第1話 金色の天使
突然だが、「赤ちゃんポスト」という施設をご存じだろうか。
産婦人科病院などに設置された、匿名で赤ん坊を預けられる場所のことをいう。
名前だけ聞くと「え、子供を捨てる場所?」とざわつく人もいるかもしれない。実際、開設当初は「子の遺棄を助長する」として批判も多かった。
でも現実は複雑だ。
予期せぬ妊娠、性被害、虐待のリスク——そういった、どうにもならない事情を抱えた命を、せめて生かすための場所。それがこの施設の本質だった。
運用が始まると、批判の声は少しずつ小さくなっていった。社会というのは、ちゃんと現実を見れば変わっていける。……まあ、時間はかかるけれど。
◇
慈英病院へと続く、およそ百メートルの直線道路。
その両脇にずらりと並んだ桜の木から、地元では「桜の病院」と親しまれているこの病院は、北の街・K町に位置している。
春の訪れが遅いこの街では、桜の満開はゴールデンウィーク突入と同時にやってくる。
並木の脇に広がる芝生では、毎年恒例の花見客が宴会を開き、焼肉の煙と笑い声が漂っていた。今年も変わらず、人々は短い春を全力で満喫している。
……まあ、外の話だけれど。
午前五時。
まだ賑わいとは無縁の薄暗い廊下を、一人の若い看護師がずんずんと歩いていた。
平出、二十代。絶賛夜勤中。機嫌:最悪。
(なんで私、ゴールデンウィークに深夜勤務してんの……)
学生時代の友人たちは、それぞれ予定を立てて連休を謳歌している。
海外旅行に行ってる子までいるというのに、この身は病院の廊下。どこに向かってるのかというと赤ちゃんポストの確認である。なんというか、人生とは。
いや、わかってる。この仕事を選んだのは自分だ。
でもわかっていても、深夜三時を過ぎたあたりから「なんで?」ってなるのが人間ってもんじゃないだろうか。
とはいえ、夜勤明けの楽しみはある。
午前八時に上がったら、そのまま恋人の部屋に直行する予定。彼は昨日から連休に入っているので、今頃ぐっすり寝ているはずだ。
(朝ご飯一緒に食べて、シャワー借りて、そのままベッドになだれ込んで……ふふ)
悪戯されるかもしれないが、それはそれで歓迎だ。
そんな妄想で精神を保ちながら、平出はいつものルーチンをこなし——最後に、赤ちゃんポストの前で足を止めた。
「……あれ?」
いた。
真っ白な布に包まれた、小さな塊。
三十センチほどのそれが、かすかに、でも確かに上下している。
(生きてる。赤ちゃんだ)
「ごめんね〜、気づくの遅くなっちゃって」
思わず、やわらかい声が出た。
慈英病院の赤ちゃんポストは、赤ん坊が保育器に入るとブザーが鳴り、ナースステーションに通知が届く仕組みになっている。
だから看護師が巡回中に「偶然発見する」なんてことは、本来ありえない。
(なんでブザー鳴らなかったんだろ。あとで報告しとかなきゃ)
小声でぶつぶつ言いながら、平出はそっとお包みを引き寄せた。
「静かだし、寝てるのかな。さ、確認させてね」
そうして布をめくった瞬間——
「…………は」
固まった。
染みひとつない、透き通るような白い肌。
ふわりと波打つ、羽毛みたいにやわらかな金色の髪。
その髪と揃いの色をした、長い長いまつ毛。
小さくても筋の通った、整いすぎてる鼻。
ほんのり赤い頬と、ぷにぷにした小さな唇。
真っ白な産着に包まれたその赤ん坊は——どう見ても、天使だった。
背中に羽が生えていても何も驚かない。むしろ「やっぱりね」と思う自信がある。
生後一週間くらいだろうか。
自分がどんな場所に置かれたのかも知らないその子は、ただ静かに、すやすやと眠っていた。
「…………すっご」
思わず、そんな言葉が漏れた。
いや感心してる場合じゃない。仕事、仕事。
平出は気を取り直し、赤ん坊を起こさないよう慎重に周囲を確認した。遺留物のチェックは必須だ。親の手がかりが残されていることもある。
しかし——見つかったのは、真っ白な産着だけ。ほかには何もない。
まだ目を開けていないので瞳の色はわからないが、この容姿を見れば一目瞭然だ。白人の血が入っているのは間違いない。ハーフかもしれないが、それも今の時点では推測にすぎなかった。
ひと通り確認を終えた平出は、保育器をそっと押しながら歩き出す。
「……そういえば白人って、赤ちゃんの頃からこんなに彫り深いんだ」
どうでもいいような、でもちょっと気になる発見をしながら、彼女は足早に廊下を進んでいった。




