検査を受ける。
診察が終わって、半休をもらった礼を伝えようと会社に電話してみれば——
「人手が足りないから、戻ってきてください」
……マジかよ。
具合が悪いって言ってんだから、今日くらい早く帰らせろよな。
俺の勤めている会社は、いわゆるブラックだ。
社長の一声で全てが決まり、社内会議なんて概念は存在しない。新人の頃から面倒を見てくれた先輩が、先日とうとう吐血して入院した。
重度の胃潰瘍。もう一ヶ月近く経つが、どうやら社長はそのままクビにするつもりらしい。
酷い話だ。でも、給料は悪くない。それだけが救いだった。
もっとも、俺は金のためにここにいるわけじゃない。
俺は社長に恩がある。だから文句を垂れながらも、この会社にしがみついていた。
俺はS市の出身だ。
平凡なサラリーマンの父と、パートで小銭を稼ぐ母の長男として生まれ、三歳上の姉と二歳下の妹がいる。ごく普通の家族構成だ。
ただ、父親だけは別だった。
長男だからと、幼い頃から躾けが異常に厳しかった。俺はまったく懐いた記憶がない。だから高校一年の時に父親が病気で倒れても、一度も見舞いに行かなかった。そして一度も顔を合わせないまま奴は死んだ。
俺は——特に何も感じなかった。いや、むしろ少し、ほっとしたくらいだ。
そんな俺に、姉と妹はほとんど他人のように接してくる。居場所のなかった俺は次第に家へ帰らなくなった。
それでも母親だけは、最後まで変わらず気にかけてくれた。
そんな母親すら無視し続けていた俺は、今でも時々思い出す。
最終学歴が中卒はさすがに嫌だったので、なんとか高校には通った。
が、ガラの悪い連中と付き合ううちに暴力事件を起こして退学寸前に。母親が頭を下げて回ってくれたおかげでギリギリ踏みとどまり、なんとか卒業はした。
その後、逃げるように都会へ出た。そこで出会ったのが今の社長だ。
未成年の俺を二つ返事で雇ってくれて、アパートの保証人にまでなってくれた。死んだ父親とはまるで違うタイプの人間だったが、俺はそこに父性みたいなものを感じていたのかもしれない。
だから自分から辞めるつもりは、まったくなかった。
◇
相変わらず腰が痛い。
午後から半休をもらって病院へ行こうと思っていた。しかしその前日に、桜の病院から電話がかかってきた。
嫌な予感しかない。
電話口の声は、なんとなく硬かった。
翌日、呼ばれるままに診察室へ入ると、井上という名の内科医師が重々しく口を開いた。
「家族の方はいらっしゃいますか? できれば一緒に聞いていただきたいのですが」
……あ、これ絶対ろくな話じゃない。
医者が「家族と一緒に」なんて言い出した時点で、もうわかる。悪い知らせ以外にあり得ない。
「家族はいねぇ。俺一人だ」
「そうですか……。では、このままお話しします」
「いいから早く話してくれ。なに言われても驚かねぇよ」
「わかりました。……気を確かに持って聞いてください」
医師が、一拍置いた。
「がんです。腎臓がんの疑いがあります。すぐに精密検査を受けてください」
……マジかよ。




