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第14話 混じりを分ける儀

 朝と昼の間。拝殿の板間は、湯気を吸い込んだ湯呑みのように、内側の湿りをそっと抱えていた。昨夜閉じた穴の気配はもう音を立てず、しかし指を当てれば、木目の内奥に少しだけ冷たい輪が残っているのが分かる。そこに、今日のための円が描かれた。白い粉で、薄く、しかし輪郭は迷わない線で。


 円には四つの「隅」があった。隅というには丸い、席というには硬い、小さな台。宮司の孫が指で一つずつ示す。「ここが『人の歌』。ここが『獣の声』。ここが『守る指』。ここが『縛る糸』。——人の歌は“名前を呼ぶ歌”。獣の声は“喉の鳴り”。守る指は“護衛札の指型”。縛る糸は“青糸”。今日やるのは、古文に残る『混じりを分ける儀』。狼の意志と人の恥、その二つの絡まり目を、いったんほどく」


 紅葉は頷き、腰の青糸を手に巻いた。巻きは固くない。引けば締まる、緩めたければ呼吸がいる、あの結び。柊は指を拝殿の板に一度置き、節の位置と皺の深さで、自分の指の「いま」を確かめた。それから、円の「守る指」の隅に指先を乗せる。


 円の中央には、教師の妻が立っていた。膝が震えている。震えは悪くはない、という言葉を、紅葉は昨夜幾度も伝えた。震えは、生きている証拠だ。震えない手は、紙を殺す。震える足は、地面を感じる。


 村長は拝殿の柱に寄り、棒を手放さない。棒は今朝、雪の上ではなく、屋内の乾いた空気に晒されている。乾くと、手のひらとの摩擦が増す。増した摩擦は、握る者に「握っている」という錯覚を与える。——その錯覚が今日、どこへ向かうのか。柊は、棒を見ずに、息だけを見ることにした。


 拝殿の外、山の肩の観客席は霧にくぐもり、灯は遠い。仮面の司祭の気配は、昨夜より薄い。薄いから油断していいわけではない。薄いから、声が届きやすい。届きやすさは、刃にもなる。紅葉は袖をまくり、手の消毒をしてから、糸の端を指に心細く絡めて、サワ——こののち名前が与えられる女——の手首を見た。


 宮司の孫が小さく息を整え、巻物の端を押さえた。「始めます。順は、古文の記すとおり——『人の歌』『獣の声』『守る指』『縛る糸』。歌は短く。声は止めず。指は押さえすぎず。糸は固く結ばず」


     ◇


 第一段。人の歌。


 柊は円に一歩近づき、息の長さを短く切りそろえるみたいに、声の高低を整えた。「——あなたの名前を、聞かせてほしい」


 名前。匿名の長い季節を潜ってきた舌には、重い粒だ。重さは喉を通るときに一度だけ痛みになる。痛みは、輪郭を教える。輪郭が分かれば、縫える。縫えれば、ほどける。——けれど、最初の痛みは、やはり痛い。


 教師の妻は、唇を結んだ。結び目が小刻みに震える。指は、互いの甲を押し合って形を保っている。紅葉はその手の上から手を置きたい衝動に指を硬くした。置かないと決めたから、置かない。守る指の位置は、ここではない。


 教室の窓の外から漏れる子どもの囁き声みたいな細さで、妻は言った。「……サワ」


 「サワ」柊は繰り返す。名前の歌は、繰り返しから始まる。二度、三度。呼ぶごとに高さを変えない。変えない代わりに、息の長さを少しだけずつ伸ばす。伸ばされた息は、喉の奥で鈴と触れ合う。鈴の舌は鳴らない。けれど、音の前口は、そこに置かれる。


 紅葉が続ける。「サワ」


 宮司の孫は声を出さない。歌い手の数を増やすのではなく、聞き手の耳を増やすために、彼は眼の奥の筋を一本だけ緩めた。聞くという行は、筋肉の順番を変える。喉ではなく、背中で音を受ける。


 子どもたちが、真似をした。「サワ」——ひらがなが紙の上に立ち上がるような呼びかけ。匿名の票に熟れた舌が、固有名の重さを覚え直す。重いものを持ち上げると、背中の筋は勝手に正しく使われる。背中が正しく使われれば、喉は傷まない。合唱にならない。呼びかけが重なるだけ。


 けれど、村の何人かは目を逸らした。見る先を探し当てられない目は、黒目が水のように泳ぐ。名前の歌は、その数拍だけ途切れそうになった。


 宮司の孫が低く言う。「歌は続ける。短く、しかし、続ける。『同意はその者の声に限る』。名乗った声を、名で迎える」


 柊は頷き、同じ高さで、もう一度。「サワ」


 円の粉が、わずかに揺れた。揺れは風ではなく、喉を通った名前の湿りだった。


     ◇


 第二段。獣の声。


 紅葉がサワの手を握る。握り方は強くない。手のひらではなく、指の腹で、皮膚の上に薄く存在する。彼女は耳ではなく喉に口を寄せ、息だけで囁く。「怖くない」


 サワの喉が、小さく鳴った。昨日よりも浅い鳴り。遠吠えの前の前奏。その前口が、今夜は短い。短いということは、迷っていないということだ。迷いは、看護では悪ではない。けれど、儀では迷いの位置を決める必要がある。位置が決まれば、声はそこを避ける道を覚える。


 盤の縁が、微かに膨らむ。膨らみは目に見えない。指で感じる。薄い皮膚の下に流れる血の通り道が、不意に広くなるときの、あの内側の温度の変化。柊の指先はそれを聞いた。聞く指は、押さえない。押さない指が、守る指になる。


     ◇


 第三段。守る指。


 柊の指先には、昨夜の護衛札の淡い跡が残っていた。紙の繊維が触れ戻るときに残す乾いた痕。それは今日、儀の指に力を与えるわけではない。けれど、思い出させる。「選ばない夜」を。


 選べない夜が、あった。守る相手を、選べなかった。票は、声になり始めていたのに。選ばない指で、守れるのか? 柊は問いを、指の腹に集めて、円の「守る指」の隅に押し当てた。


 板は沈黙した。沈黙は、負けではない。返事の前口だ。紅葉が視線だけで「そこ」と言い、宮司の孫が巻物の端を少し押し下げ、粉の円が微かに厚みを変える。守る、と決めるのではない。守る位置を、覚えさせる。


     ◇


 第四段。縛る糸。


 紅葉が青糸を持ち上げ、サワの手首にそっと回した。もう片方の端を、円の角——供物盤の白木の角に軽く結ぶ。強く縛らない。戻る道を残す結び。看護の結びは、ほどける前提で結ぶ。ほどけない結びは、誓いではなく、拘束だ。


 宮司の孫が詩のように読み上げる。古文の言い回しは短く、しかし柔らかい。「人の歌よ、獣の声を抱け。守る指よ、縛る糸をほどけ」


 ほどけ——ほどけるために結ぶ。結ぶために、まず歌う。歌うために、まず名前を呼ぶ。


 柊はひとつ息を吸い、吐きながら短く重ねる。「サワ」


 紅葉も重ねる。「サワ」


 子どもたちが、呼ぶ。「サワ」


 合唱ではない。呼びかけの重なり。高さは揃えない。息の長さを似せて、呼ぶ。呼ばれた名前の湿りが、円の粉の中に薄く降る。


     ◇


 その時だった。サワが息を吐いた。吐く息は短い。短さの中に、昨夜よりも深い温度がある。喉の鳴りが一音だけ高くなり、盤の中央から、薄い毛のような影が立ち上がった。


 それは黒ではない。灰でもない。白の中に残された影。犬の毛を一本、光の端で見たときの、あの細さ。影は糸をよけた。糸は縛るためにではなく、思い出すためにある。思い出す結び目の上を、影は触れずに過ぎる。過ぎながら、柊の指の皺を数えた。数える、というのは、そこに「間」を置くことだ。影は「間」を二つ、三つ、置いてから、盤の縁へと移った。


 宮司の孫が叫ぶ。「今! 歌!!」


 柊は声を張った。「——サワ!」


 紅葉が続けた。「サワ!」


 子どもたちが、真似をした。「サワ!」


 匿名の票に慣れた舌が、固有名の重さに震えながら、しかし確かに呼ぶ。呼びかけが重なる。合唱にならない。重なった声の隙間に、影の細い線がほどけ、ほどける音はしないが、空気は軽くなる。


 盤の穴が、閉じかける。音はしない。雪解けの音のさらに手前、氷の分子がほどける時の、耳ではない部分で聞こえる音。拝殿の柱は呼吸を合わせ、青糸は鳴らないが、輝きが一瞬だけ高くなる。


 サワの膝から力が抜けた。倒れ込みそうになるのを、紅葉が前で抱き留める。抱く腕は強くない。強くないのに、落ちない。落ちないのは、抱く側が落とさないからではない。抱かれる側が、抱かれ方を思い出したからだ。


 影は、消えなかった。盤の隅に薄灰の犬影として残った。犬影は動かない。ただ、そこに居る。居ることは、悪ではない。居ることは、習慣だ。宮司の孫は息を吐いた。「混じりは分かち、影は残る。影は習慣に寄りつく」


 習慣。夜に喉が鳴る。月に舌が乾く。扉の前で息を止める。踵を使わず母指球で押す。棒を握る手が、棒を手放さない。匿名に舌が慣れる。名前を呼ぶのを避ける。——その全部が、影の温床だ。


 柊は犬影を見た。見つめ続けるのではなく、視線を一度外して、戻す。戻した視線は、さっきと同じ角度ではない。角度を変えると、影は同じ場所に居続けることをやめる。少しだけ、居場所を縮める。


     ◇


 儀は、完全ではない。——それが、いいのだと紅葉は思った。完全な儀は、習慣を忘れさせる。看護は、忘れさせないためにある。指は柵を立て、糸は結び目を見せ、歌は名前を呼び、声は喉の奥で鳴り、そして、誰かが倒れたら抱き留める。そういう順番を、身体で覚え直すために、儀はある。


 村長が棒を床に突き立てた。音は乾いた。板は鳴らず、棒だけが鳴った。「影が残った。まだ吊れる」


 柊はその棒の先に、うっすらと灰が付着しているのを見逃さなかった。灰は粉ほど軽くない。粉は粉末の団欒で、灰は燃え終わった名残だ。名残は、習慣の別名だ。——大きな足跡の主。昨夜、粉の帯に踵の深い跡を残した主。棒は拝殿の外を歩き、灰の帯に触れた。触れた棒の先には、灰が残る。残る灰は、言葉の上にも残る。


 「村長」柊は視線だけで棒を示した。「灰がついています」


 村長は棒の先を見、顔の影をほんのわずか動かした。怒りでも否認でもない、認識の影だ。影は薄いが、薄い影ほど長く残る。彼の指は棒から離れない。それでも握りは強くなかった。握りが強くない棒は、床を傷つけない。床を傷つけない棒は、言葉を傷つけない。


 そのとき、写し板の鈴が低く一度だけ鳴った。鳴りは短く、しかし重く、板の四隅に張られた青糸が、音の影を薄く受け取る。誰かが息を止め、通ろうとした。けれど止めきれず、鈴は鳴った。鳴った音は、誰かの名前を指さない。指さない代わりに、円の内側に人を集める。


 宮司の孫が巻物を閉じた。「今日はここまで。古文も言う。『歌は短く、重ねるべからず』『声は止めず、押さえず』『糸は切らず、固く結ばず』。混じりを分ける儀は、一晩で終わるものではない。影は習慣に寄りつく。習慣を変えるのは、歌ではなく、歌の“続け方”だ」


 紅葉はサワの手首の結びを確かめ、結び目を外さずに、糸の“遊び”だけを少し増やした。「これで、夜に喉が鳴っても、糸があなたの手首に『ここまで』を思い出させる」


 サワは頷いた。頷きの深さは浅いが、浅い頷きは、すぐに頭の位置を戻せる。戻せる頷きは、次の呼吸を早く整える。「……ありがとう」小さな声。声に名前はない。けれど、名前で呼ばれた声だ。呼ばれたことを忘れない声は、夜に鳴っても、人のほうへ戻る道を思い出せる。


 村長は棒をゆっくり抜き、床に傷がついていないことを確認し、それから肩に担いだ。担ぐ棒は、振り下ろす棒より重い。重さを思い出すのは、良い兆しだ。


 見習い書記は鈴を胸に押し当て、わずかに震える手を自分で包む。「いま、ぼく、なまえ、よんだ。こわかった。でも、よべた」


 柊は微笑み、写し板の端に小さな枠を描いた。枠には「呼びかけの練習」と書く。その下に、子どもの字を二行写す。

 ——サワ。

 ——サワ。

 枠の周りに青糸の影が落ち、影は灰の犬影とは混じらない。混じらない影は、分かれている、ということだ。


 外の山は、霧の帯を薄くまとい、高台の灯は小さく揺れた。仮面の司祭の気配は遠いまま、しかし消えない。消えない気配は、舞台の袖の冷気に似ている。袖の冷気は、出番を知らせる。出番が来るまで、呼吸を整える。呼吸は合唱ではない。和音でもない。各々の胸の厚みで、各々の長さを選ぶ。


 柊は拝殿の戸を半ばだけ開けた。半ばという位置は、今日の終わりと明日の始まりのあいだに、いつも丁度いい。外の冷たさが頬に触れ、内の温かさが背に残る。青糸は鳴らず、鈴は眠る。眠る鈴の舌に、今夜ひとつだけ鳴った低い音の記憶が薄く残り、残った記憶は明夜の最初の判断に微小な影響を与えるだろう。


 「——影が残った。まだ吊れる」


 村長の言葉は、今日の余白に太く書かれた一行だ。余白は沈黙ではない。練習の欄だ。太い一行のすぐ横に、宮司の孫は古文の短い注を写した。「影は習慣に寄りつく」。紅葉は、その下に丸い字で書き足した。「習慣は、歌で変わる」


 サワは円の外に座らされ、水を飲み、喉をさすり、糸の結び目を触って、目を閉じた。目を閉じるのは眠るためではない。目の裏側の暗さの中で、名前をもう一度だけ呼ぶためだ。——サワ。呼ばれる前の名前は薄い。呼ばれた後の名前は濃い。濃い名前は、夜に舌が乾いても、水の向きを思い出す。


 柊は犬影を一度見、拝殿の外の雪の白に視線を移し、もう一度犬影を見た。影は薄いが、薄い影ほど、うっかり踏まない。踏まないためには、見続けず、見直す。見直すことが、儀の続きだ。


 写し板の鈴が風で揺れず、青糸が湿りを拾わず、火皿の灰が静かに落ち着いた。音は少ない。少ない夜は、看護に向いている。看護は、離れる瞬間を待つ仕事だ。混じりが離れる一瞬を、今日ひとつ、見送った。明日は、糸をもう一段、役目に連れていく。足首に、踵に、母指球に。猫足を、人の足へ。縛るためではなく、ほどけるために。


 柊は最後にもう一度、円の粉の輪郭を指でなぞった。粉は指につかない。つかない粉は、ただそこにある。そこにある輪は、地図だ。地図は、見失うためにではなく、見つけ直すためにある。輪郭が分かれば、縫える。縫えれば、ほどける。ほどければ、もう一度、結べる。結び直した結び目は、見せる。見せた結び目は、笑ってほどける。


 拝殿の天井の梁が、静かに息を吐いた。吐く音は、雪解けの許しの音に似ていた。穴のない板間に、その音は落ち、広がらず、染み込んだ。明日の歌のために。明日の声のために。明日の指と糸のために。


 ——そして、床に突き立てられた棒の先の灰は、まだ、そこにあった。

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