不安と陰謀と神と
水の流れる音が空間中に響く。あれから沙耶はディアボロスの言っていた拠点へと戻り、その中にある風呂でシャワーを浴びていた。泉に飛び込んで冷え切った身体はすっかりと温まり、気持ちの悪い汗も一緒に流れ落ちる。唯によって傷つけられた痕は沙耶の身体の性質か、それともガロウズによる治療のおかげなのか、綺麗に消えていた。
「ふぅ…………」
現実的な世界に戻ってきたはいいが、実際蓋を開けてみると恐ろしく非現実的な事態ばかりな上に、これからもあのような事が度々あると気が重くなり、溜め息をつかずにはいられない。束の間の安堵とこれからの不安によって生み出されたその溜め息はいつもより二割増しで深い。表情も不安に押し潰されたもの鬱げなものになっていた。
シャワーのノズルを締め、温水を止める。予め棚から出しておいた純白のタオルで全身を拭き、浴室を出る。そして、何者かの趣味を思わせる、白で統一された家具が沙耶を待っていた。二度目になるその光景ではあるが沙耶は部屋の異常なまでの白さに違和感を覚え首を傾げながらも箪笥へと向かい適当にその引き出しを開けると、生前沙耶が身に付けていた服や下着が軒並み綺麗に畳まれた状態で置いてあった。
「………………」
絶句しながらも、他の引き出しも開けてみる。それらも同じように沙耶が身に付けていたもの、それだけに限らず雨宮家で使っていた数々の生活用品も仕舞ってあった。最後の引き出しを閉めながらしばし考えるも、今まであった現実が現実なだけに、何があっても不思議ではないのだろうと半ば無理やりに自分を説得し、再び引き出しを開けて服や下着を取り出し、服を着ることにした。
普段着を身に付けて多少落ち着いた様子の沙耶。ソファに腰かけ、そのまま体の向きを変えて寝転がる。ぼおっとした目で天井を見上げ、何を考えるわけでもなく目を閉じる。めまぐるしい現実を整理するに相応しい暗黒のみの世界が広がるが、沙耶の目的はそこにはない。混沌とした世界から逃避するための手段――即ち睡眠。確かに沙耶は唯との戦闘後
寝てはいたが眠ってはいない。数秒も立たぬ間に沙耶は静かに寝息を立てて眠りに就くのだった。
……
…………
――天界。そこは神と天使が集う
神聖なる領域。
そこに一人、黒いマントに傷だらけの腕と顔というどう考えても似つかない姿の大男が長い廊下を静かに歩く。すれ違う天使は彼と視線を合わせようとはしない。当然廊下で歩く人間と意図的に目を合わせようとはしないが、目を逸らしてまで避けたいほどに彼は恐ろしい存在だ。
長い長い廊下を歩き続け、上り階段へと辿り着く。首の骨をポキリと鳴らし、それから階段を上り始めた。ゆっくりとした歩調ではあるが、しっかりとした足つきで階段を上っていく。
「……来たか、ディアボロス」
階段を上りきった先に待ち受けていたのは聖霊神王アージュとその親友、聖霊神クロイツ。
「我はもうあの罪から釈放された……それなのに貴様は我を呼び出した。それなりの用意と覚悟は出来ているのだろうな?」
フードを外し、ディアボロスの鋭い紅眼と地黒の肌が露わになる。それに反応するように青い目に黒の長髪に銀縁の眼鏡を掛けた男――クロイツがやや複雑な表情でアージュのほうを見やる。アージュはディアボロスを睨むだけでクロイツの目線を気に留めない。
「用意も何も、侵略者にもてなす心算は一つもない」
「……ああ、そういえばアレは貴様の管理だったな。忘れていた」
相も変わらず無礼な態度ではあるが、アージュは挑発には乗らない。
「……あの人間たちに力を与え、何がしたい、ディアボロス?」
眉間に皺を寄せたまま、アージュはディアボロスに問う。ディアボロスはそれに対しておどけた様子で答える。
「貴様に悪魔の気持ちが分かるか?……分からぬだろう。貴様に我の目的を話しても理解は得られぬ、故に貴様に話すつもりはない……もう終わりか?」
「待て。物を盗んでおいてその態度とはどういう事だ……?」
逸らされかけた話題にクロイツが再び触れ、ようやく話が本題へと進む。
「別に、どうもこうもない。ただ綺麗だったから奪ったまでだ」
反省の色など、どこにもない。自分のしたことが当然だと言わんばかりの無表情だった。
「ふん、勝手にしろ。プロテクトのかかった状態では所有権を奪った程度で――」
続きを口にしようと瞬間に、アージュはとあることに気付く。今となってはほぼ干渉不可能な領域に入ってしまった、大きな鍵が入り込んでしまったことを。
それまで冷静だったアージュもこれには焦燥の色を隠せず、ディアボロスを強く睨む。
「貴様……ぁっ!!」
声が震える。アージュの怒気が表に出るまでそう時間はかからなかった。しかし力で勝てないことは分かっているために、迂闊に手を出すことはしない。
「愚かだったな、アージュ。貴様ならこの程度のたくらみ、分かっていると思ったが……我の買い被りだったかもしれぬな」
「ぐっ……!!」
力で敵わないことが分かっているだけに自分の無力さが際立ち、苛立ちが増える。
「もういいだろう?貴様も我だけではなく、他にも目を向けるべきものがあるだろう?まあ、せいぜい足掻くがいい」
五人の少女が転送された時と同じように、威風堂々といった感じでディアボロスはその場を去る。そしてやはり、アージュは何も言えず終いだった。
ディアボロスが階段を降りた後にクロイツが近づき、その右手でアージュの肩を持つ。
「プロテクトを解除するための『転生少女プログラム』か……。迂闊だったな」
アージュはクロイツの言葉に力なく「ああ……」と返すだけで、虚ろな目をしている。
転生少女プログラム――それはアージュを始めとする五人の聖霊神が開発していた「第二の人類」を作成する計画だった。その用途は極めて単純、彼らの敵である悪魔との戦闘をより優位に進めるためのものだった。地界から去った人間の魂を再利用し、身体を戦闘用に再調整、大量の魔力を身体に内蔵した人間とはかけ離れた人間を作る――早い話が、死んだ人間を改造して悪魔との戦争にケリをつける為に開発している「奴隷」だった。しかし聖霊神はおろか、天界にいるあらゆる天使でさえも人間の魂、感情を改変する技術を彼らは持ち合わせておらず、当然人間からの同意を得られるわけもなく、計画は途中で破棄された。
それに目を付けたのはディアボロスを始めとする悪魔だった。悪魔は人の心を揺さぶる術を得意としていたために、プログラムの内容を奪うだけで彼らはそれを完成させてしまった。完成してから転生少女プログラムが使われることは悪魔の中に扱えるものが居なかったために今の今まで無かったが、悪魔神ディアボロスにとって転生少女プログラムが要求する魔力やコストというものは微々たるものであり、一気に五人もの転生少女を生み出すことに成功したのだ。
「転生少女プログラムだけでなく、地界とのゲートまでも奪われていたとは予想外だった……内側から鍵を壊されては、私でもどうすることもできない」
その言葉を聞いてクロイツがふん、と鼻を鳴らす。
「流石にそれは早計だぞ、アージュ」
「……なに?」
「手段を選ばなければ、貴様の『チキュウ』は守れると言っている」
アージュの左肩を持っていた手を離し、おもむろにその場を離れる。そして崖まで歩き、下を見下ろす。
「鍵を握るのは地上にいる五人の転生少女だ、ただの人間ではない、『転生少女』、だ」