再集合
その夜、青織がようやく澪たちの病室へ顔を出した。歩いて来たのではなく、車椅子に乗せられていた。押しているのは伊坂だった。
本人は不本意そうな顔をしていたが、反論するだけの体力は残っていないらしい。
紫乃はその姿を見て、開口一番に言った。
「やっと大人しくなったね」
「大人しくはない」
青織は低く返した。
「拘束されているだけだ」
「点滴を三回外そうとした人が言うことじゃないです」
伊坂が淡々と言う。
「二回だ」
「三回です」
「一回は外そうとしただけだ」
「同じです」
澪は笑いそうになって、喉を押さえた。
青織は澪の喉を見る。星とイルカの絆創膏は、もう貼られていない。少し赤みの残った喉だけがそこにある。
「声は」
「少し」
澪は答えた。青織は短く頷いた。
「無理するな」
「青織さんも」
澪が言うと、紫乃がすかさず言った。
「本当にそれです」
青織は聞こえなかったふりをした。エンデがベッドの上から足を出した。
「青織」
「なんだ」
「スニーカー」
エンデは両足を少し持ち上げた。
白いスニーカー。
マジックテープは少し歪んでいるけれど、ちゃんと留まっている。
「戻った」
青織は、それを見た。
ほんの一瞬、彼の表情がやわらいだ。
「そうか」
「びりびり、まだ鳴る」
「そうか」
「歩いた」
「そうか」
「床、硬くなかった」
青織は少しだけ目を伏せた。
「なら、よかった」
それだけだった。
けれど、エンデには十分だったらしい。彼は満足したように頷き、マジックテープを一度だけ剥がした。
病室に、乾いた音が響く。青織の眉がわずかに動く。
「なぜ剥がす」
「聞かせた」
「留め直せ」
「うん」
エンデはぺた、と貼り直した。紫乃が声を殺して笑っている。伊坂は真顔だったが、視線が少しだけ横へ逸れていた。その時、青織は澪に向き直った。
「アオのことだが」
部屋の空気が、少しだけ変わった。澪は背筋を伸ばす。青織は膝の上に置いていた小さな記録端末を持ち上げた。
「記録を始めた」
紫乃が、静かに顔を上げる。
「本当に?」
「ああ」
青織は言った。
「報告書ではない。俺が覚えていることだ。音楽室で会ったこと。歌っていたこと。名前を呼んだこと。管理局が何をしたか。俺が何をできなかったか」
澪は何も言えなかった。青織は続ける。
「久我が、正式記録とは別に保全する手続きを取っている。紫乃にも写しを渡す」
「もちろん受け取ります」
紫乃の声は少し震えていた。
「門歌断章集とは別に、ちゃんと残します」
「頼む」
青織は短く言った。それから、澪を見た。
「九条」
「はい」
「アオは、お前ではない」
澪は頷いた。
「お前がアオになる必要はない」
その言葉は、澪の胸に静かに落ちた。
アオの歌を受け取った。
アオの願いを聞いた。
けれど、澪はアオではない。澪は澪だ。当たり前のようで、ずっと言ってほしかった言葉だった。
「お前は、お前を取り戻せ」
青織は、少しだけ目を伏せた。
「歌うかどうかも、お前が決めろ」
澪は喉に手を当てた。歌うのは、まだ怖い。
でも、いつか。怖くなくなる日が来るかもしれない。
その時、歌うかどうかを決めるのは、白鯨でも、管理局でも、アオの残響でもなく、自分だ。
「はい」
澪は小さく答えた。青織は頷いた。エンデが、その横から言った。
「青織」
「なんだ」
「おかゆ、おいしかった?」
青織は沈黙した。伊坂が答えた。
「かなり」
「伊坂」
「事実です」
紫乃がとうとう笑い声を漏らした。重くなりかけた空気が、少しだけほどける。青織は不本意そうだったが、何も言わなかった。
その日の夜、澪は母ともう一度面会した。今度は少し長かった。母はエンデのために、小さな紙袋を持ってきていた。中には、売店で買ったらしい柔らかい菓子パンが入っていた。医療班の許可がいると知って、母は慌てて謝った。
「ごめんね、こういう時、何を持ってきたらいいか分からなくて」
エンデは紙袋を見つめた。
「くりいむ?」
「クリームパンもある」
エンデの目が少しだけ明るくなった。澪は母を見た。
母は、まだ泣きそうな顔をしていた。けれど昨日よりは少しだけ落ち着いている。
「澪」
母は言った。
「退院したら、しばらく家に帰ってきなさい」
澪は頷きかけて、エンデを見た。母はその視線に気づいた。
「エンデちゃんのことも、久我さんと話したわ」
澪の息が止まる。母は困ったように笑った。
「正直、全然分かってない。境界とか、漂流個体とか、そういうのは何度聞いても分からない」
エンデが少し不安そうにした。母は、エンデの目線に合わせるように少し身を屈めた。
「でも、あなたが澪のそばにいたいことは分かった」
エンデは母を見る。
「澪も、あなたを置いて帰りたくないことは分かった」
澪の目が熱くなる。
「だから、ちゃんと考える。すぐ全部は無理かもしれない。管理局の人もいるし、検査もあるし、私もきっとたくさん戸惑う」
母はそこで息を吸った。
「でも、最初からだめとは言わない」
澪は泣きそうになった。エンデは、言葉の意味を確かめるように澪を見た。澪は小さく言った。
「一緒に……考えてくれるって」
エンデは母へ向き直る。
「考える」
「うん」
「エンデも、考える」
母は少し笑った。
「ありがとう」
エンデは今度は固まらなかった。少し考えてから、頷いた。
「受け取る」
母は笑った。
その笑い方は、少しだけいつもの母に戻っていた。それから数日が過ぎた。
白鯨の件は、まだ終わらなかった。
久我は何度も上層部に呼ばれた。伊坂も事情聴取を受け続けた。青織の記録は一部が正式な資料として、そして一部が紫乃の手元の写しとして残された。アオの名前は、少なくとも彼らの間では、もう記録番号だけで呼ばれることはなかった。成海は戻らなかった。
ただ、一度だけ紫乃の端末に短いメッセージが届いた。
《生きてる。怒らないでね》
紫乃はそれを見て、しばらく黙っていた。そして、低く言った。
「怒るに決まってるでしょ」
けれど、その声は少しだけ安心していた。澪はその話を聞いて、成海らしいと思った。
ふらっと現れて、ふらっと消えて、肝心なところだけ残していく。いつか本当に怒られるために戻ってくるかもしれない。戻ってこないかもしれない。それでも、今は生きている。
それだけで十分だった。




