エピローグ
退院の日は、雨だった。普通の雨だった。
上から下へ落ちる雨。
逆流しない雨。
黒くない雨。
管理局の保護車両が、医療区画の出入口に停まっていた。完全な自由ではない。
しばらくは管理局の保護と監視がつく。母の家に帰れる時間も制限される。エンデの検査も続く。澪の喉も、まだ定期的に診てもらわなければならない。
それでも、外だった。澪は久しぶりに制服ではない服を着ていた。母が持ってきてくれた、柔らかいニットとスカート。
まだ少し身体に合わない感じがした。受験生の澪ではなく、患者の澪でもなく、何か別の途中の人間のようだった。
エンデは白いパーカーを着ていた。そして、白いスニーカーを履いていた。マジックテープは、今日は澪が留めた。
エンデは自分でやると言ったが、澪が「今日はやらせて」と言うと、少し考えてから足を差し出した。
「きつくない?」
「うん」
「歩ける?」
「歩く」
エンデは頷いた。
出入口には、紫乃がいた。門歌断章集を抱え、指の包帯はもう外れている。
「退院おめでとう、でいいのかな」
「たぶん」
澪は答えた。声はまだ掠れているが、前よりは出る。
「紫乃さんは」
「私はまだ少し残る。あの本のことで、話が山ほどあるから」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
紫乃は笑った。
「アオのことも、ちゃんと残すから」
澪は頷いた。
「お願いします」
「任されました」
伊坂もいた。彼女は相変わらずまっすぐ立っていたが、腕にはまだ包帯が残っている。
「九条澪さん、エンデさん。移動中に体調が悪くなった場合は、すぐに申し出てください」
「はい」
エンデが言った。
「伊坂も、ごはん食べる?」
伊坂は一瞬だけ沈黙した。
「必要量は摂取しています」
「足りる?」
「足ります」
「青織は足りない」
「青織零を基準にしないでください」
紫乃が笑った。
その青織は、少し離れた場所に立っていた。まだ本調子ではないはずなのに、車椅子ではなく自分の足で立っている。
伊坂の視線が鋭いので、おそらく許可ぎりぎりなのだろう。腕の固定具は外れていない。顔色も悪い。
けれど、立っていた。澪は青織の前へ行った。
「青織」
「無理するな」
第一声がそれだった。
澪は少し笑った。
「青織もね」
「俺はいい」
「よくないです」
伊坂が遠くから言った。青織は聞こえないふりをした。エンデが足を見せる。
「スニーカー」
「ああ」
「歩く」
「転ぶな」
「澪がいる」
青織は澪を見る。
「頼んだ」
澪は頷いた。
「はい」
青織は、少しだけ目を伏せた。
「アオの記録がまとまったら、君にも見せる」
澪は息を吸った。
「はい」
「無理に読む必要はない」
「でも、読みます」
「そうか」
短い会話だった。けれど、それでよかった。
アオの歌は終わっていない。深度意志の声も、完全には消えていない。閉じた扉の向こうで、まだ遠い海は眠っている。
でも、それを背負うのは澪ひとりではない。
青織も、紫乃も、伊坂も、久我も、それぞれの形で背負っている。
久我は最後にやってきた。相変わらず疲れた顔をしていた。片腕はまだ吊っている。だが、表情には少しだけ区切りがついていた。
「九条澪」
「はい」
「今日から一時帰宅だ。完全な解放じゃない。検査も、報告も、事情聴取も残っている」
「分かっています」
「エンデもだ」
「うん」
エンデは頷いた。
「保護という名目だが、監視でもある。そこは嘘をつかない」
澪は久我を見る。久我は正直だった。それは怖いことでもあったが、嘘で安心させられるよりよかった。
「ただし」
久我は続けた。
「君たちの意思を無視して、どこかへ移すことはさせない。俺がいる間はな」
「久我さんは、大丈夫なんですか」
澪が聞くと、久我は少し笑った。
「大丈夫じゃないな」
あまりに正直で、澪は言葉に詰まった。
「だが、まあ」
久我は肩をすくめた。
「俺も生きている。かなり」
エンデが目を輝かせた。
「久我も、かなり生きてる」
「そうだ」
久我は頷いた。
「かなり生きてる」
その言葉に、みんなが少しだけ笑った。外へ出ると、雨の音がした。
ぽつぽつと、車両の屋根を打つ音。
空は灰色で、東京湾の方角にはまだ薄い雲が垂れていた。遠くの街並みには、侵食の傷跡が残っている。閉鎖された道路。傾いた標識。ブルーシートのかかった建物。空の一部には、よく見なければ分からないほど薄い歪みが残っていた。
世界は、まだ治っていない。
けれど雨は、上から下へ降っていた。
エンデは立ち止まった。
「雨」
「うん」
澪は言った。
「普通の雨」
エンデは手を伸ばした。指先に雨粒が落ちる。
透けていた指は、以前よりずっと現実の輪郭を持っていた。雨粒はそこをすり抜けず、ちゃんと弾けた。
エンデは驚いたように目を見開いた。
「落ちた」
「落ちるよ」
「下に」
「うん」
「戻らない」
「普通はね」
エンデは雨粒のついた指を見つめた。
「普通、すごい」
澪は笑った。
「そうだね」
母が傘を差して待っていた。
澪の母は、少し緊張した顔で二人を見ている。まだ全部を受け入れたわけではない。理解できないことも多いはずだ。それでも、傘は二人分を覆うように傾けられていた。
「寒くない?」
母が聞いた。
澪は首を横に振った。
「大丈夫」
その声に、母の目が少し潤んだ。
「声、出るようになったのね」
「少しだけ」
「少しでいいわ」
母はそう言った。
「少しずつでいい」
エンデが、母の傘を見上げた。
「これ、雨、止める?」
「そう。傘」
「かさ」
「入る?」
エンデは澪を見る。
澪は頷いた。
エンデは、少し慎重に母の傘の下へ入った。母は、傘をさらに少し傾けた。自分の肩が濡れることも構わず、澪とエンデを濡らさないように。
エンデはそれを見て、ぽつりと言った。
「守ってる」
母は少し驚いた後、笑った。
「そうね。少しだけ」
「絆創膏と同じ?」
「似てるかも」
「かさ、空の絆創膏?」
母は一瞬言葉に詰まり、それから声を出して笑った。
「すごいこと言うのね、エンデちゃん」
エンデは不思議そうにする。澪も笑った。喉は少し痛んだ。けれど、笑えた。
車に乗る前、エンデはもう一度足元を見た。スニーカーが、雨で少し濡れている。マジックテープの端に、水滴がひとつついていた。
「澪」
「なに」
「スニーカー、濡れた」
「帰ったら拭こう」
「帰る」
エンデは、その言葉を口の中で転がした。
「帰る。拭く。おにぎり。黒い紙」
「海苔ね」
「のり」
母が車のドアを開けながら言った。
「おにぎりなら、家で作れるわよ」
エンデが母を見る。
「家」
母は少しだけ息を吸った。
「そう。澪の家」
澪は母を見た。
母は不安そうに、それでも笑おうとしている。
「エンデちゃんが来られる時間は、まだ限られてるって聞いてるけど」
母はゆっくり言った。
「来られる時は、一緒に食べましょう」
エンデは、澪を見る。澪は頷いた。エンデは母に向き直った。
「おはよう、また言う」
「うん」
母は笑った。
「でも、家に帰ったら、たぶん別の言葉もあるわ」
「別の?」
澪は、喉に手を当てた。星とイルカの絆創膏は、もう貼っていない。けれど、その場所にはまだ、エンデの祈りが残っている気がした。
澪はゆっくり息を吸った。湿った雨の匂い――
全部が混ざって、ただの帰り道の匂いになっていた。
「ただいま、だよ」
澪は言った。
声は小さく、掠れていた。でも、確かに出た。エンデは、その言葉を聞いた。
「ただいま」
小さく繰り返す。
それから、澪の指に自分の指をこつんと当てた。絆創膏はもう剥がれている。けれど、こつんという感触は同じだった。
「澪が言ったら、エンデも言う」
澪は頷いた。
「うん」
車に乗る直前、澪は振り返った。医療区画の出入口には、紫乃が立っていた。伊坂もいた。少し離れて、青織が立っている。久我は通信端末を耳に当てながら、こちらへ片手を上げた。
成海はいない。けれど、どこかで生きている。
アオもいない。けれど、歌は残った。
海の底の扉は閉じた。けれど、声は完全には消えなかった。
澪は小さく頭を下げた。紫乃が手を振る。伊坂が短く頷く。青織は何も言わず、ただこちらを見ていた。その目はほんの少しだけ穏やかだった。
車のドアが閉まる。雨音が少し遠くなる。
母が前の席に座り、運転手に行き先を告げる。管理局の車両が前後につく。完全な自由ではない。けれど、それでも車は医療区画を離れ、街へ向かって動き出した。
窓の外を、雨の東京が流れていく。
傷ついた道路。濡れた信号。閉鎖された地下鉄の入口。それでも開いているコンビニ。傘を差して歩く人。
水たまりを避ける自転車。少しずつ、少しずつ、世界は動いている。エンデは窓に額を近づけ、流れる景色を見ていた。
「澪」
「なに」
「外、たくさんある」
「うん」
「全部、歩く?」
澪は笑った。
「全部は無理かな」
「少しずつ?」
「うん」
「スニーカーで?」
「スニーカーで」
エンデは満足そうに頷いた。そして、窓の外の雨を見ながら言った。
「普通、すごい」
澪はその横顔を見た。
普通。
それは、もう以前と同じ意味ではなかった。
普通の雨。
普通のご飯。
普通の絆創膏。
普通のスニーカー。
普通のただいま。
どれも、失いかけて初めて、かけがえのないものになった。車が角を曲がる。
遠くに、澪の家のある方角が見えた。胸が痛む。怖い。でも、帰りたい。澪はエンデの手を握った。エンデも握り返した。
母が前の席から、振り向かずに言った。
「帰ったら、まず温かいものを食べましょう」
澪は小さく笑った。
「おかゆ?」
「もっとちゃんとしたもの」
母の声が、少しだけ明るくなる。
「でも、喉に優しいものね」
エンデがすぐに言った。
「やさしい味」
母が笑う。
「そう。やさしい味」
澪は目を閉じた。眠くはなかった。ただ、その言葉を胸の中に置いておきたかった。
やさしい味。星とイルカ。びりびりのスニーカー。母の傘。
そして、ただいま――
扉の向こうの海は、まだ遠くにある。
でも今、澪のいる場所は車の中だった。隣にはエンデがいて、前には母がいて、窓の外には雨の東京がある。
それで十分だった。今は、十分だった。
車が家へ近づくにつれ、澪の喉が少し震えた。澪は声を失わないように、そっと息を整えた。エンデがこちらを見る。
「練習?」
「うん」
「一緒に?」
「うん」
エンデは真剣な顔で頷いた。そして、二人は小さな声で練習した。
「ただいま」
「ただいま」
雨音に紛れるほど小さな声だった。けれど、その言葉は確かに車の中に落ちた。
閉じた扉のこちら側で。
戻りゆく日常の、最初の音として。
The end(e)




