第2話 宣告
その瞬間、鈴木秀人の世界は、まるで夜の闇に呑まれるように暗転した。
それは人々がしばしば口にする「絶望」というものに他ならない。彼の心に刻まれたこの記憶は、人生の残り全ての日々を通して消えることはないだろう。しかし、その時の彼には想像もつかなかった。これからの「人生」という長い、あるいは短い道のりが彼をどこへ導くのかを。
どうも最近腰が痛い。
先日、仕事で派手に暴れたので、初めはそれが原因かと思った。
まだ28歳なのに、腰痛持ちなんて情けない。これからの人生設計はどうなるのか。
などと悩んでいても仕方がないので、とりあえず桜の病院で診てもらうことにした。
どの辺が痛いの? いつから? 思い当たる原因は? などと矢継ぎ早に質問を受けつつ検査を受ける。
診察が終わり、半休をもらった礼を伝えるために会社に電話をしてみれば、人手が足りないから戻って来いと言われてしまった。
マジかよ……。具合が悪いって言ってんだから、今日くらい早く帰らせろよな。
俺の勤めている会社は、いわゆるブラックだ。社長の一声ですべてが決まり、社内の会議なんてものは存在しない。
新人のころから面倒を見てくれた先輩が、吐血して入院した。重度の胃潰瘍だった。そろそろ一ヶ月経つが、どうやら社長はそのままクビにするつもりらしい。
なんとも酷い話だが、対して給料は悪くない。それだけが救いだった。
しかし俺は金のためにここにいる訳ではない。
俺は社長に恩がある。だから文句を言いながらも、この会社にしがみついていた。
俺はS市の出身だ。平凡なサラリーマンの父親とパートで小銭を稼ぐ母親の長男として生まれ、他に三歳年上の姉と二歳年下の妹がいる。
父親は俺が高校一年の時に病気で死んだ。
長男だから言って幼いときから躾けの厳しかった父親に、俺はまったく懐いた記憶がない。だから俺は父親の見舞いには一度も行かなかった。そして一度も顔を合わせることなく父親は死んだ。
俺は特に何も感じなかった。いや、むしろこれで自由になれたと喜んだほどだ。
そんな俺に姉と妹は他人のように接してくる。けれど母親は、最後まで変わらず愛してくれた。しかし家の中に居場所がなかった俺は次第に家へ帰らなくなる。
最終学歴が中卒なのはさすがに嫌だったので、なんとか高校には通った。
しかしガラの悪い連中と付き合うようになり、挙句に暴力事件を起こして退学させられそうになる。
お詫び行脚という母親の尽力に助けられて退学だけは免れたのだが、そんな母親すらも俺は無視した。
高校を卒業したあと、俺は逃げるように都会へ出た。そんな時に出会ったのが今の社長だった。未成年の俺を二つ返事で雇ってくれたし、アパートを借りる保証人にもなってくれた。
死んだ父親とは全く違うタイプの人だったが、俺はそこに父性を感じ取っていたのかもしれない。
とにかく社長には恩があるので、クビになるなら仕方ないが、自分から辞めるつもりはまったくなかった。
◆◆◆◆
相変わらず腰が痛い
午後から半休をもらって病院へ行こうと思っていたが、その前日に桜の病院から電話がかかってきた。
なんだか嫌な予感がする。
恐らくまともな話ではないだろう。
「家族の方はどうしましたか? できれば一緒に聞いていただきたいのですが」
そう重々しく口を開いたのは、井上という名の内科医師だった。その第一声が俺の不安を思いきり煽る。
だってそうだろう。医者が家族と一緒に聞いてほしいと言ったのだ。悪い知らせ以外に考えられない。
「家族はいねぇ。俺一人だけだ」
「そうですか……。では、このままお話ししますね」
「いいから早く話してくれ。なにを言われても驚かねぇよ」
「わかりました。いいですか、気を確かに持って聞いてくださいね。――がんです。腎臓がんの疑いがあります。すぐに精密検査を受けてください」
……マジかよ。