第1話 金色の天使
この国には「赤ちゃんポスト」と呼ばれる施設がある。それは産婦人科病院などに併設される、匿名で赤ん坊を預けられる場所を指している。
一見すると、子供を放棄する場所のように思えるが、これがなければ望まれない子供たちはさらなる過酷な運命に晒されるだろう。そうした子たちを保護する目的で設立されたのが「赤ちゃんポスト」だった。
当初、この施設は子の遺棄を助長するとして批判された。しかし実際に運用が始まると、虐待児や予期せぬ妊娠をしたカップル、レイプによって生まれた子の保護など、多くの重要な役割を果たすようになる。その結果、赤ちゃんポストの社会的な価値は徐々に認識されるようになっていった。
慈英病院へと続く約100メートルの直線道路。その両側には立派な桜の木が植えられている。この場所は地元でよく知られ、親しみを込めて「桜の病院」と呼ばれていた。
ここK町は春の到来が遅い北の都市だ。だからちょうど5月の連休に入る頃に桜の花が満開になる。
桜並木の両脇には手入れがよく行き届いた芝生があり、例年そこでは花見の宴が開かれていた。
ゴールデンウィークの真っ最中でもあり、地元の人々が思い思いに宴会を開く。桜が咲く季節とは言え、ここK町は未だ肌寒い日が続くため、彼らは持ち寄った焼肉とビールに舌鼓を打ちながらこの時だけは寒さを忘れていた。
連休はすでに始まっていたものの、宴会の喧騒が届くには未だ早すぎる午前5時。一人の若い女性看護師が病院の薄暗い廊下を早足で歩きながら不満げに呟いていた。
ゴールデンウィークの浮かれた雰囲気とは裏腹に、「何が悲しくて深夜勤務などしなければならないのか」と彼女は思う。
学生時代の友人たちは予定を立てて休みを満喫しており、中には海外旅行に出かけている者もいる。それに比べて自分は…
この仕事を選んだのは自分自身だ。しかし忙殺される日々の中でその事実さえ忘れがちになり、不機嫌な表情を顔に浮かべては半ば八つ当たりのような態度を取る。
夜勤が終わるのは午前8時。その後、直接恋人に会いに行く予定だが、夜通し働いた後ではさすがに眠いしシャワーも浴びたい。なによりお腹が空いた。
彼は昨日から連休に入っているので、この時間ならばまだ寝ているはずである。そこで一緒に朝食を楽しんだ後にベッドへ潜り込んで少し眠る。寝ている間に悪戯をされるかもしれないが、それもまた一興だ。
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、看護師の平出が日々のルーチンワークをこなしていく。そして最後に「赤ちゃんポスト」を確認するとそれはいた。
真っ白な布に包まれた小さな塊。大きさは30センチ程度で、遠くから見てもゆっくりと上下に動いているのがわかる。
その小さな命に平出が声をかけた。
「あら、いたんだ。ごめんね、気付かなくて」
慈英病院の赤ちゃんポストは、赤ん坊が保育器に入れられると大きなブザーで知らせる仕組みになっている。これは離れたナースステーションにも同時に届くため、巡回中の看護師が偶然赤ん坊を見つけることは通常ならばあり得ない。
だから今回のようなケースは珍しく、平出が知る限りではこれが初めてのことだった。
前回に赤ちゃんが保護されたのは10日ほど前のことである。先輩が夜勤担当だったその時は、仕組み通りにブザーが鳴ってナースステーションにも通知が入った。
急いで保育器に駆けつけると、生後半月ほどの男の赤ちゃんが泣いていた。愛情を込めて選ばれたと思しき可愛らしいお包みに包まれて、その脇にはキリンのぬいぐるみが添えられる。
望まなかった子への扱いとは違い、そこには間違いなく親の深い愛情が垣間見えた。
観察期間が終わったその赤ん坊は、すでに乳児院へ移されているはずだ。一度は手放した後であっても、冷静になった親が子を引き取りに来る場合もある。そのため、しばらくの間はそこで様子を見守ることになるのだが、現実はそう上手くいかないことがほとんどだ。
それにしても気が付かなかった。タイミングが悪ければ、赤ん坊が泣き始めるまで誰もその存在に気付かなかったかもしれない。そして最悪の場合は数時間も放置されてしまう可能性もあった。
「おかしいなぁ……どうしてブザーが鳴らなかったのかしら。報告しておかないと」
ぶつぶつと小声で呟きながら、平手がその白い布に包まれた塊をそっと手元に引き寄せる。
「随分と静かだけれど、おねんね中なのね、きっと。さぁて、どれどれ……」
言いながらお包みを捲った平出の顔に驚きの表情が浮かぶ。
以前に彼女が見つけた子は、臍の緒が付いたままで産湯にも浸かっていない状態で保育器に入れられていた。その時も大変に驚いたものだが、今の驚きはそれとは全く異なる種類のものだった。
その子は金色に輝いていた。
染み一つない、透き通るような白い肌。
軽くウェーブのかかった、羽のようにフワフワとした金色の髪。
髪と同じ色の長いまつ毛。
小さいけれど、筋の通った愛らしい鼻。
ほんのりと紅を差した頬と、ぷにぷにとした小さな唇。
真っ白な産着に包まれたその子は、まるで天使のように純粋で無垢だった。背中に小さな羽が生えているのではないかと錯覚するほど美しい生後一週間程度と見られるその子は、自分の境遇を理解することもなくスヤスヤと眠っていた。
赤ん坊を起こさないよう注意しながら、平出が遺留物の確認を始める。時には親の手掛かりとなるものが一緒に置かれていることもあるため、必ず周囲を確認するのが決まりだった。
しかし、真っ白な産着以外には何もなかった。目が開いていないので瞳の色は不明だが、間違いなくこの赤ん坊は白人種だろう。もしかしたらハーフかもしれないが、未だ推測の域を出ない。
一通りの確認を終えた平出は、「白人って、赤ちゃんの時から彫りが深いのねぇ……」などと割にどうでもいいことを考えながら、保育器を押して足早に歩き始めた。