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第18話 告白の儀、秩序の返納

 供物盤の上——昨夜からそこに滲んでいる薄い人影は、朝の斜光にも消えなかった。犬影はもういない。薄灰の毛並みのような気配は、どこにも寄りつかず、板目の奥へ静かに吸い込まれた。代わりに、今、盤の上に立っているのは、人の立ち姿の輪郭だ。踵で受け、母指球で押す、教えられた通りの歩きの途中で止まった姿勢。狼は、習慣ごと人の形に戻った。


 宮司の孫——かがりは、巻物の最後の段を指で撫で、声に出した。古文は、これまでのどの段より短く、骨のように硬い。「“狼が人の影に変わるとき、告白の儀により『秩序』は返納される”」


 返納。返す先は、神でも外の観客でもない。ここ——人の手だ、と柊は思った。道具としての秩序は、舞台の袖に下がるべきだ。舞台に残るのは、人の声と、人の手の順番。


 かがりは盤の底の彫りに指を当て、さらに読み進めた。「“告白の儀——匿名を捨て、自分の名で語る。底の円の周りに、短い切れ目が十二。各人が自分の名を刻む席”」


 供物盤をひっくり返すと、確かに底に薄い円が刻まれていた。円の外周に、溝とも傷ともつかない短い切り込みが十二。刃でつけるほど鋭くなく、爪で引っかいたほど浅くもない。「席」と呼ぶにふさわしい曖昧さ。最初からそこに用意されていたのに、ずっと空席だった椅子のようだ。


 村の空気は硬い。名を刻むというのは、今日だけの儀のための自己紹介ではない。これからも名で責任を負うという宣言だ。匿名の甘さに慣れた舌に、冷水を含ませることになる。足を入れられる者は、少ないだろう。逃げるのではなく、ためらう、という質の硬さ。


 紅葉は盤の縁に膝をつき、指の腹で木の乾きを確かめた。「乾いてる。今なら、刃を薄く入れても木が悲鳴を上げない」と言って立ち上がり、拝殿の隅から小さな彫り刀を持って来た。看護の道具のうち、手当てのために用意していた木へ刻むための刃だ。患者の名前や薬量を書きつけた板札に、彼女は何度もこの刃を走らせてきた。


 柊は盤の上の薄い人影を眺め、吸い込むように深く息をした。息は、合唱ではない。和音でもない。いま必要なのは、短い呼びかけの連続だ。呼びかけの最後に刃を置き、名を残す。


「——皆で返納しよう」柊は、盤の傍に円座を作った村人たちの輪へ向けて言った。「村長に告白させるだけでは、村長だけが“異物”になる。そうなれば、合唱は別の形で戻ってくる。誰か一人を尖らせて、そこに“秩序”を吊るために。……だから、皆で返そう。名で返す。匿名の秩序を」


     ◇


 言い終えるや否や、古老のひとりが震える声を出した。「名は、呪だ」長年、祭文を暗唱してきた喉が、恐れと習慣の間で震えている。「名を刻むのは、自分の首根っこを差し出すのと同じ。名を呼ぶ者のほうが、いつも強い」


 片桐が机に両手を置き、声を低く、しかし一言ずつ立てるように言った。「だからこそ、名を外に置いたままにしておくと、名は誰かの刃になる。仮面が喜ぶのは、名前のない声だ。匿名は盾だが、今は刃だ。刃を鈍らせるには、名を自分で持つしかない」


 紅葉はサワの手を握った。「私から刻む」彼女は盤の底に片膝をつき、拙いがまっすぐな線で『紅葉』と刻んだ。筆で書くときほど滑らかではなく、刃は木の繊維の向きにときどき引き戻される。引き戻される度に、彼女は呼吸を少し長くして、刃の角度を変えた。看護の字。丁寧だが、美しいことを目指さない。読めることを目指す字。


 サワが次いで刃を受け取った。手はまだ細く、震えはあるが、震えは生きている証拠だ。彼女は自分の膝の位置を確かめ、喉を押さえ、盤に『サワ』と刻んだ。最後の「ワ」の曲がりで刃が少し跳ね、木が短く鳴った。鳴りは痛みではない。輪郭の音だ。


 湊——見習い書記が、「ぼくも」と言って前に出た。「たろ」と刻み、続けて「みよ」と刻んだ子どもたちの手を手伝いながら、自分の席に小さく『湊』と刻んだ。子どもの短い名は盤の底でやわらかい光を拾い、場の緊張が少し笑いにほどけた。笑いの高さは揃わない。揃わないことが、良い空気を作る。


 弔いのときに歌を出すのを生業にしてきた老女が、手を上げた。「わしにも」彼女は刃を持ち、『志乃』と刻んだ。最後の線で刃を少し止め、「ずっと他人の代わりに泣いてきた。あんたらの前でも泣いた。……わしの名で泣くのは、今日が初めてだ」と言って笑った。


 笑いは板に吸われ、音にならない余白を作った。良い余白だ、と柊は思う。次の言葉が入りやすい。


     ◇


 柊は刃を受け取り、自分の席に『柊』と刻んだ。刃は彼の指に馴染む。ページに名前を書くのとは違う、「残る」感じ。刻みながら、彼は短く言った。「——第1話の夜(あの夜)、旅芸人を誤って吊った。あの時、ぼくは“見た気がする”という合唱の前口に、うなずきかけた。霊能の札が白を示した夜、結果を隠し、合唱のほうへ傾きかけた。……隠した瞬間、ぼくの名は薄くなった。薄い名で、誰かを吊ろうとしていた」


 刃先が「柊」の最後でわずかに鈍り、木が低く鳴った。鳴りは痛みではない。自分の名が重さを取り戻すときの、骨の音だ。


 かがりが柊の隣に膝をついた。「——かがり」彼は自分の名を刻みながら、言う。「古文を読み解くとき、ぼくは“自分の読み”に権威を混ぜた。古文に盾を求め、古文に刃を仕込んだ。……今は、読む。読んで、渡す。渡すとき、ぼくの名で渡す」


 片桐も刃を取った。整った文字が得意なはずの男の刻みは、意外に不格好だった。板書と刻字とでは、筋肉の使い方が違う。「——片桐」彼は刻み、「整った言葉で人を守ったつもりだった。整った言葉は、短い眠りには良かったが、長い冬には危なかった。人を眠らせた。起こすべきときに、起こせなかった。……眠りを薦める言葉は刃だ。だから今は、眠りにくい言葉を選ぶ。短く、名で」


 村の母親たちが続いた。「——お兼」「——鶴」「——お杉」。自分の子どもが匿名の合唱に飲み込まれそうになった夜、自分の喉が出した「任せる」という一語の重さを、それぞれが短く語った。任せることが悪いわけではない。任せ方に名前が要るのだ。名前のない任せ方は、逃げるのと同じになる。


 井戸の番をする老人が前に出た。「——弥市やいち」と刻み、「水は黙って流すものだと思っていた。名前を刻めば、井戸の水が濁ると思っていた。……違った。濁ったのは、わしの喉だった」と笑った。笑いはやはり、良い余白を作った。


     ◇


 輪はゆっくりと回り、刻まれる名の数は十二の切れ目を越えた。刻みの座は十二しかないが、名は盤の周りの板にも溢れ、柱に、梁に、写し板の余白に、小さく大きく、各々の癖で残った。席は定員ではない。縁の「座」は儀の順番でしかない。告白の儀は、座からはみ出して続く。名が盤の外に溢れたとき、盤の意味は外に分配される。良い兆しだ。


 輪の最後に、村長が残った。棒は突いたまま。肩に掛けられていた青糸の結び目は、昨夜より柔らかくなっているのに、彼の指はそこに触れなかった。触れればほどけるのに。ほどけるのに、触れない。習慣が、指の先で抵抗する。


 柊は写し板に残る導線の地図を静かに畳み、村長の前に差し出した。「これは、あなたの声になれる。あなたが昨夜歩いた導線は、ここにある。けれど、名がない地図は、いつか誰かの刃になる。……名を置いてください」


 村長は答えず、長い沈黙が拝殿の梁を何往復もした。沈黙は罰ではない。選ぶ前口だ。皆の視線が合唱にならないよう、誰も声を重ねない。紅葉は呼吸の数を数え、湊は鈴を鳴らさずに、鈴の舌をそっと指で支えた。かがりは刃を拭い、盤の縁の木屑を払い、片桐は机に置いた手を離さず、古老は震える手を膝に押しつけて、座の板目を見ていた。


 やがて、村長は棒を横に置いた。置く音は、小さく、乾いていた。彼は指で盤を撫で、刃を持たずに木の感触を確かめ、ようやく刃を受け取って、自分の席に刻み始めた。音は低いが、届く。「——樫山かしやま」彼は名乗り、続けた。「私は、秩序に甘えた。匿名の楽さに負けた。狼を理由に、人を揃えた。揃えたまま、眠らせた。……名で責任を負うことに、ずっと背中を向けていた」


 樫山の最後の「山」を刻む刃が少し止まり、再び動いた。その一呼吸で、拝殿の空気がふっと変わった。盤の上の薄い人影が揺らぎ、供物盤の縁に残っていた最後の穴が、音もなく塞がった。音は、なかった。だが、拝殿の柱が一度、深く吸い込まれるように、内側から湿りを取り込み、梁の木は目に見えないくらい僅かに弓なりに戻った。穴のない板間の呼吸は、どこにも引っかからず、胸の奥へ滑っていく。


 「……返納」かがりが呟いた。「“秩序”は、返された」


     ◇


 山の観客席は、空だった。昨夜、その位置に無数に揺れた灯は、朝の霧がほどける前に消えていた。誰も座っていない座布団に残るのは、湿った空気だけだ。仮面は床にあり、灰は風になった。風は冷たさよりも軽さを運ぶ。軽さは、胸骨の間の隙間に薄い熱を残して消えた。


 紅葉が小さく拍手した。誰も止めなかった。拍手は合唱ではない。ばらばらのタイミングで、短く、続いた。湊の手の拍手は鈴の音に似ていて、片桐の手の拍手は紙を閉じる音に似ていた。志乃の手の拍手は、泣き止む前の子どもの背中を叩く音に似ていた。似ているだけで、同じではない。拝殿は拍手の差を受け入れ、板目の中でそれぞれの音を寝かせた。


 サワは喉に手を当て、人の音で笑った。遠吠えの前口はもう鳴らない。鳴らない代わりに、笑いの前口が喉の前で小さく震えた。笑いは、看護の音だ。看護は、戻る道を思い出させる仕事だ。


 樫山は棒を手に取り、肩に掛け直さず、そのまま拝殿の隅へ運んで立てかけた。青糸の結び目は、先ほど紅葉が緩め直した形のまま、ひとりでにほどけたりはしない。ほどけるのは、指が触れたときだけだ。彼は結び目に触れず、結び目の場所を目で覚え、拝殿を出ていった。その背中は小さかった。小さいから悪いのではない。小さい背中には、小さい深呼吸が似合う。


 名前が盤に刻まれ、板の粉が床に薄く積もっている。湊が箒で集め、「これは捨てない」と言って紙袋に入れた。「名の粉だから。あとで、紙に混ぜて新しい写し板にする」

 「いいね」と柊。「名の粉で写すなら、次の“逆匿名”は、もっと名前に強くなる」


 かがりは面の包みを開き、裏の刻印をもう一度指でなぞった。「——人は札を変えられても、習慣は変えにくい」

 「札は、変えた。習慣は、今、変わり始めた。名で」片桐が言い、面を布に包み直した。「道具は棚に戻していい。……ただ」


 「ただ?」柊が顔を上げる。


 「盤の裏に、まだ空洞がある」かがりが盤の縁を叩いた。乾いた音の奥に、もう一段、低い鳴りが重なった。「昨夜から微かに響いていた。今、穴が塞がって、音の質が変わった。空洞に、何かが残っている。返納のあとに、渡すべきものかもしれない」


 紅葉が頷いた。「外の雪が半日かけて、わずかに退いた。戻る支度は、ゆっくり始められる。でも、外に出る前に、ここで“もう一つ”片づけておくべきことがある」


 柊は盤の底をもう一度撫で、彫られた円と、名の刻みと、十二の切れ目の端に残る木の細い毛羽を指先で拾い、深く息を吸った。穴はもうない。けれど、空洞はある。空洞は悪ではない。空洞は、渡すための隙間だ。隙間があるところへ、名を持って降りていく。名で降りれば、刃を持たなくていい。


 拝殿の戸を半ばだけ開けると、外の光は昨日より柔らかく、雪は端から薄く透明になっていた。屋根の氷柱つららが一滴、音を立てずに落ちた。音がしなかったのに、誰もがその落ちた感触を胸のどこかで受け取った。穴が塞がる音に、よく似ていた。


 柊は仲間に目を配った。紅葉は刃を布で拭い、湊は鈴の舌を乾いた布でそっと拭い、片桐は古い講義ノートの「言葉は手順。手順は外れて初めて見える」の頁をもう一度開いた。かがりは青糸を手に取り、盤を裏返す手順を口で短く確かめた。「四方に手。角の順。声は短く。名は呼ばず。……ただし、手順が外れたら、名で戻る」


 「行こう」柊は言った。「盤の裏の空洞に、何かが残っている。返納した今だから、触れるものだ」


 拝殿の板間は、穴のない呼吸で、彼らの足音をそっと受けた。板目の下で木霊のような低い鳴りが、確かにひとつ、返事をした。返事は、呼びかけを待っていた。名で、ゆっくり。刃ではなく、糸で。

 ——告白の儀は終わった。秩序は返納された。

 ——次は、空洞に残されたものへの、名での手渡しだ。

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