第五章 整った言葉の刃
鹿島圭介は、まだそこにいた。
それが救いなのかどうか、直人には分からなかった。
名簿から名前を失った医師は、公民館の広間の隅に座り、両手で自分の膝を押さえていた。体はある。声も出る。誰かが肩に触れれば、温度もある。だが、彼の名前は壁の避難者名簿から消え、診療所の当番表からも消え、彼が持ってきた医療鞄の名札からも消えていた。
鹿島圭介。
直人がそう呼ぶと、彼は顔を上げる。
だが、呼ばなければ、周囲の人々は彼を「先生」「お医者さん」「あの人」と呼んだ。名前が口から出てこないのだ。
青山民子は何度も謝っていた。
「ごめんなさい、先生。分かっているのよ。分かっているのに、名前がすぐ出てこないの」
鹿島はそのたびに、弱々しく笑った。
「いいんです。僕も、さっきから自分の名前を何度も忘れそうになる」
その言葉を聞くたび、広間にいる者たちの顔から血の気が引いた。
自分の名を忘れる。
それは、死ぬことよりも想像しにくく、だからこそ恐ろしかった。
直人と葉月は、夜のあいだ交代で鹿島の名前を呼び続けた。鹿島圭介。鹿島圭介。鹿島圭介。浅井利彦も途中から加わり、倉持剛も一度だけ低い声で呼んだ。秋津修平も呼んだ。穏やかな声で、正確な発音で。
そのたび、鹿島はわずかに現実へ戻るように見えた。
だが、名簿の空白は戻らなかった。
朝になる頃、広間の空気はさらに悪くなっていた。
誰もが疲れている。眠れていない。食料はまだあるが、温かいものを口にしても体の芯が戻らない。公民館のストーブは赤く燃えているのに、畳の下から冷気が染み上がってくる。窓の外では雪が降り続き、村の輪郭をさらに曖昧にしていた。
公民館の掲示板には、新しい文字が出ていた。
偽りは名を失った。
なお、狼は村にいる。
日没までに、次の供物を選べ。
その三行を見た時、誰も声を出さなかった。
昨日までは、叫ぶ者がいた。泣く者がいた。そんな馬鹿なと笑おうとする者もいた。だが、今朝は違った。皆、読むだけだった。雪の中に貼られた紙の前で立ち尽くし、そこに書かれている言葉を体の中に沈めていく。
盤は本気だ。
そんな言い方は奇妙だが、直人にはそうとしか思えなかった。
遠野清作は消えた。鹿島圭介は名を奪われた。全員の名前も薄れたままだ。供物盤は、もう伝承でも悪戯でもない。白縫村の中心に座り、人々の言葉と記憶を支配している。
広間に戻ると、秋津がすでに長机の前に立っていた。
彼は一晩ほとんど眠っていないはずだった。それなのに、声は乱れていない。髪も服装も乱れておらず、眼鏡の奥の目だけが少し赤い。
「皆さん」
静かな声だった。
その一言で、ざわめきは止まった。
「昨夜、鹿島先生は命までは失いませんでした。しかし、名前を失いました。これは非常に重大なことです」
鹿島は壁際で目を伏せた。
秋津は続けた。
「鹿島先生は、自分が見た結果の一部を言わなかった。本人も、それを認めています。ただし、私は鹿島先生を責めるべきではないと考えています。恐怖の中で、見たものすべてを正確に言うことは容易ではありません」
広間の何人かが頷いた。
鹿島の肩がわずかに震えた。責めないと言われるほど、自分が責められるべき存在になった気がするのかもしれない。
「問題は、個人の失敗ではありません」
秋津は言葉を区切った。
「私たちの情報共有の仕方です」
直人は、少し身構えた。
秋津は何かを始めようとしている。
「これまで、私たちはそれぞれが札を隠し、見たことを隠し、知っていることを隠してきました。もちろん、それには理由があります。名乗れば狙われる。情報を出せば疑われる。その恐怖は理解できます」
優しい言葉だった。
誰も責めない。
誰も切り捨てない。
だからこそ、続く言葉が入りやすくなる。
「しかし、その結果として、遠野さんは消え、鹿島先生は名を失いました。誰かが全部を話していれば、防げたかもしれない。誰かが早く情報を出していれば、別の判断ができたかもしれない」
広間の空気が少しずつ変わった。
責任は誰にあるのか。
その問いが、見えない形で漂い始める。
秋津はそれを口にはしない。ただ、漂わせる。
「今日、私たちは一つだけ原則を決めるべきです。札に関する情報、供物盤に関する記録、昨夜見たこと、聞いたこと。それらは、可能な限り共有する」
葉月が顔を上げた。
「共有した人から疑われます」
「共有しなかった人のせいで、誰かが消えることもあります」
秋津は静かに返した。
その言葉で、何人かの視線が葉月へ向いた。
葉月は盤守の家の人間だ。供物盤の記録を持っている。遠野が狼ではない可能性を出し、霊を守った。鹿島が葉月を占った時には、白い石ではなく、帳面と黒い糸が見えた。
疑う材料は揃っている。
ただ、それはすべて、疑おうと思えば疑える材料だった。
直人は前に出ようとした。
だが、その前に葉月が口を開いた。
「私が知っていることは話します。ただし、記録は欠けています。読み違いもあります。私の解釈をそのまま事実にしないでください」
「もちろんです」
秋津は頷いた。
「だからこそ、全員で確認します」
全員で。
その言葉を聞くたび、直人は胸の中が重くなった。
全員で決めれば、誰も一人では責任を負わない。全員で確認すれば、誰も一人では間違えないことになる。だが、それは本当に責任を分け合うことなのか。ただ薄めて見えなくしているだけではないのか。
葉月は帳面を長机に置いた。
古い帳面は三冊あった。供物控。盤守覚。白縫祭記。どれも紙が波打ち、墨はところどころ薄れている。
「まず、札について分かっていることを整理します」
葉月は紙に文字を書いた。
占。霊。護。共。空。狼。
「占は、名を水に映し、石をもって重さを知る。これは白黒を見るとは限りません。鹿島先生が見た白い石は、秋津先生が潔白だという意味ではない可能性があります」
秋津は表情を変えない。
「霊は、消えた者の声を聞く。これは遠野さんの声を聞いた人がいる可能性を示します」
広間に緊張が走った。
直人は唇を結んだ。
葉月はこちらを見なかった。
「護は、一人を守る。ただし空に触れられた場合、守りは空白になる。共は、互いを知る。空は、一晩だけ役を空にする。狼は、名を食う」
「狼は誰かを殺すんじゃなくて、名前を消すんだな」
倉持が低い声で言った。
「はい」
「じゃあ、鹿島先生の名前を消したのも狼か」
「盤の罰かもしれません。鹿島先生が結果を偽ったから」
「偽ったって言っても、全部言わなかっただけだろ」
「盤にとっては、それも偽りだったのかもしれません」
葉月は、そう言ってから一瞬だけ鹿島を見た。
「鹿島先生を責めているのではありません」
「分かっています」
鹿島は力なく答えた。
秋津が言った。
「重要なのは、偽りを減らすことです。今日からは、見たものを全部言う。知っていることを隠さない。これを原則にしませんか」
民子が頷いた。
「そうよね。隠すから怖くなるのよ」
浅井も言った。
「俺だって、誰が何の札か分からないのが一番怖い」
倉持が腕を組む。
「全員、札を見せるか」
広間の空気がざわついた。
直人の胸元で霊札が重くなる。
葉月がすぐに言った。
「それは危険です。役を公開すれば、狼が狙う相手を選びやすくなる」
「狼を見つけるためには必要だろ」
浅井が言う。
「昨日はそうやって隠したせいで、鹿島先生が」
「鹿島先生が名前を失ったのは、札を隠したからではありません。結果の一部を言わなかったからです」
「でも、それも隠したってことだろ」
浅井の声は尖っていた。彼は一度、供物候補にされかけている。だからこそ、自分以外へ疑いを向けたいのだろう。直人にはそれが分かった。分かったが、責める気にはなれなかった。恐怖の中で、人は皆そうなる。
秋津が手を上げた。
「札の全面公開は、今すぐには避けましょう。葉月さんの懸念も理解できます。ただし、結果を持っている人は申告する。さらに、供物盤や札について過去の知識を持つ人も申告する。これならどうでしょう」
妥協案のように聞こえた。
だが、実際には葉月を中心に据える案だった。
過去の知識を持つ人。
それは葉月と村長を指す。
村長は広間の奥で目を伏せていた。昨日、空札の真実を明かした後、彼は急に老け込んだように見えた。白縫家が盤守だと葉月が明かしてから、村人たちの村長を見る目も変わっている。尊敬や依存よりも、なぜ黙っていたのかという不信が混じり始めていた。
秋津はその空気を利用している。
直人はそう思った。
利用していると分かる。だが、止める言葉が見つからない。過去の知識を共有すべきだという主張そのものは正しいからだ。
正しい。
秋津の恐ろしさは、そこにあった。
彼は間違ったことを言わない。
少なくとも、すぐに間違いだと断じられることは言わない。彼の言葉は常に理屈の形をしている。だから皆、反対しにくい。反対する者は、感情的で、非協力的で、村全体の安全を考えていない人間に見えてしまう。
葉月は帳面を閉じた。
「私が持っている記録は、すべてここに出します」
「ありがとうございます」
秋津は静かに礼を言った。
「では、白縫村長にもお願いします」
村長は顔を上げた。
「何をだ」
「あなたが知っている供物盤の記録です。特に、過去に同じようなことが起きた時の結末を」
村長は黙った。
沈黙が長引く。
その沈黙が、村人たちの疑いを育てていく。
倉持が苛立った声を出した。
「村長。知ってるなら話してくれ」
民子も言った。
「お願いです。子供もいるんです」
村長は小さく首を振った。
「話しても、助からん」
「話さなければ、もっと助かりません」
秋津の声は穏やかだった。
「あなたが黙ることで、村の全員が危険になります」
その言葉に、村長の顔が歪んだ。
個人の沈黙が、全員の危険になる。
これは昨日、直人が霊の結果を隠した時にも感じた圧力だった。
村長はしばらくして、低い声で言った。
「過去に盤が動いた時、村は三度閉じた」
広間の全員が聞き入った。
「一度目は飢饉。二度目は雪崩。三度目は疫病だ。記録では、いずれも供物を選んだ。選ばれた者は名を失い、村は開いた」
「狼は?」
直人が聞いた。
村長の目がこちらを向いた。
「記録には、狼の名は残らん」
「なぜですか」
「狼も名を食うからだ」
「狼自身の名も?」
村長は頷いた。
「供物を食い続けた狼は、最後に自分の名を失う。だから、記録には狼の名が残らない。ただ、周囲の名が欠けている。帳面に空白が多い年ほど、狼が強かったと言われる」
葉月が帳面をめくった。
「では、この空白は」
「名を食われた者と、食った者の跡だ」
広間の温度が下がったように感じた。
帳面の中にある空白。
名簿から消えた遠野清作。
名前だけを失った鹿島圭介。
白く薄れた全員の名字。
すべてが繋がっていく。
浅井が震える声で言った。
「じゃあ、狼を見つけても、名前は分からないってことかよ」
「狼であったことは、周囲の消え方で分かる」
村長は言った。
「だが、名は残らん」
「そんなの、どうやって見つけるんだ」
村長は答えなかった。
秋津が口を開いた。
「つまり、狼を探すには、誰が名を消す流れを作っているかを見る必要があります」
直人は秋津を見た。
それは、直人が考えていたことに近かった。
狼は単なる札の持ち主ではなく、名を消す流れを作る者。
だが、その言葉を秋津が使うと、意味が少し変わる。
「昨日、遠野さんの名を消す流れを作ったのは誰だったのか。鹿島先生が結果を隠すことになった流れを作ったのは何だったのか。今日、私たちはそこを考える必要があります」
秋津の声は静かだった。
だが、直人には嫌な予感がした。
流れを作った者。
その言葉は、誰にでも向けられる。
浅井にも、鹿島にも、葉月にも、直人にも。
そして、秋津自身にも。
しかし秋津は、自分を含めたように言うことで、自分だけを特別な対象から外している。
「昨日、鹿島先生が結果の一部を言わなかったのは、なぜでしょう」
秋津は鹿島を見た。
鹿島は身を固くした。
「責めているわけではありません。理由を知りたいのです」
「怖かったからです」
鹿島は小さく答えた。
「何が?」
「秋津先生の下に、黒い水と名前が沈んでいると見えた。でも、それを言えば、皆が先生を疑うと思った」
「私を守ろうとした?」
「村を混乱させたくなかったんです」
「誰が、混乱させたくないと思わせたのでしょうか」
鹿島は答えられなかった。
秋津は自分を指しているようで、違う場所を見ていた。
「この村全体が、そう思わせたのではありませんか。正しいことを言うよりも、場を乱さないことを優先させる。そういう空気が、鹿島先生に全部を言わせなかった」
広間に沈黙が広がる。
直人は、秋津が何をしているのか少し分かった。
鹿島個人の責任を薄める。
代わりに、村全体の空気を責任者にする。
一見、公平だ。
だが、村全体の空気が悪いという話になると、誰かがその空気を正す必要がある。そして、その役を引き受けるのは秋津になる。
「だからこそ、今日は感情ではなく、手順で進めましょう」
秋津は言った。
「誰かを責めるためではありません。流れを可視化するためです」
手順。
可視化。
整った言葉が並ぶ。
「まず、昨日までの発言と行動を確認します。誰が誰に疑いを向けたか。誰が情報を出し、誰が止めたか。そこから、名を消す流れに関わった人物を見ます」
葉月が目を細めた。
「それは、発言した人間を疑うということですか」
「発言した人間だけではありません。沈黙した人間も含めます」
「全員が対象になりますね」
「はい。私も含めて」
秋津はそう言った。
その瞬間、また彼は安全な場所へ移った。
私も含めて。
この一言で、彼は公平な審判のように見える。
直人は拳を握った。
広間の中央に、大きな紙が広げられた。葉月が記録係として座り、秋津が進行する。鹿島は名を失っているため、発言は必要最小限にすると言われた。本人もそれに従った。倉持は不満げだったが、秋津が「疲労が判断を鈍らせます」と言うと黙った。
発言の整理が始まった。
最初の供物盤の発見。
遠野清作の警告。
秋津の説明。
投票。
遠野の消滅。
鹿島の占い結果。
葉月の記録。
直人の発言。
浅井への疑い。
投票回避。
全員の名字の薄れ。
葉月の占い。
村長による空札の説明。
鹿島の告白。
鹿島の名の喪失。
出来事を並べるだけなら、事実に見える。
だが、並べ方によって意味は変わる。
葉月が紙に記録していくたび、直人はそれを痛感した。
秋津は、強い言葉を避けた。
遠野を吊った、とは言わない。遠野を供物として確認した、と言う。
鹿島が嘘をついた、とは言わない。鹿島が結果を部分的に共有した、と言う。
直人が秋津を疑った、とは言わない。直人が進行に疑義を呈した、と言う。
どれも間違いではない。
間違いではないからこそ、怖かった。
昼過ぎ、紙の中央にいくつかの名前が残った。
浅井利彦。
白縫葉月。
柊直人。
白縫宗一。
鹿島圭介。
そして、秋津修平。
秋津は自分の名も残した。
広間の人々は、そのことで彼をさらに信用したようだった。
「この六名は、ここまでの流れに大きく関わっています」
秋津は言った。
「もちろん、関わっていることと狼であることは違います。ただ、次に何を確認すべきかを考える材料にはなります」
倉持が言った。
「鹿島先生はもう名前を取られた。狼じゃないんじゃないか」
「そうとも限りません」
秋津は答える。
「ただ、これ以上追い詰めるべきではないでしょう」
鹿島が目を伏せた。
民子が小さく頷く。
鹿島は除外された。
村長については、葉月が言った。
「お祖父さまは、供物盤について隠していました。でも、空札について話した。少なくとも、鹿島先生の名が失われる前に重要な情報を出しました」
村長も完全には除外されないが、今すぐ供物にする流れではなくなった。
浅井については、昨日の発言が問題になった。
だが、遠野への票を集めた主導者とは言い切れない。浅井は恐怖を口にしただけだという見方もできた。
残ったのは、葉月、直人、秋津だった。
広間の空気が張り詰める。
直人は、その構図に気づいた。
秋津は自分の名を残すことで公平さを見せた。だが、実際に疑いを向けやすいのは葉月と直人だ。
葉月は記録を持ち、情報を出し惜しみしたと見られている。
直人は遠野の無実を知っているような発言をし、霊札を持っている可能性がある。さらに秋津に疑義を呈して場を乱している。
秋津は中心にいるが、鹿島による「白い石」という結果がある。しかも自分を疑ってもよいと何度も言っている。
見事な配置だった。
意図しているのか。
それとも、結果的にそうなっただけなのか。
直人は秋津の顔を見た。
秋津はいつも通り、穏やかだった。
「今日の投票を避けることは難しいと思います」
秋津が言った。
広間の空気が固まった。
「昨夜、投票を避けた結果、全員の名前が削られました。今日も避ければ、さらに削られる可能性が高い。もちろん、供物を選ぶことは恐ろしい。しかし、何もしないこともまた選択です」
何もしないことも選択。
その言葉は、広間の人々の胸に刺さった。
「投票は強制ではありません。白紙でも構いません。ただし、白紙もまた意思表示です。自分は選ばないが、結果は受け入れるという意思表示になる」
直人は息を呑んだ。
白紙の逃げ道が塞がれた。
昨日、直人は白紙を出した。その時、自分は選んでいないと思いたかった。だが秋津の言葉は、白紙もまた結果への参加だと告げている。
それは正しい。
正しいから、痛い。
「では、どうすればいいんですか」
民子が泣きそうな声で言った。
「誰を書けばいいんですか」
秋津はすぐには答えなかった。
待った。
その沈黙の間に、人々は互いの顔を見る。
葉月。
直人。
秋津。
浅井。
村長。
疑いが形を探す。
秋津は、ようやく口を開いた。
「私は、誰かの名前を指示することはしません」
その一言で、広間の何人かは安心したように見えた。
直人には、そうは見えなかった。
指示しない。
だが、材料は並べた。
矢印は作った。
誰を選べばよいかを、言わない形で示した。
浅井が小さく言った。
「俺は、葉月さんが怪しいと思う」
葉月の顔は動かなかった。
倉持が浅井を睨んだ。
「またおまえは」
「だってそうだろ。記録を持ってたのに隠してた。盤守の家だってことも黙ってた。空札のことだって、村長が言うまで出てこなかった」
民子が震えながら言った。
「でも、葉月ちゃんは名前を呼ぼうって」
「それも、そうすれば自分が助かるって知ってたのかもしれない」
疑いは、一度言葉になると増える。
直人は立ち上がった。
「葉月さんは遠野さんの名前を守ろうとしました。鹿島先生のことも」
「それも演技かもしれないだろ」
浅井の声は必死だった。
「じゃあ誰を信じればいいんだよ。秋津先生か。柊さんか。葉月さんか。村長か。もう分かんねえよ」
その叫びは、広間の本音だった。
分からない。
だから誰かを選びたい。
分からないまま、分かったふりをしたい。
秋津が静かに言った。
「浅井さんの不安は当然です。葉月さんを疑うことも、不自然ではありません」
「先生」
直人は秋津を見た。
秋津は続ける。
「ただし、疑いだけで人を選ぶのは危険です。葉月さんに投票するなら、その理由を自分の中で明確にしてください。柊さんに投票する場合も、私に投票する場合も同じです」
一見、公平。
だが、名前が三つ並んだ。
葉月。
柊直人。
秋津修平。
広間の人々は、その三つの中から選ぶように無意識に誘導された。
投票箱が用意された。
救急箱は鹿島が抱えていたものだったため、別の木箱が使われた。もともとは祭りの寄付金を入れる箱だったらしい。箱の側面には「奉納」と墨で書かれていた。
葉月が紙を切った。
直人はその手元を見ていた。彼女の指は冷えて白くなっている。それでも紙を切る動きは乱れなかった。
「大丈夫ですか」
直人が小声で聞くと、葉月は苦笑した。
「大丈夫に見えますか」
「見えません」
「なら、正しく見えています」
彼女は紙を配り始めた。
直人の前にも一枚置かれる。
白い紙。
鉛筆。
誰かの名前。
それだけで、人は人を消せる。
直人は鉛筆を握った。
誰を書くべきか。
秋津。
その名を書きたいという感情があった。彼がこの流れを作っている。遠野の記憶の声も秋津に似ていた。鹿島の占いで、白い石の下に黒い水が見えた。名前が沈んでいた。
だが、証拠は足りない。
秋津を書けば、直人は感情で動いた人間に見えるだろう。しかも、票は集まらない可能性が高い。むしろ直人自身が疑われる。
葉月を書くことはできない。
浅井も違う。
村長も違う。
自分の名を書くか。
それは逃げだ。
白紙にするか。
秋津はすでに白紙も意思表示だと言った。
直人は、紙の上で鉛筆を止めた。
その時、胸元の霊札が熱を持った。
直人は手を止める。
また、何かが来る。
だが今ここで札を取り出すわけにはいかない。広間の全員が見ている。
熱は強くなった。
耳の奥で、遠野清作の声がした。
整った言葉に気をつけろ。
直人は息を止めた。
声はそれだけだった。
けれど十分だった。
直人は紙に名前を書いた。
秋津修平。
書いた瞬間、手が震えた。
箱が回ってくる。
直人は紙を折り、箱に入れた。
投票が終わった。
開票は、秋津が自分で辞退した。
「私の名前も候補に入っています。公平性を考えれば、開票には関わらない方がいいでしょう」
その判断もまた、彼を公平に見せた。
開票は葉月と倉持、そして民子が行うことになった。直人も立ち会おうとしたが、浅井が「柊さんも候補だろ」と言い、外された。
紙が開かれていく。
「白縫葉月」
一票目。
「白縫葉月」
二票目。
「白紙」
三票目。
「柊直人」
直人は目を伏せた。
「白縫葉月」
四票目。
葉月の顔は白かった。
秋津は壁際で静かに見ている。
「秋津修平」
倉持が読み上げた瞬間、広間がざわめいた。
直人の票だった。
秋津は少しだけ目を伏せた。何も言わない。その沈黙が、かえって票を入れた者を責めているようにも見えた。
開票は続く。
白縫葉月。
柊直人。
白紙。
白縫葉月。
秋津修平。
浅井利彦。
票は割れた。
だが、最も多かったのは葉月だった。
葉月が最多票。
広間の時間が止まった。
直人は立ち上がった。
「待ってください」
声が出た。
「これはおかしい」
浅井が叫んだ。
「何がおかしいんだよ!」
「葉月さんが流れを作ったんじゃない。流れは作られたんです」
「誰に」
浅井が詰め寄る。
直人は秋津を見た。
言うのか。
ここで言えば、自分は秋津を告発することになる。
証拠はない。
だが、言わなければ葉月が消える。
「秋津先生です」
広間が凍った。
秋津は静かに直人を見た。
「私が、何をしたと?」
「あなたは誰にも命令していない。誰に投票しろとも言っていない。でも、疑う材料を並べて、候補を三人に絞り、白紙を逃げ道ではなくした。皆が自分で選んだように見せて、葉月さんへ流れを作った」
直人の声は震えていた。
だが、止まらなかった。
「遠野さんの時も同じです。盤が示した名前を確認する、と言った。鹿島先生の時も同じです。結果の共有を村全体のためだと言った。あなたの言葉はいつも正しい。でも、その正しさの先に、誰か一人が置かれている」
秋津は黙って聞いていた。
怒らない。
否定もしない。
その静けさが、直人をさらに不利にした。
民子が震えながら言った。
「でも、秋津先生がいなかったら、私たちもっと混乱してたわ」
倉持も低く言った。
「柊さん、言いたいことは分かる。でも、証拠はあるのか」
証拠。
直人は唇を噛んだ。
霊札の声。
遠野の記憶。
秋津に似た声。
そんなものは証拠にならない。言えば、自分が霊だとばれる。ばれても証明できない。
秋津がようやく口を開いた。
「柊さんの指摘は、受け止めます」
その言い方に、直人は絶望に近いものを感じた。
「私は確かに、場を整理しようとしました。その結果、葉月さんに疑いが集まったのなら、私にも責任があります」
責任を認めた。
だが、それは罪を認めることではない。
「ただ、私が意図的に葉月さんを供物にしようとしたという点については、否定します。私は誰にも投票先を指示していません。皆さん一人ひとりが、自分の判断で書いたはずです」
皆さん一人ひとりが。
広間の人々が目を伏せる。
投票した者たちは、自分の判断だったと言われると逃げ場を失う。だが同時に、秋津に操られたわけではないと思いたくもなる。
葉月が静かに立ち上がった。
「柊さん、もういいです」
「よくない」
「これ以上言うと、あなたが次に吊られます」
「それでも」
「それでも、今は駄目です」
葉月の声は小さかったが、強かった。
「私が供物になると決まったわけではありません。日没まで、まだ時間があります」
その時、掲示板の鐘が鳴った。
一度。
全員がびくりとする。
まだ日没ではなかった。
誰かが外を見に行き、すぐに戻ってきた。
「黒板に、文字が」
公民館の広間には、古い移動式の黒板があった。避難時の連絡用に使われていたものだ。朝には何も書かれていなかった。
今、その黒板に白い文字が浮かんでいた。
供物は、まだ受け取られぬ。
次の狼は、すでに名を変えた。
その文字を読んだ瞬間、広間の空気が変わった。
葉月への票。
秋津への疑い。
直人の告発。
すべてが中途半端に宙に浮いた。
次の狼は、すでに名を変えた。
名を変えた。
鹿島圭介は名を失っている。
遠野清作は消えた。
全員の名字は薄れている。
そして、狼は名を食う。
誰が名を変えたのか。
直人は名簿を見た。
その時、気づいた。
避難者名簿の中に、一つだけ違和感があった。
秋津修平。
その名前は、薄れていない。
全員の名字の一文字目が薄くなっているはずだった。柊の「柊」も、白縫の「白」も、倉持の「倉」も、青山の「青」も。だが、秋津修平の「秋」だけが、他の文字より濃かった。
いや、違う。
濃いのではない。
書き直されたように、新しかった。
「葉月さん」
直人は小声で呼んだ。
葉月も名簿を見ていた。
彼女の顔色が変わる。
「秋津先生の名前」
その声は広間に届いた。
全員が名簿を見る。
秋津の名前だけが、不自然に新しい。
秋津はゆっくりと名簿に近づいた。
自分の名前を見つめる。
彼の表情は読めなかった。
民子が震える声で言った。
「どういうこと……?」
浅井が後ずさった。
「名を変えたって、まさか」
秋津は静かに振り返った。
「落ち着いてください。文字の濃淡だけで判断するのは危険です」
その声は、いつも通り整っていた。
だが、その整い方が、今は広間全体を怯えさせた。
直人は名簿から目を離さなかった。
秋津修平。
白い石。
黒い水。
沈んだ名前。
整った言葉。
誰も殺せとは言わず、誰かを供物にする流れを作る男。
秋津は狼なのか。
それとも、狼に最も近い場所に立っているだけなのか。
日没まで、まだ時間があった。
しかし白縫村の中で、秋津修平という名は、初めて疑いの中心に置かれた。
そして直人は思った。
ここからが本当の危険だ。
追い詰められた正論は、狂気よりも鋭い刃になる。




