第八章 吊られるのは柊
柊直人の名前は、朝までに半分ほど薄れていた。
広間の壁に貼られた避難者名簿の中で、柊直人という四文字は、他の誰よりも頼りなかった。「柊」の字は木偏がほとんど消え、旁だけが紙に引っかかるように残っている。「直」の横線もところどころ抜け、「人」に至っては、薄い鉛筆で書かれた下書きのように霞んでいた。
直人はその名簿の前に立ち、自分の名を見ていた。
不思議な気分だった。
名前が薄くなっても、体に痛みはない。指も動く。呼吸もできる。空腹もある。けれど、自分というものが紙の上から剥がされていくのを見ると、体の内側に空洞が広がっていくようだった。
「柊直人」
背後から声がした。
葉月だった。
彼女は直人の隣に立ち、名簿を見つめたまま、もう一度言った。
「柊直人」
名前を呼ばれると、胸の奥がわずかに温かくなる。第七章で真柴要の名を戻した時と似た感覚だった。いや、真柴要の時よりも直接的だった。自分の輪郭を、誰かの声が外側からなぞってくれる。
「ありがとうございます」
直人が言うと、葉月は首を振った。
「感謝されることではありません。今、呼ばなければ危ない」
「僕の名前は、まだ覚えていますか」
「覚えています」
「即答ですね」
「忘れたら困ります」
葉月の声は平静だったが、顔色は悪い。彼女の手首には、真柴要の「柴」が薄く浮かんでいる。直人の手首には「真」、鹿島圭介の手首には「要」。三人で戻した名の印だった。
真柴要。
祖母、柊澄江が守り続けた名前。
その名を呼び戻した代償として、直人は供物盤に近づいた。
掲示板には、昨夜から同じ文が残っている。
霊を持つ者、名を抱えすぎたり。
村人たちは、誰が霊札を持っているのか、口には出さなくなっていた。出さないのではない。もう、出す必要がなかった。
遠野清作の無実を知っていた者。
真柴要の姿を見た者。
消えた名を呼び戻す中心にいた者。
柊直人。
疑いは、すでにそこへ集まっていた。
広間では、朝食の準備が進んでいた。青山民子が味噌汁を温め、浅井利彦が子供たちに握り飯を配っている。倉持剛は玄関脇で外の雪を確認していた。鹿島圭介は壁際に座り、自分の名前を小声で繰り返している。
「鹿島圭介。鹿島圭介」
彼の名は少し戻った。名簿の空白にも薄く字が浮かび始めている。だが、完全ではない。誰かが呼ばなければ、すぐに霧の向こうへ沈む。
秋津修平は、広間の中央にいた。
彼の名前は相変わらず濃い。濃く、重く、滲んでいる。壁の名簿で秋津修平という名だけが、紙を破ってこちらへ出てきそうなほど黒い。
だが秋津本人の態度は、昨日よりも静かだった。
以前のようにすぐに場をまとめようとはしない。誰かが泣いても、言葉を選んで慰める。誰かが怒っても、必要以上に収めない。彼は自分の言葉の力を恐れるようになっていた。
それでも、人々は秋津を見ていた。
この村で言葉を整えられる者は、秋津しかいない。疑っていても、頼らざるを得ない。そういう矛盾が、広間をさらに息苦しくしていた。
午前九時。
鐘が鳴った。
公民館の外、掲示板の方からだった。
誰もすぐには動かなかった。音が鳴った瞬間、広間にいた者たちは一斉に顔を上げ、それから互いの様子を窺った。掲示板を見るという行為が、そのまま裁きを受けに行くことのようになっていた。
倉持が舌打ちして立ち上がる。
「俺が見る」
直人も続いた。
葉月が止めようとしたが、直人は首を振った。
「僕のことだと思います」
葉月は何も言わなかった。
外はまだ雪だった。
空から降る雪というより、村全体が白い粉の中に沈んでいるようだった。掲示板の紙は、雪を避けるように乾いている。そのことがかえって不気味だった。
新しい文字が浮かんでいた。
名を抱えすぎた者は、己を失う。
霊を示せ。
日没までに、抱えた名を下ろせ。
倉持が顔をしかめた。
「どういう意味だ」
直人は答えられなかった。
抱えた名を下ろせ。
それは、遠野清作や真柴要の名を手放せということなのか。それとも、霊札を持つ者を供物として選べということなのか。
広間に戻ると、文字はすぐに全員へ伝わった。
予想していたとはいえ、実際に「霊を示せ」と告げられると、空気は変わった。誰も直人の名を口にしない。だが、視線が集まる。正面からではなく、横から、背後から、毛布の隙間から、湯呑みを持つ手の向こうから。
人は、相手を疑う時ほど相手の目を見ない。
秋津が長机の前に立った。
少し間を置いてから、彼は言った。
「まず、掲示板の文面を整理しましょう」
以前なら、その言葉だけで直人は身構えただろう。今も身構えた。だが、秋津の声にはかすかなためらいがあった。言葉を使うたび、自分の足元を確かめているようだった。
「『名を抱えすぎた者』という表現は、誰かが複数の名を背負っていることを示しています。遠野さん、真柴要さん、そして鹿島先生の名を支えている者。該当する可能性が高いのは、霊札を持つ方です」
鹿島が小さく「鹿島圭介」と呟いた。
直人は自分の胸元の霊札を意識した。
秋津は続ける。
「ただし、霊を示せ、という言葉が、霊札の持ち主を供物にせよという意味かどうかは分かりません。示すだけで条件を満たす可能性もあります」
浅井が顔を上げた。
「示すって、名乗るってことですか」
「おそらく」
「でも名乗ったら、その人が危ないんじゃ」
「危ないでしょう」
秋津ははっきり言った。
広間が静まり返る。
秋津が危険を包み隠さず口にしたことで、人々はかえって動揺した。
「だから、慎重に進める必要があります。霊札の持ち主が名乗るべきかどうか、全員で考える」
全員で考える。
またその言葉だった。
葉月が立ち上がった。
「全員で考える必要はありません」
全員が彼女を見た。
葉月は直人の方を見ずに言った。
「霊札の持ち主が誰であっても、その人を名乗らせることは危険です。遠野さんの時から分かっている通り、死者の声を聞ける人は、村にとって都合が悪い。だから最初に吊られる」
「でも、盤が示せと言ってる」
浅井が言った。
「示さなければ全員が危ないかもしれない」
「それは、霊を差し出せという意味ではありません」
「何で分かるんですか」
「分かりません」
葉月は即答した。
「でも、分からないからこそ、人を差し出すべきではありません」
浅井は黙り込んだ。
倉持が腕を組んだ。
「葉月ちゃんの言うことも分かる。でもな、何もしないと名が削られる。昨日、俺たちはそれを見た」
「何もしないとは言っていません」
「じゃあ、何をする」
葉月は帳面を開いた。
「名を下ろす、という言葉の意味を調べます。霊札の持ち主を吊ることとは限らない。背負った名を、複数人で分ける方法があるかもしれません。真柴要の時のように」
直人は手首の「真」を見た。
印は昨夜より少し濃くなっている。皮膚に墨が染み込んだようだ。
民子が不安げに言った。
「でも、真柴さんの名前を戻したら、柊さんの名前が薄くなったんでしょう」
その言葉に、直人は思わず顔を上げた。
民子はすぐに目を伏せた。
「ごめんなさい。責めてるんじゃないの。でも、怖いの」
「分かっています」
直人は言った。
分かっている。
恐怖は、責める形で出る。何度も見てきた。
そして自分も同じだ。秋津を疑った時、浅井を止めた時、葉月を庇った時、自分の中にも恐怖はあった。
秋津が口を開いた。
「柊さん」
広間の視線が直人へ集まる。
「あなたに確認します」
直人は黙って秋津を見た。
「あなたは、霊札を持っていますか」
静かな問いだった。
逃げ道は、まだあった。
否定することもできる。黙ることもできる。葉月が割って入ることもできるだろう。だが、直人は名簿の自分の名前を見た。薄れかけた柊直人。
嘘をつけば、さらに削れる気がした。
「持っています」
広間が静まり返った。
葉月が目を閉じた。
鹿島が小さく「柊直人」と呼んだ。
直人は胸元から札を取り出した。
霊。
木札の文字は、黒く沈んでいた。何人かが小さく悲鳴を上げた。民子は口元を押さえ、浅井は後ずさった。倉持は表情を強張らせた。
秋津だけは、動かなかった。
「いつからですか」
「最初の夜からです」
「遠野さんの声を聞いた」
「はい」
「遠野さんは、何と?」
直人は広間全体に聞こえるように言った。
「私は、狼ではない、と」
民子が泣き出した。
浅井は頭を抱えた。
倉持が低く呻くように言った。
「やっぱり、俺たちは」
秋津は目を伏せた。
直人は続けた。
「遠野さんは、名を忘れるなとも言いました。だから僕は、遠野清作という名前を呼び続けた」
「真柴要さんの姿も見たのですか」
「はい」
「他に、霊札で見たことは?」
直人は一瞬だけ迷った。
ここを隠せば、また同じことになる。
「遠野さんの記憶を見ました」
広間の空気がさらに重くなった。
秋津の顔は変わらない。
「その記憶に、誰がいましたか」
直人は秋津を見た。
「顔は見えませんでした」
「声は?」
「あなたに似ていました」
誰も声を出さなかった。
秋津はゆっくり息を吐いた。
「そうですか」
「ただ、断定はできません。記憶の中の声は歪んでいました。僕があなたを疑っていたから、似て聞こえた可能性もあります」
秋津は静かに頷いた。
「公平な言い方です」
「公平ではありません。怖いだけです。間違ってあなたを供物にしたくない」
秋津の目がわずかに揺れた。
直人は広間の全員を見た。
「僕は霊札を持っています。遠野さんの声も、真柴要さんの姿も見ました。でも、霊だから全部が分かるわけじゃない。見えるのは断片です。声も、記憶も、ゆがんでいるかもしれない」
浅井が言った。
「じゃあ、何の役に立つんだよ」
「分かりません」
直人は正直に答えた。
浅井の顔が歪む。
「また分からないかよ」
「分からないことを、分かったふりして誰かを選ぶよりはいい」
浅井は黙った。
その時、霊札が熱を持った。
直人は札を見下ろした。
文字が滲んでいる。
遠野の声ではない。
真柴要でもない。
もっと多くの声が、札の奥からざわめいていた。
名前を呼んで。
忘れないで。
下ろして。
重い。
痛い。
返して。
直人は膝をついた。
「柊さん!」
葉月が駆け寄る。
直人の頭の中に、無数の名前が流れ込んできた。
遠野清作。
真柴要。
鹿島圭介。
知らない名前。
読めない名前。
消えかけた名前。
祖母が呼んだ名前。
盤に食われた名前。
名は一つではなかった。
供物盤の中に沈んでいた名前たちが、霊札を通じて直人へ押し寄せている。真柴要の名を戻したことで、扉が少し開いたのだ。戻りたい名、呼ばれたい名、忘れられたくない名が、直人の中へ一斉に流れ込んでいる。
直人は喉から声にならない音を漏らした。
葉月が叫ぶ。
「名前を呼んでください! 柊直人です!」
鹿島が続けた。
「柊直人!」
民子も泣きながら叫ぶ。
「柊直人さん!」
浅井が遅れて言う。
「柊直人!」
声が遠い。
直人の中に、別の名前が入り込もうとしている。
真柴要。
遠野清作。
知らない誰か。
柊直人という名が、押し流される。
その時、秋津の声が聞こえた。
「柊直人」
低く、はっきりした声だった。
「あなたは柊直人です。柊澄江の孫で、白縫村に来た。嘘が苦手で、遠野清作の名を覚え、真柴要の名を戻した。今、ここにいる」
その言葉は、他の誰の声よりも直人の中へ届いた。
秋津の言葉には力がある。
人を流す力。
人を縛る力。
だが今、その力は直人の名を繋ぎ止めるために使われていた。
直人は畳に手をつき、息を吸った。
視界が戻る。
広間の天井。揺れるランタン。葉月の顔。鹿島の青ざめた顔。民子の涙。浅井の怯えた目。倉持の強張った拳。秋津の静かな表情。
直人は、かすれた声で言った。
「僕は、柊直人です」
葉月が深く息を吐いた。
霊札の熱は引いていた。
だが、その表面に新しい文字が浮かんでいた。
抱えし名を下ろすには、供物となるべし。
広間が静まり返った。
倉持が低く言った。
「どういう意味だ」
誰も答えない。
答えは見えていた。
霊札が抱えた名を下ろすには、霊を持つ者が供物になる。
そう読める。
民子が震えた声で言った。
「でも、今のままだと柊さんが壊れるんでしょう」
その言葉に、広間の全員が直人を見た。
哀れみ。
恐怖。
罪悪感。
そして、ほっとしたいという欲望。
もし柊直人が供物になれば、抱えた名が下ろされるのかもしれない。遠野清作も、真柴要も、鹿島圭介も、ほかの名も救われるのかもしれない。村も助かるのかもしれない。
誰もそれを口にしない。
だが、空気はそう言い始めていた。
葉月が立ち上がった。
「違います」
声が鋭かった。
「霊札に浮かんだ言葉を、そのまま受け取ってはいけません。供物盤は、こちらに誰かを選ばせようとする。言葉を使って、そう読ませているだけです」
「でも、札に書いてあるんだろ」
浅井が言った。
「抱えた名を下ろすには、供物となるべしって」
「供物になる、という言葉の意味が違う可能性があります」
「また解釈かよ!」
浅井の声が荒くなる。
「もう無理だろ! 柊さん本人だって危ない。名前が薄くなって、今も倒れた。これ以上抱えたら壊れるんだろ。だったら」
そこで浅井は言葉を止めた。
だったら。
続きは言わなくても分かった。
だったら、供物にした方がいい。
民子が泣きながら首を振る。
「嫌よ。そんなの嫌。でも、じゃあどうすればいいの」
倉持は黙っていた。鹿島は何度も直人の名前を呟いている。
秋津が口を開いた。
「私は、柊さんを供物にすることには反対です」
広間が揺れた。
直人は秋津を見た。
「理由は単純です。今、柊さんを供物にすれば、私たちはまた盤の言葉に従うことになる。遠野さんの時と同じです。盤が示し、私たちが確認し、誰かを消す。その繰り返しです」
浅井が言った。
「でも、じゃあ名を下ろす方法は」
「考える必要があります」
「日没までに?」
「はい」
秋津の声は静かだった。
「考える時間は少ない。だからこそ、焦って決めてはいけません」
直人は秋津を見つめた。
この男は今、自分を救おうとしている。
それとも、救うことで別の流れを作ろうとしているのか。
分からない。
だが、少なくとも今の言葉は必要だった。
午前中いっぱい、葉月は帳面を調べ続けた。
直人は広間の隅に座らされ、定期的に名前を呼ばれた。柊直人。柊直人。柊直人。鹿島圭介の時と同じだ。いや、鹿島よりも頻繁だった。霊札がまた熱を持てば、直人は別の名に押し流されるかもしれない。
手首の「真」は、さらに濃くなっている。
葉月の「柴」も。
鹿島の「要」も。
真柴要の名を分けて負った三人は、それぞれに変化を受けていた。
鹿島は自分の名前を少し取り戻した代わりに、時折、真柴要の記憶らしきものを口にした。
「笛の音が聞こえます」
彼は言った。
「山の方から。子供が笑っている。たぶん、真柴要さんの記憶です」
葉月はそれを記録した。
直人には、祖母の声が聞こえることがあった。
澄江の若い声。
要を忘れるな。
名を一人で抱えるな。
その声は、優しいのに苦しかった。
昼過ぎ、葉月がようやく一つの記述を見つけた。
「ありました」
彼女の声に、広間の全員が顔を上げる。
「『名を抱えし霊、供物となるべし』という記述があります」
浅井が顔を引きつらせた。
「やっぱり」
「続きがあります」
葉月は読み上げた。
「『ただし供物とは、盤に捧ぐるものに限らず。名を皆の前に置き、皆に分けることもまた供物なり』」
直人は顔を上げた。
「名を皆の前に置く?」
「霊が抱えた名を、全員で呼ぶということだと思います。霊一人が抱えるのではなく、村全体に分ける」
「そんなことができるのか」
倉持が言った。
葉月は頷かなかった。
「分かりません。でも、真柴要さんの名を三人で分けた時、名は戻りました。霊が抱えている名前も、全員で呼べば下ろせるかもしれない」
秋津が考え込むように言った。
「つまり、柊さんを供物にするのではなく、柊さんが抱えている名前を全員の前に差し出す」
「はい」
「具体的には?」
葉月は直人を見た。
「柊さんが、聞いた名前、見た名前をすべて言う。全員がそれを復唱する。名を一人で抱えない」
直人の喉が乾いた。
聞いた名前。
見た名前。
霊札の奥に流れ込んできた無数の名前。
それを口にする。
できるのか。
直人は霊札を見た。
札は静かだった。だが、その奥にまだ多くの名が沈んでいることが分かる。取り出そうとすれば、自分の名がまた削れるかもしれない。
秋津が言った。
「危険です」
「柊さんを供物にするよりは」
葉月が返す。
「比べる対象が間違っています」
秋津の声が少し強くなった。
「柊さんが名前を口にする途中で、自己を失う可能性があります。全員で呼んでも間に合わないかもしれない」
「それでも、ほかに方法はありません」
「本当に?」
秋津の目が葉月を捉えた。
「あなたは、柊さんを救いたいからその方法に賭けようとしているのではありませんか」
葉月は一瞬、言葉を失った。
秋津は続けた。
「その気持ちは分かります。ですが、個人的な感情で危険な賭けを選ぶことは、村全体を危うくする」
「では、柊さんを供物にするのが村全体のためだと?」
「そうは言っていません」
「でも、そう聞こえます」
葉月の声が震えていた。
直人は二人を見た。
秋津の言葉は正しい。
葉月の言葉も正しい。
そして、どちらも直人を中心に回っている。
自分が供物候補になるというのは、こういうことなのだと思った。
人々の言葉が、自分の上を通過していく。自分の命、自分の名、自分の危険について話しているのに、当人はだんだん置き去りになる。遠野清作も、こうだったのかもしれない。鹿島圭介も。真柴要も。
直人は立ち上がった。
「やります」
広間が静まった。
葉月がこちらを見る。
「柊さん」
「僕が抱えている名前を言います。全員で呼んでください」
「危険です」
秋津が言った。
「知っています」
「途中で自分の名を失うかもしれない」
「その時は、僕の名前を呼んでください」
直人は広間の全員を見た。
「柊直人です。忘れないでください」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは鹿島だった。
「柊直人」
続いて葉月。
「柊直人」
民子が泣きながら言った。
「柊直人さん」
浅井が少し遅れて。
「柊直人」
倉持が低く。
「柊直人」
秋津が最後に言った。
「柊直人」
名が繋ぎ止められる。
直人はそう感じた。
儀式は広間の中央で行うことになった。供物盤の前ではない。葉月の判断だった。盤に捧げるのではなく、人々の前に置くためだ。
長机を片づけ、畳の中央に直人が座る。その前に霊札を置く。葉月が帳面と筆記具を構え、鹿島が直人の右側に座る。秋津は少し離れた場所に立った。自分の言葉が場を動かしすぎないように、あえて距離を取ったのかもしれない。
日没まで、あと一時間。
直人は霊札に手を置いた。
冷たい。
そして、底なしに重い。
「始めます」
葉月が頷く。
直人は目を閉じた。
名前が来た。
最初は遠野清作。
彼の名は、もうはっきりしている。
「遠野清作」
直人が言うと、全員が復唱した。
「遠野清作」
広間の空気が震える。
次に真柴要。
「真柴要」
「真柴要」
鹿島の手首の「要」がかすかに熱を持つ。
次に、知らない名前が来た。
高瀬文乃。
直人はその名を口にした。
「高瀬文乃」
全員が戸惑いながら復唱する。
「高瀬文乃」
すると、直人の脳裏に一瞬だけ映像が浮かんだ。
赤い手袋をした少女。雪の上に落ちた笛。誰かを庇うように立つ背中。
次の名。
宮原宗吉。
白縫千代。
大瀬良実。
名が次々に流れてくる。
直人は吐き出すように呼んだ。
そのたび、広間の全員が復唱する。
最初はぎこちなかった声が、次第に揃っていく。民子の声、浅井の声、倉持の声、鹿島の声、葉月の声、秋津の声。子供たちまで、小さく名前を繰り返した。
名前が、広間に満ちていく。
それは読経にも似ていた。
だが、死者を遠くへ送るための声ではない。
忘れられた者を、こちらへ引き戻す声だった。
直人の体は熱くなっていった。
霊札が震える。
胸の中に別の名前が入り込もうとする。
柊直人という名が揺らぐ。
「柊直人!」
葉月が叫んだ。
全員が続いた。
「柊直人!」
直人は目を開けた。
「僕は、柊直人です」
また名前を呼ぶ。
高瀬文乃。
宮原宗吉。
白縫千代。
大瀬良実。
名を呼ぶたび、壁の名簿の下に薄い文字が増えていく。避難者名簿ではない。別の欄が現れ、そこに忘れられた名が一つずつ浮かび上がる。
帰還、未完。
帰還、未完。
帰還、未完。
完全ではない。
それでも、盤の中から名が引き戻されている。
直人は最後の方で、ひどい寒気に襲われた。
もう十分だ、とどこかで思った。だが、霊札はまだ名前を押し出してくる。
そして、一つの名が来た。
秋津修平。
直人は息を呑んだ。
目の前にいる男の名前。
だが、その名は重かった。濃すぎる墨のように、喉に絡みつく。
秋津が気づいた。
「言ってください」
「でも」
「私の名も、下ろしてください」
直人は秋津を見た。
秋津の顔は青ざめていた。
「秋津修平」
直人が言った。
広間の全員が復唱する。
「秋津修平」
その瞬間、名簿の秋津修平という文字が大きく滲んだ。
黒い墨が紙の上を広がり、周囲の名前を飲み込もうとする。
民子が悲鳴を上げた。
直人の頭の中に、秋津の声ではない声が響いた。
まだだ。
まだ、名を返さぬ。
誰の声か分からない。
遠野ではない。
真柴要でもない。
もっと古い、盤の底に沈んだ声。
直人は霊札から手を離そうとした。
離れない。
札が掌に貼りついている。
秋津が一歩近づいた。
「柊直人!」
彼が叫んだ。
葉月も叫ぶ。
「柊直人!」
鹿島も、民子も、浅井も、倉持も、全員が叫んだ。
「柊直人!」
直人は喉を裂くように言った。
「僕は、柊直人です!」
霊札が弾けた。
いや、割れたのではない。黒い文字が札から浮き上がり、煙のように天井へ消えた。札そのものは白くなり、畳の上に落ちた。
広間の壁で、名簿が震えた。
遠野清作。
真柴要。
鹿島圭介。
高瀬文乃。
宮原宗吉。
白縫千代。
大瀬良実。
そして、秋津修平。
名前が並んでいた。
秋津修平の文字は、まだ濃い。だが、先ほどまでの異様な黒さは少し薄れていた。
直人の名前も、完全ではないが、輪郭を取り戻している。
柊直人。
読める。
直人は畳に倒れ込んだ。
葉月が支える。
「柊さん!」
「大丈夫です」
声は出た。
「僕は、柊直人です」
葉月は目に涙を溜めて頷いた。
その時、投票箱が音を立てた。
誰も触れていない。
奉納と書かれた木箱の蓋が、ゆっくり開いていた。
中には紙が一枚入っていた。
秋津が近づき、足を止める。
「私が触れない方がいいでしょう」
葉月が紙を取り出した。
そこには、墨でこう書かれていた。
供物は、名を下ろした。
されど霊は、村の境に立つ。
明朝、霊の名を問う。
答え誤らば、霊を吊れ。
広間の空気が凍りついた。
今日は、助かった。
だが、終わっていない。
明朝、霊の名を問う。
霊の名。
柊直人の名を、誰がどう答えるのか。
浅井が震える声で言った。
「まだ、柊さんなのか」
誰も答えなかった。
直人は畳の上で、白くなった霊札を見つめた。
札は静かだった。
だが、その静けさがかえって恐ろしい。
名を下ろしたことで、直人は完全に助かったわけではない。村の境に立つ者になった。こちら側と盤の側、その間に立たされた。
夜が来た。
広間では、誰も眠れなかった。
直人の名前は何度も呼ばれた。柊直人。柊直人。柊直人。鹿島圭介の名も、真柴要の名も、遠野清作の名も呼ばれた。
名前の声が、夜を埋めていく。
秋津は広間の隅に座り、名簿を見つめていた。
彼の名前は薄くなったが、まだどこか濃い。
葉月は直人の隣で、古い帳面を抱えたまま眠らずにいた。
「明朝、何を問われると思いますか」
直人が聞くと、葉月は首を振った。
「分かりません。でも、盤はたぶん、あなたの名前を奪うための問いを出します」
「僕が答えを間違えたら」
「吊らせようとするでしょう」
葉月は真っ直ぐ直人を見た。
「でも、吊らせません」
直人は小さく笑った。
「力強いですね」
「嘘です」
「え?」
「怖いです。本当は、とても怖い」
葉月の声は、少し震えていた。
「でも、怖いからといって、あなたを差し出す理由にはなりません」
直人は何も言えなかった。
公民館の外では、雪が降り続いている。
白縫村はまだ閉じている。
だが、広間の壁には、戻りかけた名前が並んでいた。
遠野清作。
真柴要。
鹿島圭介。
そして、柊直人。
直人は、自分の名を何度も心の中で呼んだ。
柊直人。
柊直人。
柊直人。
夜明けが来るのが、怖かった。
けれど、夜が明けなければ、何も終わらない。
そのことだけは、はっきり分かっていた。




