表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/20

第15話 習慣という罠

 盤の隅に座る薄灰の犬影は、人を襲わなかった。襲わない代わりに、拝殿の板間の端に腰を落ち着け、同じ導線を静かに往復した。井戸へ、拝殿へ、村長の家へ、そして見張り台へ。歩くというより、浮いた足取りのまま、影だけが敷居を跨いでいく。音はない。けれど、視線を少し下げれば、粉の帯に刻まれた微かな擦過だけが、影の歩幅を測らせてくれた。


 宮司の孫は、羊皮紙に村の簡易図を引き、犬影の通り道に細い線を重ねた。井戸から拝殿へはゆるやかな弧、拝殿から村長の家へは短い直線、そこから見張り台へは少しだけ膝をためるような鋭角の折れ。線は、見慣れた風景の中に見慣れない癖を描いた。彼は筆先を上げ、短く言った。「習慣だ。影は、人が何度も反射的に選んだ道を好む」


 反射的に、という言葉は、村人の背筋に広がりやすい。彼らはこの冬ずっと、反射に助けられ、反射に傷つけられてきた。匿名で投じる手首の反射、整った言葉を口にする舌の反射、仮面の礼に膝を折る集団の反射。柊は細く息を吐いた。犬影は人を噛まない。だからこそ、噛む場所が人の側にある。


 「村長の夜の導線を可視化しよう」柊は言った。「大きな足跡の主を、習慣から引き出す」


 大きな足跡は、踵が深く沈んでいた。人の踵だ。人が荒地で足を守るために自然に身につける、踵から入って膝で受ける歩幅。粉の帯に残された息の止め方と、その足幅は、拝殿を周回した狼の歩と一致していた。一貫して「秩序」を叫び、匿名投票の清浄を守ってきた男の導線が、狼の導線とぴたりと重なる——その確度が、夜ごと上がっている。


 紅葉は井戸の石縁に腰を下ろし、石の呼吸を読んだ。「井戸から拝殿へ、拝殿から村長の家へ……夜中、息を止めた長さがそれぞれ違う。井戸では短い。拝殿の前では長い。村長の家では一瞬止まり、そして走る」


 「見張り台の前は?」柊。


 「止まらない。止まらないまま、鐘の綱の足元をかすめて、折り返す。習慣の折り返し。誰にも見られない場所で、いちどだけ足を揃える」


 宮司の孫は図の端に小さく「折り返し」と書き、朱で丸を付けた。丸は小さい。けれど、丸は地図の上で目を惹く。目を惹く丸の小ささは、罪の大きさと比例しない。比例しない、ということを村人が忘れて久しいだけだ。


     ◇


 昼の話し合いが始まると、村長は先に卓を叩いた。手の甲の血管が浮き、棒は今朝から彼の掌を離れない。「影を人に結びつけるのは暴力だ。匿名を守れ。清浄を守れ。君らの線引きは、神の領域に踏み込んでいる」


 その語り口の整いは、村を何度も安心させてきた。安心は、必要だ。けれど、安心は時に麻酔に似る。刺すべき痛みを遅らせ、気づくべき熱をやわらげる。数人の目が、再び合唱に傾きかける。合唱に傾く目は、黒目が広がる。広がった黒目は、鏡に見える。鏡は便利だ。自分の顔の輪郭を忘れずに済む。忘れたくなるほど疲れているときは、なおさら。


 教師がようやく姿を現した。背は低く、声も低い。けれど、その低さは握り拳の内側の温度の低さに似て、余計な水蒸気を掻き消す。「匿名は盾だが、時に仮面だ」教師は言った。「盾の影に隠れて、顔を失う。仮面を前に出して、顔を磨く」


 妻——サワは紅葉に支えられて席を立ち、勝手に揺れる膝を手で押さえた。「……私は、食べていない」その短い言葉に、遠吠えの前口の乾きはもうなかった。喉の奥の小さな鳴りは、昼の空気に馴染む音に変わっていた。


 村長は眉をしかめ、棒の握りを変えた。「食べていない、か。ならば、お前の夜の影は何だ。人の恥か。獣の意志か」


 紅葉が一歩出た。「混じりは分けた。影は習慣に寄りつく。恥は人の線に残り、意志は獣の声に戻った。今、議題にしているのは“人の線”です。——村長、あなたの線を、見せてください」


 ざわめき。ざわめきは音ではなく、肺の内側の動揺だ。柊は写し板を拝殿の中央に運び、青糸の四隅で留めた。羊皮紙には昨夜の票が並び、その下段に空白が広がっている。空白は沈黙ではない。空白は、図の余白だ。


 「票を“導線”に変換する」柊は提案した。「投票と同時に、昨夜自分が歩いた道を、ここに点で記してほしい。家から井戸、井戸から拝殿、拝殿から家、あるいは見張り台へ。点は習慣の地図になる。名前はいらない。点の位置と順番だけ」


 渋い顔。字が苦手だ、といつもの言い訳。指が凍えている、と別の言い訳。柊は追い立てない。追い立てない代わりに、先に遊ぶ。子どもたちが、炭切れで羊皮紙の余白に点を打ち、点と点を結ぶ。井戸から家へ弧を描く線。家から拝殿へ直線。家の裏庭をぐるりと回って便所へ、それから寝台へ——遊びで描かれた線の無邪気さに、数人の筆が進み、やがて大人の手も点を落とし始めた。


 「……やりすぎじゃないか」「見張られているみたいだ」不満は出る。出ればいい。不満は、習慣の別名でもある。書きつけの習慣に置き換わるまで、不満は働く。紅葉は、点を打つ手の背を軽く押し、押すことで手首の位置を変え、手首の位置が変われば、直線が曲線になった。曲線は息に合う。息に合う線は、嘘を嫌う。


 点と点が結ばれ、線の癖が姿を現した。井戸から家へ弧を描く線。家から拝殿へ、寒い夜でもまっすぐな直線。見張り台へ向かう折れ曲がり。粉の上に記録された歩幅と、羊皮紙の上に描かれた線が、ところどころで重なった。だが——一つだけ、あまりにも精密に重なった線があった。


 村長の線。本人は名乗らない。名乗らないが、線は嘘をつかない。粉の上の歩幅と、羊皮紙の点と結び、夜の息の止み、足の折り返し。その全部が、昨夜の大きな足の癖と、完全一致。見張り台の前で止まらない癖も、鐘の綱の前で足を揃える癖も、粉の上と紙の上で重なった。


 「一致です」宮司の孫は同じ太さの声で告げた。「粉の歩幅、鈴の鳴らない“間”、羊皮紙の導線。三つの写しで、同じ形が出ました」


 村長の手の中の棒が、わずかに軋んだ。彼は笑った。笑いは乾いている。乾いた笑いは、板に吸われない。「秩序のためだ」彼は言った。「村の秩序のために、私は動いた。外の観客に“整った村”を見せるために」


 整った村。仮面が欲しがる舞台。村長の舌が、それを甘く響かせる。「匿名投票は責任のない秩序を作る。責任のない秩序は、平らだ。いいことだ。偽札は、神の気まぐれを演出する。気まぐれは、恐れを小さい器に収める。血の赤は……」村長はほんの一拍言葉を噛み、涼しい顔で続けた。「同意の代理で塗った。誰も怪我をしない。礼は成る」


 紅葉が棒に近づき、穂先で灰を指で摘んだ。摘む指は、看護の指だ。彼女は灰を鼻先に近づけ、匂いを選り分ける。「松脂じゃない」彼女は低く言った。「藁紙の焦げ。偽札を焼いた匂い。……あなた、盤の前で“神”を演出した」


 書記の子が目を丸くし、村の何人かが眉をひそめ、教師が沈思の声で「仮面は道具、そして道具は人に使われる」と呟いた。柊は一歩も退かない。「あなたの秩序は、誰の呼吸も守らなかった」彼は言った。「守るべき呼吸は、合唱ではない。各々の胸の厚みで、各々の長さを選ぶ呼吸だ。あなたの棒は、床を傷つけずに済んだけれど、呼吸を傷つけた」


 村長は肩をすくめた。「呼吸は個人に属する。秩序は全体に属する。何を優先すべきか、明らかだ」


 「“同意はその者の声に限る”」宮司の孫が古文を読み上げる。注の小さな文字が、ここでやっと顔を上げる。「代理は原則、禁。——それを、あなたは知っていた。知っていて、演出を選んだ」


 彼の言葉の終わりに、盤の隅に座っていた犬影が、静かに立った。音はない。けれど、板の毛羽立ちが一瞬だけ逆立った。影はまっすぐ村長の足元へ歩き、彼の歩幅の内側にぴたりと重なった。重なる、というのは、侵すことではない。選ぶことだ。宮司の孫が囁いた。「影は習慣を選ぶ」


 紅葉は青糸を持ち、村長の棒に結んだ。結びは固くない。鈍い抵抗を残す、看護の結び。「戻る道も付ける」紅葉は丁寧に言った。「あなたが、自分で棒を下ろす時のための道です。……縛るのは、棒じゃない。あなたの“導線”の、折り返しの位置」


 村長の鼻先がわずかに膨らみ、笑いが減衰した。彼は棒を持ったまま肩に掛け直し、棒が肩の皮膚へわずかな重みを返すのを確かめる。その重みは、人の温度を持ち、灰の匂いは、人ではない焦げの匂いを纏う。二つの匂いが混じるところで、青糸は目立たない結び目を作り、結び目の向こうに薄い道が延びた。


     ◇


 その夜、柊の枕元に護衛札が来た。紙は薄く、墨は深い。選ぶことは、昨夜より軽かった。彼は迷わず、サワを守ることを選んだ。選ぶ、と言っても、立つ場所を選ぶだけだ。扉の脇、寝台の足元、喉を守る指の置き位置——看護の習慣に儀の習慣が重なり、重なりは厚みにならず、むしろ薄い膜になって室内の空気に張った。夜の間、サワは一度だけ喉を鳴らし、鳴りはすぐにおさまり、呼吸は彼女自身の筋肉の順序で続いた。


 村長の家の窓は暗かった。動きがない。棒の青糸は、夜の湿りを吸って柔らかくなり、結び目は固くならない。固くならない結び目は、見えない。見えないけれど、触れればある。触れれば、戻る道を指先に覚えさせる。彼が今夜“折り返し”を選べば、糸は鈴を鳴らさずに済む。鳴れば、村のどこかがまた息を合わせる。合唱の夜は、当分いらない。


 山の観客席は、今夜、灯を置かなかった。霧の帯は薄く、星は硬い。仮面の司祭は、秩序の仮面を剥がされ、沈黙している。沈黙は、敗北ではない。出番を待つ袖の冷気だ。舞台は、いったん閉じた穴の上に薄い布を張り、布の下で木は呼吸を続ける。


 見習い書記の鈴は鳴らなかった。胸の前で、彼は紐を撫で、鈴の舌をわずかにずらして霜を避けた。「鳴らすのは、ぼくが決める」子どもの声は小さいが、順序を覚える声だった。


 拝殿では、犬影が盤の隅にもどり、座った。「座る」という動詞が影にふさわしいかどうかは、もう誰も気にしない。影は居る。居ることが、今夜は役割だ。居る影に、柊は短く会釈した。影は返事をしない。返事をしないことが、影の礼儀だ。


     ◇


 明け方、見張り台の鐘が鳴った。鐘の音は、集落の雪と屋根と胸の骨に同じ深さで沈み、沈んだ波紋が短く戻った。誰も引いていない。鈴は鳴らなかったのに、鐘は鳴った。柊は外套を羽織り、柊より先に扉を開けた紅葉と目を合わせ、宮司の孫とともに見張り台へ走った。


 鐘の綱には、灰がついていた。灰は冷たい。冷たい灰は、指の腹に移るときにも温度を持たない。松脂の香りはしない。藁紙の焦げの匂いもしない。匂いのない灰。——仮面の匂いだ。体温のない匂い。仮面そのものの歩み。


 塔の足元に、三つ目の足跡があった。粉でも灰でもなく、雪の上に、温度の欠けとして残された輪郭。踏まれていないのに、踏まれた跡。体温のない靴の裏——仮面の足。爪先は正面、踵は浅い。深さは、重さでなく、意図で決まる。意図は、重さより重い。


 宮司の孫は膝をつき、跡の縁を紙片でそっと掬った。掬った紙は、何も拾わない。拾わないことが、拾い物だ。紅葉は綱の灰を指で拭い、鼻に近づけ、匂いのなさの層を数えた。匂いがないにも種類がある。人の不在の匂い、獣の不在の匂い、道具の不在の匂い——今ここにあるのは、道具の不在の匂いだ。


 鐘楼の影が、朝の斜光で短く伸び、村の地図の上に新しい線を一瞬だけ書いた。犬影は盤の隅で顔を上げた。顔があるかどうかはどうでもいい。その上げ方は、匂いのない風を嗅ぐ仕草に似ていた。鈴は、まだ鳴らない。鳴らない間に、人の呼吸は整い、唇の間に短い詩の湿りが湧く。


 柊は鐘の綱に手を添え、灰のざらつきを指先に覚えさせた。「仮面は戻った」彼は低く言った。「秩序の仮面が剥がれたから、次は——」


 紅葉が続けた。「——習慣の仮面を狙う。『整った村』という演目が崩れたから、今度は『繰り返す村』を餌にする」


 宮司の孫は巻物を開き、古文の余白に今朝の一行を書き付けた。

 鐘は、人の手がなくても鳴る。鳴ったとき、歌は短く、名は呼ばれ、糸は結ばれ、指は守る。

 その下に、朱で小さく印を打つ。印は小さい。けれど、印は目を惹く。目を惹く印の小ささは、朝の冷たさと同じだけ確かだ。


 見張り台の梯子の下、体温のない足跡は、村の中心に向かって薄く消えていった。消える軌跡は、誰かが消したものではない。もともとそこに温度がなかっただけだ。温度がない歩みは、記録に残りにくい。残らない記録の上で、合唱は起きない。合唱が起きないなら、和音を用意する。和音の最初の音は、今朝、鐘が勝手に出した。次の音を、誰が出すか。


 柊は拝殿の方角に目をやり、紅葉はサワの家へ視線を走らせ、宮司の孫は羊皮紙の空白を確かめた。空白は沈黙ではない。これから書かれる一行のための席だ。犬影は盤の隅で座ったまま、村長の家の方角だけを二度、ゆっくり見た。青糸は、村長の棒の結び目で静かに濡れ、濡れているのに燃えない。


 鐘は、もう鳴らない。鈴は、まだ鳴らない。足跡は三つ。人の足、猫足、仮面の足。混じりは分けた。習慣は残った。仮面は、体温のない習慣を拾いに来た。ならば、こちらは体温のある習慣を増やす。呼びかけと、看護と、歌と、糸と——「戻る道」。


 明けたばかりの空に、薄い雲がほどけた。ほどけた雲は、すぐにまた結ばれる。結ばれて、ほどけて、朝の光は村の屋根を渡る。柊は掌でその光を一度受け、額に当て、短く頷いた。

 ——次は、仮面そのものと、習慣そのもの。

 その戦いの前口として、鐘はたったいま、勝手に鳴ったのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ