僕「おはよう」
「あああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
最初、僕には絶叫している余裕なんてなかった。
コンクリートの壁を蹴って夜空に跳んだあと、目も口もギュッと閉じ、確かにマンションの10階から飛び降りたのだ。
重力にひかれる感覚にただただ恐怖し、身をじっと硬くして忍び寄る死に怯えていた。
そして、まったく死ぬ気配を感じない自分に気付いたのだ。
落ち続け、いつまでも地面に到達しない。
走馬灯うんぬん、死ぬ瞬間はすべてがスローモーションに感じるうんぬん、そういうものなのかな、と恐る恐る目を見開き、絶叫した。
「ああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
そこにあるのは、闇そのものだった。
”黒”としか言いようがない。
目を開けているのか閉じているのかわからないほどの漆黒。
周りをみようとしても、何もない。
下を向いているのか、上を向いているのかもわからない。
ついには落ちている感覚もなくなり、最後には自分の存在すら確信できなくなった。
薄れゆく意識のなか、僕は誰かに呼ばれた気がした。
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暗殺する隙は、確かにあった。
なぜならばその場にいる誰もが、”彼”の美しさに目を奪われ、その瞬間自分の本分を忘れていたからだ。
それはドラゴン、ワイバーン、グリフォン、ミノタウロス、ウェアウルフ、ケンタウロスら、百戦錬磨の戦士たちですら例外ではなかった。
そんな絶好のチャンスにアトリアがナイフで一閃、魔王に致命傷を与えて殺せたのかというと、そんなことはなかった。
なぜなら彼女はそこにいた誰よりも衝撃を受け、固まっていたのである。
一言でいえば、彼に”一目惚れ”したのだ。
切れ長のつり目を潤ませ、耳まで赤く染めたアトリアがそこにはいた。
エルフたちが”始まりの木”から魔王の命が宿った実を丁寧に摘み取り、神具であるチャルクルン石を研いで作られたナイフで、これまた丁寧に割ったところまでは覚えている。
そこでエルフの女戦士は、ぽかんとしてしまったのだ。
中にいた”彼”を見て、ぽかんと口を開けたのだ。
森の暗殺者たるエルフの女戦士の頬に朱がはしった。
全裸の小さな少年が自らを抱くように側臥位で丸まり、あどけない表情で眠っていた。
サラサラの絹のように柔らかな白銀の髪が光を散らし、陶器のように滑らかな白い肌は少年を人形なのだと思わせた。
そう思わせるほどに、少年の造形は完璧すぎた。
しかし人形にはありえない色気があったのも事実である。
頬が赤く色づき、長い睫や小さくつぼんだ唇が、すー、すー、と寝息に合わせて揺れていた。
細い首筋が不安定な危うい美しさを演出している。
頭頂部には魔王の血の証明たる黒い角が2本、可愛らしく顔をのぞかせていた。
そうして魔王は、目を覚ました。
寝ぼけた目つきで深緑の瞳を小さな手でこすっていた。
「僕」が第99代魔王として、異世界に転生した瞬間だった。