第16話 観客の夜
霧の朝は、音を柔らかくする。見張り台の下に残された体温のない足跡は、そんな柔らかさの中でも異様にくっきりしていた。粉は凍らず、きれいにへこみ、溶けた跡がない。へこみの縁は糸で切った羊羹みたいに真っ直ぐで、雪の毛羽をつぶしていない。そこには「重さ」がなく、「意図」だけが沈んでいた。仮面の司祭が、自分の足で歩いた形跡——それは人の歩みと似て、決定的に違う。
宮司の孫は膝をつき、紙片で跡の縁をそっと掬い、何も付かない紙を光にかざしてから、古文の余白を指先でなぞった。「ここにある。“道具が道を選ぶ夜”。——観客が舞台を離れ、舞台が観客に寄る夜。舞台のほうから人の足元へ近づき、足元の“間”を奪う」
奪うのは、空間ではない。順番だ、と柊は思う。誰が先に息を吸い、誰が先に歩き、誰が先に名を呼ぶか——順番を奪われると、人は自分の声の高さを見失う。合唱に傾いた喉は、そのまま同じ高さを選び続ける。
今日やるべきことは、はっきりしている。仮面そのものを盤に連結し、“灰化”の術を無効化する。最後に残った合意の残滓——匿名の快楽を断つ。匿名の快楽は、恥を薄め、責任の輪郭を溶かし、名前の重さを軽くする。軽くなりすぎた名前は、空へ浮かぶ。浮かんだまま、呼ばれない。
「紐を磨き直す」柊は言った。連結紐。面と面を一時的に繋ぎ、時間のずれを一枚に焼き付ける道具。羊腸の芯に細く撚った麻を巻き、夜露で硬くなった部分を、灰の粉と油で丁寧にほぐす。指の腹で撫で、爪先で毛羽だけを削ぎ、糸の“音”を戻す。紐は鳴らない。鳴らないが、触れば音の前口を持っている。柊はその前口の位置を指に覚えさせ、試しに犬影の前で短く張った。盤の隅に座る薄灰の犬影は、目があるかどうかもわからない顔をわずかに上げ、紐の張りが空気を引っ張る方向を嗅いだ。嗅ぐ、という行為は、習慣だ。影にも習慣がある。
紅葉は青糸を膝の上で多重に結い始めていた。結節は固くない。いくつもの「半結び」を重ね、引けば締まるが、同じだけ緩める道が必ず残るように組む。円を描く結び目の配置には名前がある。看護の言葉では「戻り花」や「見返り」と呼ぶ。彼女はひとつひとつの結びの芯に短い詩を通した。詩は声にしない。声にする前の湿りを糸に渡す。濡れは、水ではない。意味の湿り。
──見た。
──怖い。
──守る。
結び目に触れるたび、彼女の指がその三行を思い出す。思い出す指は、縛るための力ではなく、ほどくための力を整える。
教師は自室から古い講義ノートを抱えてきた。紙は黄ばんでいる。表紙の角は丸く、背には手汗の塩の筋が薄く残っていた。開いた最初の頁に、走り書きがあった。
——言葉は手順。手順は外れて初めて見える。
「見えるのは、いつも内側から外を見た時だ」教師は低く笑い、紅葉にノートを渡した。「外側から覗き込んでいるつもりのとき、人はだいたい合唱を聞いているだけだ」
昼のあいだ、柊らは拝殿の床を整えた。板目の向きを活かして「逆匿名」の仕掛けを敷く。踏み入れた順に、足裏の形が写る紙。紙は薄いが破れない。表は煤でごく薄く燻し、裏には鯨の脂を塗って乾かした。踏むと、足裏の湿りや温もりではなく「形」だけが写る。形は匿名を剥がす。名前の代わりに形が立つ。形は習慣の鏡だ。似ている形が並ぶほど、合唱の気配が濃くなる。違う形がばらばらに立つほど、和音が厚くなる。
入口から盤までの動線に、その紙を蛇行させて敷き、間に青糸の結節で囲んだ円をいくつも置いた。無理に避けようとすると、結節の円に自然と誘導される。絞り込むのではない。選ばせる。選ばせたうえで、結び目に記憶させる。
「器よ器を見よ、形よ形を写せ」宮司の孫は古文の詩行を読み、円の中心に小さく朱で「器」と記した。「器は空であって、形を記すためにある。仮面は器。盤も器。器と器を向かい合わせ、間に“道”を置けば、道具は道に出る」
村長は家から出てこなかった。棒に結ばれた青糸は朝の湿りを吸って柔らかくなり、結び目は固くならずに、ただそこにいた。拝殿には人が集まる。サワは紅葉の腕に寄り添い、喉に指を当てて呼吸の順番を確かめる。見習い書記は鈴を胸元で一度だけ鳴らし、鳴りの高さを今日の湿度に合わせて舌を少しずらした。鳴らさないための準備。鳴らすときのための自分の高さ。どちらも、決めるのは本人だ。
◇
夜が落ちると、霧が濃くなった。山の観客席に、小さな灯が無数に灯る。誰が持っているのか分からない、同じ高さの灯。高さが同じである、という事実が既に一つの合意だった。集団の匿名。合唱の再来。灯は風に揺れるのではなく、息に揺れる。息は誰のものでもないように見えて、ひとつひとつが持ち主の喉の癖を纏っている。
鐘が鳴った。今朝のように勝手に、ではない。あからさまな手は見えないのに、綱の灰が波打ち、鐘の胴がわずかにうねり、音は集落の雪と屋根と胸の骨に沈んだ。沈んでから、戻る。それは合図だった。仮面の司祭が、霧の中から拝殿へまっすぐ歩いて来る。面は光を吸わず、光を返さず、霧だけを滑らせる。体温がない。意志だけが先に進む。
村長は、やはり出てこない。家の影は石のように固い。サワは喉を押さえ、目の奥の乾きを両手で囲う。紅葉が首を横に振る。「怖くない。呼吸の順番を守る。音は、まだ名前じゃない」
柊は拝殿の扉を大きく開けた。床には「逆匿名」が敷かれている。最初に踏み入れた足の形から、順に紙は影のように写し取り、誰もが避けることのできない自分の「形」と向き合わせる。匿名の群れは、形で露わになる。仮面は、紙を避ける。避ける。避けて、避けて、しかし青糸の結節で囲まれた円の中へ誘導される。選ばされているのに、選んだように見える——仮面が好きな演出を、こちらが先に用意した。
宮司の孫が一歩下がり、詩を読む。「器よ器を見よ、形よ形を写せ。名は声にあり、形は足にあり。夜は隙間にあり」
面が円に入った瞬間、柊は連結紐を投げた。ひとつは仮面の面へ。ひとつは供物盤の犬影へ。紐は灰の粒を吸いながら張り、影と仮面を一枚の図に重ねる。灰の粒は面の縁に集まり、犬影の鼻先で小さく舞った。犬影は音を立てない。でも、嗅いでいる。嗅いだ習慣ではない何かを、嗅いでいるときの影のわずかな「引き」を、柊の目は覚えていた。
霧の中から灯が近づく。観客が拝殿の外縁を囲む。灯の高さはそろっている。そろっているけれど、その手の汗の匂いはばらばらだ。ばらばらであってほしい。合唱に戻る前に、声を割りたい。
「歌え。名前を」柊は叫んだ。「合唱じゃない。呼びかけだ。——名前を」
◇
紅葉が最初に呼んだ。「サワ」短く。昨日、輪の中で続けたのと同じ高さで。呼びかけの音は一本でいい。何度も言わない。重ねない。呼んだ先に、呼ばれた声が居場所を持てるくらいの長さだけ、音を残す。
サワの喉が震えた。鳴る前の鳴り。鳴らない鳴り。喉の壁が遠吠えの前口を思い出し、思い出したまま、そこで止まる。止まることは、悪ではない。止まる場所に柵があるから、戻る道が残る。
子どもが続いた。見習い書記が鈴を短く鳴らし、鈴の音で自分の喉の高さを見つけ、それから声で呼んだ。「——かがり!」
宮司の孫が、わずかに目を見開いた。名を出すことを、彼はずっと避けてきた。役割のために。古文のために。名前の権威が合唱を呼ぶと知っていたから。けれど今夜、子どもの声が彼の名を呼び、彼は頷いた。頷きの角度は小さい。小さいが、はっきりしている。「……うん」
“かがり”。火を守る名。灯の時代にふさわしい名。名が呼ばれ、名が受け取られ、名が拝殿に居場所を得る。
教師が自らの名を噛みしめた。「片桐だ」低く、はっきりと。匿名の盾の内側にずっと隠していた、彼の喉の筋肉の音。彼の声は長くない。長くない代わりに、余白を与える。余白の上で、別の名が次々と立ちあがる。
名が続く。老人が名を言い、若い者が名を言い、子どもが名を言う。呼ぶ声、応える声、ふいに笑う声、涙の音。合唱にならない声が、ばらばらに、しかし途切れず続く。途切れないことが合意ではない。途切れないことが、夜の秩序だ。
匿名の灯が揺れる。揺れるのは風ではない。名の湿りだ。名は湿りを持つ。湿りは火を弱める。火は消えない。けれど、燃え方を変える。
仮面が灰手を伸ばした。写し板に触れようとする。灰の術は、意味を上書きして「書かれたもの」を“無かったこと”にする。けれど、青糸の結び目が鈍い音を立て、結び目に染み込んだ詩の湿りが熱を受け取って膨らみ、灰の粒が逆流した。逆流は風ではない。記憶の流れだ。
供物盤の犬影が仮面の足元を嗅いだ。嗅いで、身を引いた。習慣のない歩幅を嫌うように。影は習慣を選ぶ。選ばない道具は、影に嫌われる。嫌われると、道で迷う。
宮司の孫の声が高まった。古文の節を踏む声ではない。今、この場の言葉で、しかし古文と同じ骨格で。「——道具は、道に帰れ」
連結紐が面から音を吸い上げる。吸い上げられたのは、空っぽの音だった。面の内側に、人の喉の湿りはない。あるのは、観客席の合唱のための空洞。空洞の形は、名を呼ばない声に馴染むように作られている。そこに「名」が放り込まれると、空洞はうまく共鳴できず、ひびが入る。
仮面の面に、ひび。灰化は起きない。灰の粒は面の縁に集まり、散り、集まり、やがて連結紐の上で小さな帯になって震えた。紐はその震えを犬影へ送り、犬影は鼻先でそれを押し返す。押し返すのに、音は要らない。要るのは、習慣の方向だ。押し返された震えは、面から抜け、拝殿の外へ薄く流れる。
外の灯が、一つ、また一つ消える。誰の手が消したのでもない。名を呼ばれ、名を言った手は、灯を持つ理由を一度だけ見失う。合唱ではない呼びかけに参加した喉は、灯の高さを揃える必要を感じない。灯は低くなる。低くなった灯は、風に影響されにくい。
仮面は、写し板に再び手を伸ばした。灰手は詩の湿りに阻まれ、面は鈴の可聴域のすぐ下の高さで一度だけ鳴った。鳴りは人に聞こえない。けれど、鈴に聞こえる。見習い書記の胸の鈴が、短く返事をした。
「ぼくは、ここ」——鈴を鳴らしてから、彼は自分の名を呼んだ。「ぼくは、湊だ」
霧がわずかにほどけ、山の観客席に残った灯は一つだけになった。誰が持っているのか、もう分かる。湊の呼び声は高くない。高くないぶん、遠くまで届く。匿名の快楽は、名乗る一灯に負ける。負けるとき、音はしない。ただ、胸の奥で、ずっと立っていた薄い壁が、雪解けの音に似た許しの音を立てて、沈む。
仮面は足跡を残さずに倒れた。倒れたのに、床は鳴らない。体重がない。面だけが床に残る。残した面は軽い。軽いのに、持ち上げるのに手が重い。重いのは、そこに貼り付いている意味のせいだ。意味は重く、意味は熱く、意味は乾くと脆い。
柊は面を持ち上げる手を一度だけ止め、紅葉と目を合わせ、宮司の孫のうなずきを待ってから、ひっくり返した。
面の裏に、古い刻印があった。刃で刻んだのではない。焼き印だ。押された時間は、とても昔。けれど、言葉は今生まれたように鋭い。
——人は札を変えられても、習慣は変えにくい。
盤の底に刻まれていたのと同じ文。誰がどの時代で刻んだのかはわからない。けれど、この村の現実に、ぴったり重なる。
宮司の孫が囁いた。「最後は、人の番」
仮面の道具も盤の仕掛けも、合唱の観客も、今夜で一度、舞台から降りる。残るのは、人の足と、人の喉と、人の習慣。仮面の足跡は、もう残らない。残るのは、人の足跡。足は、猫足にも、踵の深い足にも、戻る道を選べる。
◇
霧が薄くなり、拝殿の外縁に集っていた灯が散っていく。散るというより、置き場所を見つけ直す。灯は、子どもが親指と人差し指の間に挟む高さまで下がり、低い位置で静かに息をする。紅葉は円の結び目をひとつずつ解き、糸の湿りを布で吸い取り、結び目の芯に入れていた短い詩を口の中だけで再読した。
──見た。
──怖い。
──守る。
詩は声にならないまま、糸の繊維と指の温度のあいだでほどけ、ほどけた湿りは、拝殿の空気に薄く混ざる。
「面は、どうする」教師——片桐が問うた。彼の声は、今日いちにちでいちばん乾いていた。乾きは冷たさではない。火を扱うときに必要な乾き。燃えやすいものと燃えにくいものを、明確に区別するための乾き。
「写す」宮司の孫——かがりが答えた。「裏の刻印を、羊皮紙に写す。盤の底の文と向き合わせる。二つの『器の背中』を合わせると、道が見える」
彼は面を青糸の上に置き、軽く押して紙に擦った。擦る位置、擦る力、擦る順番。それは、教師のノートが言っていた。「手順は外れて初めて見える」。手順から外れないように、わざと少し外す。少し外して、見える。柊はその手を見て、連結紐の毛羽を指で梳いた。紐は今夜、空っぽの音を吸い上げた。空っぽを吸い上げるのは、苦しい。苦しいが、必要だ。空っぽの輪郭がなければ、名を呼ぶ声がどれだけ重いかが、わからない。
村長は、やっと拝殿に現れた。棒は肩に掛けたまま。青糸の結び目は夜露を吸って、見えないくらいに柔らかくなっている。彼の顔は疲れていた。整った言葉を並べる前の顔は、こんなふうに小さかったのだ、と柊は思った。小さいのは悪ではない。小さい顔には、小さい深呼吸が似合う。「……終わったのか」と村長。
「ひとつ、終わった」と柊。「盤の穴はもう開かない。仮面は、ここで倒れた。けれど——」
紅葉が続けた。「けれど、習慣は残る。残っているあいだ、私たちは呼びかけを続ける。名前を、呼ぶ。短く。和音にならない高さで。毎晩」
村長は棒を手から外し、床に置いた。置いた棒は鳴らない。木は鳴らないのに、拝殿は短く呼吸をした。棒の先に残っていた灰は、今夜すでに別の灰に混じって、匂いを失っている。匂いを失った灰は、もはや記号だ。記号は、意味に従う。意味は、人のほうに戻った。
サワは紅葉の手を離れ、自分の足で一歩、二歩と歩いた。猫足ではない。踵を使い、母指球で押す。歩みの重さは軽いが、息の順番は合っている。彼女は手首の青糸の結び目を指で撫で、「ありがとう」と言った。そのありがとうは、名を呼ばれたことへの礼であり、名を受け取った自分の喉への礼でもあった。
見習い書記——湊は鈴を握り直した。「ぼく、たぶん、明日も鳴らす。鳴らさないかもしれない。でも、鳴らすのは、ぼくが決める」
「うん」柊は頷いた。「鳴らさないのも、君の声だ」
拝殿の灯を落とし、面を布で包み、羊皮紙の写しを巻物の余白に重ねる。青糸は四方から外し、鈴は今夜は眠る。眠る準備は、呼吸の準備だ。呼吸の準備は、呼びかけの準備だ。
外の霧は、薄く残っている。山の観客席には、灯が一つだけ吊られていた。誰のものでもない高さ、誰のものでもある湿り。灯は、風でなく、人の胸の上で揺れる。揺れは小さい。小さい揺れは、遠くまで続く。
柊は拝殿の戸を半ばだけ開けて、冷たさを胸に入れた。冷たさは痛みではない。輪郭だ。輪郭が分かれば、縫える。縫えれば、ほどける。ほどければ、また結べる。結び直した結び目は、見せる。見せた結び目は、笑ってほどける。
——今夜、観客は舞台に下り、舞台は観客に上がった。匿名の快楽は、名乗る一灯に負けた。仮面は、空っぽのまま倒れた。面の背に刻まれた言葉は、盤の底の文と同じく、最後の問いを村に戻す。
宮司の孫——かがりが、面の裏をもう一度指でなぞり、小さく囁いた。「最後は、人の番」
呼吸の数え方は、合唱ではない。和音でもない。ひとりひとりの胸の厚みで、ひとつ、ふたつ、みっつ——。鈴は鳴らず、犬影は座り、雪は音を吸い、朝はいつもより少しだけ遅れて来る。遅れてくる朝の前口で、村は自分の名前を、もう一度だけ、練習する。