5 好きなおとぎ話の話で盛り上がってしまいました
「本部から、手紙が来まして」
朝、わたしが出張所の扉を開けるなり、ラーシュさんが言った。机の上に、封の切られた手紙が一通ある。ラーシュさんの指が、その端を何度もこすっていた。
赤い髪が、寝癖ではねたままだった。そばかすの散った顔の、もともと下がり気味の目尻が、今日はいっそう下がって見える。
「いえ、悪い知らせというわけでは、いや、良い知らせでもないんですが、出張所を開いてから四か月のところで続けるかどうかを判断する、と、そういうことでして、つまり、残りはあと二か月ほどで、それまでに攻略者の数と実績が届かなければ、縮小か撤退か、と」
「撤退したら、どうなるんですか」
「宿の貸し出しもヤンネさんの店の誘致もギルドの仕事ですから、ええ、出張所がなくなれば、それもまあ」
ラーシュさんは、最後まで言わなかった。
受付のティーラさんが、帳簿から目を上げずに言った。
「泊まるところがなくなるから、攻略者は来なくなる。ヤンネさんも、店を畳む。村は元に戻る」
真っ直ぐな背筋に、首元まで留めた白い襟。表情を動かさずに話すので、綺麗な人形が喋っているみたいだった。
ラーシュさんが、眉を下げた。
「ティーラさん、そこまではっきり言わなくても」
「はっきりしてるので」
元に戻る。
三か月前に、わたしが歩いてきた通りを思い出す。割れた窓と、傾いた扉と、奥に数軒だけ灯っていた明かり。
攻略者が来るかどうかは、ダンジョン次第だ。「ダンジョンがこの程度じゃ、人は集まらねえよ」。ウッラさんの軒先で聞いた声が、耳の奥で鳴った。
そして、出張所がなくなれば、雑用係も要らなくなる。
「というわけで皆さん、いえ、皆さんといっても、ビョルンさんを入れて四人ですが、できることをやりましょう、ええ」
「はい」
ティーラさんは、いつも通り平らな声で返事をした。
わたしは布袋の肩紐を握り締めて、立っていた。できることを、やる。その言葉の意味を考えていた。
「それからリンさん、今日はまず、奥の物置の書類を、本部に出す分とそうでない分に分けていただけますか」
「……はい」
物置は、出張所の一番奥にある。前の建物の持ち主が残していった棚に、書類の束が積み重なっていた。
埃を払いながら束をほどいていると、表の扉が開く音がした。重い足音と、鎖の擦れる音。夜番明けの、ビョルンさんだ。
「夜は、異常なし。昨夜は攻略者が一人。他は誰も来なかった」
「ご苦労さまです、ええ、どうぞ休んでください」
足音が、すぐには遠ざからなかった。
「ラーシュ。あの雑用係の子」
書類をめくる手が、止まってしまった。続く声に耳を澄ませる。
「ダンジョンが動いた頃から、村にいたんだろ」
「そうですね、ウッラさんの口添えで雇いましたが、人手不足ですので助かっています、本当に、ええ、人手が足りないんですよ、ビョルンさん、リンさんがいなかったら、今頃この出張所は」
ラーシュさんの声は、いつも通りの早口だった。
足音が遠ざかって、扉が閉まる。会話はそれきりだった。
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。それから、何も聞かなかった顔で、書類の束を抱えて物置を出た。
昼前に、扉がまた開いた。
入ってきたのは、エイナルさんだった。受付の前に立って、ティーラさんに言う。
「家を借りたい」
「宿でしたら、空きが」
「宿じゃねえ。村の入り口の、馬屋のついてる空き家」
村の入り口の、馬屋のついた家。三か月前、その軒先の石の段で、わたしは眠った。
わたしは、書類を揃える手を止めて、振り返った。
ティーラさんが、首を傾けた。顎の辺りで切り揃えた真っ直ぐな髪が、揺れる。
「あそこは、持ち主が手放して、村の預かりになっています。今は、ギルドが管理を」
「知ってる。だから、ここに来た」
「修繕しないと、住めませんが」
「構わねえ。金は出せる」
ティーラさんが、書類を一枚引き出した。ペンを取って、顔を上げる。
「借りる理由を、一応」
「実家だ」
ティーラさんのペンが、ほんの一瞬だけ止まった。それから、何事もなかったように書き込んでいく。
エイナルさんは、小さく息を吐いて視線を遠くに向けた。
わたしが勝手に軒先を借りた家は、この人の家だった。
奥からラーシュさんが出てきた。ティーラさんの手元を覗き込んで、こちらを振り向いた。
「では、修繕はスヴェンさんにお願いして、ええ、掃除と細かな手配は、リンさん、お願いできますか、急で申し訳ないんですが」
「は、はい」
エイナルさんが、ちらりとこちらを見た。
「雑用係か」
「はい。雑用係です」
昼過ぎにいくつか仕事を片付けてから、箒と桶を持って、村の入り口へ行った。
三か月ぶりに見る家は、あの夕暮れより、ずっと古びて見えた。屋根の落ちかけた馬屋。荷を置くための、広い土間。軒先の、石の段。
その段に、エイナルさんが腰を下ろしていた。長い脚を投げ出して、村の外へ延びる古い街道の方を見ている。
わたしが眠った、ちょうどその場所だった。
少しして、荷車の音が近づいてきた。材木を積んだ荷車を、スヴェンさんが引いている。後ろから押しているのは、カッレさんだ。
「あ、リン!」
カッレさんが手を振って、それから、段の上のエイナルさんに気づいた。
「兄ちゃん、ここ借りんの?」
「……ああ」
「兄ちゃん、攻略者だろ? パーティは?」
「いねえ」
「一人? じゃあ、夜に一人で潜ってるって、ほんと? 見張りのおっちゃんが言ってた」
「うるせえ」
スヴェンさんは何も言わずに、材木を下ろし始めた。わたしに小さく頷いて、梯子を馬屋の屋根に掛ける。
カッレさんは、エイナルさんの前から動かなかった。腰には、あの木の剣を差している。
「俺さ、このダンジョンの最初の攻略者なんだぜ」
わたしは、もう何度も聞いている。村の人も、みんな聞いている。
「板担いで歩いてたら、気づいたら門の前にいてさ。そしたら、ダンジョンが動いてたんだ」
「へえ」
エイナルさんが、カッレさんの方を向いた。
「最初は、何がいた」
「角兎が一匹。部屋の奥に」
「一匹?」
「一匹だけ」
「武器は」
「入ってすぐのとこに、木の剣が落ちてて」
「どのくらい、入ってすぐ」
「三歩くらい」
エイナルさんは、少し黙った。それから、真顔で言った。
「……やっぱ、初めて作ったやつだな」
箒を握る手が、じっとりと汗ばんだ。
(その場所選ぶのに、一晩かかったんです)
「兄ちゃん、そんなことまでわかんの? すげえな!」
カッレさんは、話を聞いてもらえて、すっかり嬉しそうだった。
エイナルさんは段から立ち上がって、家の中へ入っていった。その後をついていこうとするカッレさんを、スヴェンさんが止めた。
「カッレ、仕事だ」
残念そうにエイナルさんを振り返ってから、カッレさんはスヴェンさんのところに戻った。
エイナルさんは、一部屋ずつ、黙って見て回っていた。壁や柱に手を当てて、ゆっくりと。
わたしは、窓の埃を払い、床を掃き、桶の水を何度も替えた。
日が傾いて、屋根の上の槌の音が止んだ。
「カッレ、帰るぞ」
スヴェンさんが、道具と散らばった木材を荷車に乗せた。
カッレさんは荷車に手をかけてから、振り返って、戸口のエイナルさんに言った。
「俺も、いつかヨルンみたいになるんだ。一人で、竜を倒してさ」
エイナルさんは、返事をしなかった。カッレさんは気にした様子もなく、荷車を押して帰っていった。
家の中が、急に静かになった。
わたしは、床を拭きながら、つい口にしていた。
「ヨルン、わたしも大好きなんです」
戸口のエイナルさんが、こちらを見た。
「あんたも?」
「はい。小さい頃、祖母が毎晩、聞かせてくれて。わたし、何度もせがんだんです。凍った谷のところが、一番好きで」
雑巾を持つ手が、止まっていた。
「霜の竜が息を吐くと谷じゅうが凍って、川も滝も全部止まってしまうんです。その凍った谷を、ヨルンが一人で渡っていくんです。竜はずっと上から見ていて、ヨルンが谷の真ん中まで来たところでもう一度、息を吐いて。それでもヨルンは止まらなくて、最後に竜の正面から、火炎を」
「でも、あれ、正面から行くのは下策だろ」
「……え」
エイナルさんは、真顔だった。
「霜の竜の息はまっすぐにしか来ねえ。吐く前に首を後ろに引く。引いたのが見えたら、横に跳べばいい。正面に立ってる理由がねえ」
「でも、谷は凍ってて」
「氷の上を歩くから、足を取られんだ。岸の岩を伝ってけば、足場は凍らねえ」
「それで、どうなるんですか」
「息を吐き切ったあとは、次を吸うまで間がある。そこで懐に入る」
大きな竜の懐に。その光景を想像して、息を呑む。
「懐に入って、その後は?」
「竜の後ろに抜ける。でかいやつは、振り向くのが遅え」
「でも、竜が振り向いたら?」
エイナルさんは、唇の端を少し上げた。
「振り向く前に、殴る」
「殴るんですか。魔術師なのに」
「殴って、魔法だ。確実で、外さねえ」
気がつくと、わたしは雑巾を握ったまま、身を乗り出していた。
エイナルさんが、少し黙った。わたしの顔を見て、それから、頭を掻いた。
「……あんた、こんな話、面白えの」
「面白いです」
エイナルさんは、また少し黙った。それから、もう少しだけ話してくれた。滑らない岩の見分け方。竜の影に入れば、上から見えなくなること。凍えた手でも、杖を落とさない握り方。
話が途切れたのは、窓の外が赤くなった頃だった。
掃除を放っていたことに、そこで気づいた。わたしは、慌てて床に目を落とした。エイナルさんも、戸口の柱に寄りかかったまま、街道の方を向いた。
雑巾を、桶の水に浸ける。絞る音が、やけに大きく聞こえた。
「おい、雑用係」
「はい」
「あとは自分でやるから、もう帰れよ」
わたしは、床を拭く手を止めなかった。
「わたしの仕事なので」
「……真面目だな」
呆れたような声だった。けれど、それ以上は、帰れと言われなかった。
掃除を終えて、家を出たときには、空はもう暗くなっていた。
村の通りを歩きながら、一度だけ振り返った。
村の入り口の、あの家の窓に、明かりが灯っていた。
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