第17話 狼の導線、人の名前
拝殿の床に残された仮面の面は、もう灰化を起こさなかった。昨夜、名を呼ぶ声に囲まれて倒れたそれは、器の役目を終え、ただの器になっていた。宮司の孫——いまは子どもたちに呼ばれた名で「かがり」と皆に覚えられつつある——が、面の裏に焼き込まれた刻印を薄紙に写し取り、供物盤の底に刻まれていた文と重ねる。「——人は札を変えられても、習慣は変えにくい」。二つの器の背に同じ文があった。道具は去った。残るのは、人の習慣に宿る狼。
盤の隅の薄灰の犬影は、今朝もそこに座っていた。襲わない。吠えない。ただ、夜ごと同じ導線を辿る。井戸→拝殿→村長の家→見張り台——四つの点を結ぶ細い線の上で、影は呼吸の回数を整えるみたいに行き来した。かがりが羊皮紙の地図に、影の線を新しい墨でなぞると、線はほんの少しだけ太った。太るのは、意味の重さだ。意味は軽く見えて重い。重く見えて軽い。柊は、影の線に指先を落とし、紙ではなく自身の指の腹で「通い慣れ」の感触を確かめた。
霧の朝、見張り台の下にもう一つの痕跡が残った。鐘の綱から落ちた灰が雪面に薄く広がり、そのそばに、大きな足跡と犬影の擦れが並ぶ。足跡の踵は深く、爪先は内へ寄らず、膝で受ける歩きの癖がそのまま紙に写したみたいに残っている。村長の歩幅だ、と柊の体が先に言った。頭で言葉を選ぶ前に、背中の筋が覚えていた。村長は顔を出さない。棒は家の中にある。青糸の結び目は夜露で柔らかく、結ばれたままなのにほどけやすくなっている。
紅葉はサワの脈を取っていた。手首の薄い皮膚に指を置き、脈の速さだけでなく、力の配分、跳ね返りの高さ、指先と肘の間に広がる温度の通りを確かめる。「夜になると、脈が落ちすぎないか」彼女は低く尋ねる。サワは頷いた。「名前を呼ばれると、戻れる。呼ばれないと、歩き出しそうになる。……昨夜は呼ばれたから、戻れた」
匿名の合唱が消え、村は個々の呼びかけで繋がりはじめていた。一斉に声を合わせる和音ではなく、順に火を渡すような短い名の響き。拝殿に置かれた写し板の上でも、投票欄はすっかり役目を変え、「導線欄」として拝殿から井戸へ、井戸から家へ、夜に歩いた道の点と矢印で埋まりつつある。けれど、そこにひとつだけ空白があった。村長の導線だ。
◇
「村長=人狼を実証する」——そう言葉にすれば、簡単に聞こえる。柊はわざと口に出さず、その代わりに自分の手で導線の地図の余白を撫でた。吊るという刃で終わらせない。匿名の秩序を装った「合意の刃」を逆に折る。吊ることで秩序の衣を着せ直すのではなく、導線を変える——習慣を破ることで“狼の居場所”を消す。供物盤の穴はほとんど閉じた。最後の薄い縁がまだ残る。その縁は、言葉ではなく、習慣の手触りに引っかかっている。
かがりが巻物の余白を指で叩いた。「“最後に歌うのは、誰の声”」彼は朝の光の中で、その行を読み直す。「合意の穴には声が要った。混じりを分ける儀では、歌と声と指と糸が要った。今残っているのは習慣の縁。縁をほどく歌は、おそらく……」彼は拝殿の戸口の方に視線を投げ、そこに見えない人物の影を置いて、「村長自身の声だ」
教師——片桐は頷いた。頷きの角度は深くないが、肩から背にかけての筋肉が短く鳴った。長年、整った板書で学生に言葉の手順を伝えてきた男の頷き。「呼ばれた名で応えるのは、たしかに人の番だ。合唱の中では名前は溶ける。呼びかけの中では名前は濃くなる」
紅葉はサワの指を解き、柊の肩に目をやった。彼の唇の色は昨日より赤い。睡眠は足りないが、呼吸は整っている。看護の目は、文字ではなく、順番を見る。順番が合っていれば、長い夜も持つ。「今日の昼、話し合いがある。そこで、導線の地図を“みんなの地図”にする。匿名に戻そう、という声が必ず出るから」
「戻さない」柊は言った。「戻せない、じゃなくて、戻さない。匿名は盾で、刃にもなる。今は刃だ。教師が昨日、言った通り」
◇
昼の会議は、初めから重かった。重いのは空気ではなく、言葉の順番だ。村長派の古老たちが口火を切った。「匿名投票に戻せ。誰も傷つかない。清浄だ。神の前で平らだ。君らは人を責める癖を村につけた。導線だの、名だの、詩だの……」
「“責任を持たない正しさ”は、口当たりがいい」片桐が机に両手を置いた。「けれど今、匿名は盾じゃない。刃だ。君らは、その刃の刃渡りを手で撫で回すのが上手い。刃物が好きなのと、台所が好きなのは別だ」
笑いが一瞬、拝殿の梁で跳ねた。跳ねて、すぐ落ち着いた。紅葉は写し板を拝殿の中央に運び、票欄を全面的に塗りつぶし、上から新しい枠を描いた。枠には「導線/昨夜」と朱で書き、その横に小さく絵記号の凡例を添えた。目=見た、耳=聞いた、波線=怖い、涙=悔しい、握り拳=怒り、刃=吊る、砂時計=保留、傘=守る。
「言葉と一緒に、道を残す」紅葉は言う。「投票と同時に、昨夜自分が歩いた道を点で記す。恥ではない。看護の記録と同じ。本人の呼吸を、本人が覚え直すための記録」
筆は、最初、止まった。止まるのは、悪ではない。止まった筆は、どこに行けばいいかを探す。探す先に一本の線が引かれるまで、誰かが先に、手を汚す必要がある。柊は迷わず、筆を取った。
「柊」彼は自分の名を枠の左に書き、点を打つ。「家→拝殿→サワの家→見張り台」——そして、その横に波線と涙の記号を二つ描く。波線は怖さ。涙は悔しさ。見張り台のところに小さく鈴の形も加えた。「鳴らなかった、鳴った」を、後で思い出せるように。「昨夜、鳴らなかった瞬間、ぼくの息も止まっていた」
子どもが真似をした。湊が拙い線で「家→拝殿→見張り台→家」を結び、鈴の絵を三つ描いた。「ぼく、なりそうになって、ならなかった。ならなかったとき、こわかった」波線。涙。傘——守る。
紅葉が続く。「紅葉。家→拝殿→サワの家→井戸→拝殿」——看護で歩き回った道を、炭で太くなぞる。砂時計——保留。握り拳——怒り。怒りは看護の敵ではない。怒りは看護の燃料だ。
かがりも続く。「かがり。拝殿→井戸→見張り台→拝殿」——古文と向き合う合間に見回った道。耳——聞いた。「鐘の鳴りの中に、誰の息もないこと」
片桐は短く書いた。「片桐。家→拝殿→家」「傘」「砂時計」。
やがて、導線の地図は一枚の絵になっていった。井戸の周りに花のように弧が重なり、拝殿から伸びる道が幾本も重なり、見張り台へ向かう線は、その手前でいくつか引き返していた。そこに、ひとつだけ空白——村長の導線が、ない。
「書けば責められるのでは?」誰かが言った。匿名の楽園の後遺症が、喉の奥に砂のように残っている。「責めない」柊は言う。「責める言葉を、ここでは使わない。責める代わりに、呼ぶ。名を呼ぶ。導線は名の座標だ。恥は道に残る。残るから、戻れる」
◇
夜、柊は「導線の罠」を張った。罠といっても、人を落とすものではない。道が「選ばれる瞬間」を見えるようにする仕掛けだ。村の道に薄粉を撒き、青糸の鈴を低く張り、井戸には音の出る桶板を斜めに立てた。桶板は、軽く踏めば乾いた木の声で「コン」と鳴る。強く踏めば「ゴン」と鳴る。息を止めて通れば、鳴らない。
見張り台の階段には、写し板の紙を一段ごとに貼り付けた。踏めば形が写る。紙は一晩で使い捨てるつもりだ。そこに残るのは銘ではなく、弧と角度と欠け。草鞋の歯の摩耗。踵の減り方。人の「歩き癖」——習慣の字。
さらに、供物盤の犬影の前に連結紐を置いた。昨夜、空っぽの音を吸い上げた紐は今日、影の音を拾う番だ。影に音はない。けれど、影にも「間」がある。間を拾い、足跡の内側に影が吸い込まれる瞬間を“一枚の図”にまとめる準備。紐は床に這わせるのではなく、ほんの少しだけ空気に持ち上げて張る。犬影が鼻先でそれをくぐる時、わずかな抵抗が影の輪郭を浮かび上がらせるように。
紅葉は青糸の結び目を拝殿の出入り口に重ね、鈴の舌に霜が付かない角度を探って微調整した。結び目は固くしない。固くしない結び目は、誰かが戻る時の指の記憶を助ける。「戻る道」を糸で指し示す。罠の中に「戻る」があるのが、看護の罠だ。
かがりは古文の余白をひとつ破り、短い詩にして拝殿の入口の柱に貼った。
——器よ器を見よ/形よ形を写せ/名は声にあり/足は道を覚える/戻る道は/糸のゆるみに在り
詩は道具ではない。道具は詩の位置を覚える。
◇
深夜。霧は薄く、冷たさだけが濃い。鈴が一度だけ鳴らず、次の瞬間に小さく鳴った。鳴らなかったのは息が止まったから。鳴ったのは息を継いだから。粉の上の歩幅が、大股から小股へ移る。村長の歩き癖だ。息を止める時だけ大股になり、すぐに無意識で小股に戻る。見張り台へ向かう道の角を曲がるとき、踵が少し外へ流れる——あの癖。
柊は拝殿の板の上で身を低くして、青糸の鈴の一音を手の甲で受けた。音は皮膚を叩かない。皮膚の内側に、爪の先だけ触れて消える。息がひとつ、板の隙間を滑り抜け、粉の上に「鳴らなさ」が刻まれる。井戸の桶板が「コン」と一度鳴り、すぐ「……」と息を止めた。鳴らなかった「……」が、紙よりも濃い墨になって、柊の耳の内側に書き込まれる。
犬影が動いた。連結紐に鼻先が触れ、影が紐の毛羽に座り直すようにわずかに揺れ、村長の足跡の内側に吸い込まれる。影は狼の意志ではない。習慣の居場所だ。居場所が導線に沿って“決められた”とき、影はそこに収まる。紐はその収まりの瞬間を吸い取り、写し板の余白に薄く滲ませた。
「今」柊は立ち上がり、見張り台の紙に映った足裏の形をはがして掲げた。草鞋の欠け——左の外側が三角に磨り減っている欠けと、右の親指のところに小指の分だけ浅い溝。村人の多くは、それを知っている。村長の歩き癖だ。彼が祭の準備で忙しくしていた年の頃からずっと、彼の草鞋はその形に減った。
拝殿の前に足音。村長が姿を現した。棒は肩に掛けられ、青糸の結び目が月の光を柔らかく吸っている。彼は柊の掲げる紙を見、笑った。笑いは薄く、音は乾いている。「秩序のためだ。狼がいた。だから私は秩序を整えた。匿名で平らにし、偽札で神の気まぐれを演出し、血の赤で外に礼を示した。村はこれで持った」
「秩序で人を守るなら、名前が増える」柊は首を振った。「あなたは名前を減らした。匿名は盾だ。けれど、あなたは刃にした。盾を持たない人の手から、名前を剥いだ。合唱の中に投げ入れた。……秩序を言うなら、呼びかけを増やすべきだった。名を呼ぶ回数を増やすべきだった」
静かなざわめきが場を巡る。ざわめきは音ではない。胸の内側に生まれる小さな風だ。風は青糸に触れず、鈴を鳴らさない。鳴らない風で、紙の角だけがわずかにめくれる。
かがりが紙片を一枚、村長に差し出した。「導線を、ここに。名は要りません。あなたの点だけ、あなたが置けば、地図は完成する」
村長は紙を受け取らない。棒の柄を握り直し、肩の筋肉をわずかに固くした。「完成などない。君らはいつまで地図に線を足し続ける気だ」
「明日の朝まで」紅葉が答える。「その次の夜まで。呼びかけが自然になるまで。猫足が踵を覚えるまで。……戻る道のゆるみが、指先で分かるまで」
村長の唇が一度だけ震えた。震えは怒りではない。習慣が抵抗するときに生じる、身体の小さな震えだ。
◇
その時、拝殿の奥——供物盤の縁に残る薄い穴が、わずかに縮んだ。音はなかった。雪解けの音よりも手前、湿りが乾きに触れるときの「間」の音が柊の耳の内側で鳴って、すぐに消えた。完全には塞がらない。縁が、まだ薄く残る。
かがりが判じもののように言う。「——最後はその者が歌う。つまり、村長自身の“同意”が要る。『同意はその者の声に限る』。代理は、ここでは効かない。合唱も、無効だ」
紅葉は一歩近づき、村長の棒の青糸を一本だけ解いて、結び直した。結び目は固くない。ほどくために結ぶ。「戻る道」——彼女は指先で示した。「ここ。あなたが棒を置く時のための道。罠ではない。看護です」
村長は目を伏せ、息を深く吐いた。吐く息は長く、背中で押し出され、肩で流され、胸の前で小さくほどけた。習慣が抵抗しているのが伝わる。棒の柄を握る指が、離れない。
サワが小さな声で村長の名を呼んだ。「——あなたの名前は、ここ」
紅葉と柊と、数人の子どもが、呼びかけを重ねない。ひとつの呼びかけの余白を守り、名の湿りを拝殿の空気に薄く混ぜる。合唱ではない。和音でもない。呼びかけの練習。
村長の喉が、その湿りに触れた。鳴りはしない。鳴らない鳴りが、喉の奥で短く揺れ、戻る。戻る道を、体が思い出しかけた、それだけ。
柊は、それ以上、言わなかった。言えば、刃になる。言わなければ、看護になる。看護は、離れる瞬間を待つ仕事だ。
◇
夜明け前、鈴は鳴らなかった。犬影が、消えた。盤の隅に座る薄灰の影は、ある日突然消える、というやり方を選ばないはずだ、と柊は思っていた。影には習慣がある。だから、ちゃんと「終わり方」を選ぶはずだ。今朝、その終わり方が訪れた。影はどこにも移らず、ただその場の濃度を薄くし、やがて板目の木の色に溶けた。
代わりに、供物盤の上に——薄い人影が現れた。人の形。猫背でもない。踵に重心を置き、母指球で押す、あの教科書どおりの歩きの途中で止まったみたいな佇まい。狼の居場所は、人の影になった。影は襲わない。襲わない代わりに、そこに居る人の「導線」を映す鏡になった。
かがりは、その影の縁を薄紙でなぞった。薄紙は何も拾わない。拾わないことで、板の上に残った濃度の差だけが際立つ。「習慣が、人の形に戻った」彼は小さく言い、巻物の余白に今朝の一行を書き加えた。
——導線を変えよ。名は、呼ばねば戻らず。
朱で小さく印を打つ。印は小さいが、目を惹く。印の小ささは、朝の冷たさと同じだけ確かだった。
村長はまだ棒を持っていた。持っていたが、肩には掛けていない。手で持った棒は、今朝は床に置かれた。置くという行為は、習慣の始まりになる。置いた棒に青糸の結び目が触れ、結び目は鳴らず、しかし湿りを受け取って丸くなった。
片桐は面の包みを持ち上げ、かがりに手渡した。「面は道具だ。道具は棚にしまえる。習慣は棚にしまえない。しまえないなら、書く。書いたものは、声で読み直す。読み直すのは、夜だ」
紅葉はサワの手首から青糸を外し、ひと結びを手の中でほどいて見せた。「ほどける。——結ぶ。——またほどける。結び目は見せる。見せた結び目は、笑ってほどける」
湊が鈴を鳴らした。短く、一度。「ぼくは、ここ」彼は自分の名をもう一度だけ言い、鈴の舌を霜から守る角度に直して胸の前に戻した。
柊は拝殿の戸を半ばだけ開け、冷たさを胸に入れ、内の温かさを背に残した。呼吸は合唱ではない。和音でもない。ひとりずつの胸の厚みで、ひとつ、ふたつ、みっつ——。
導線は罠ではない。罠は導線の別名ではない。導線は、戻るための地図だ。名は、その地図の等高線だ。
村は今夜も、呼びかけを練習する。呼び過ぎないように、呼ばなすぎないように。名の湿りを守りながら、最後の薄い縁が、音もなく溶けるのを待つ。
——最後に歌うのは、誰の声。
今朝は、まだ答えが出ていない。けれど、答えの場所は狭まった。盤の上の薄い人影が、それを示している。狼の導線は人の名前に重なり、名前は呼ばれて、戻る。戻る道は、青糸のゆるみに在る。結び直した結び目は、見せればいい。見せた結び目は、笑ってほどける。ほどけるその時、穴は——もう、音を立てないだろう。