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第13話 二つの足跡、ひとつの告白

 夜がほどけ、雪の光に薄い青が混じる時刻、拝殿の板間を横切る斜光が供物盤の天板の一辺をかすめた。そこに、粉をつまんで落としたような淡い濃淡が二つ、並んでいた。目を凝らさなければ見えないが、目を凝らすともう目が離れない種類の跡だ。灰の足跡が二つ。片方は大きく、踵の縁が深く沈んでいる。もう片方は小さく、母指球に体重が乗って爪先がほんのわずか内側へ寄る、猫のような癖。


 見習い書記が胸の前で鈴を握った。指の関節は細く、爪は少し欠けている。昨夜、その鈴がひとりでになった、と彼は言った。風ではない。鳴る前に、空気が一度固まり、すぐにほどけたのだという。誰かが、息を止めて通った。


 紅葉はうなずいた。「息を止める癖は、恐れと飢えの合図。獣も人も、喉の奥で同じ仕草をする」


 柊は天板の端の灰を、羊皮紙の写し板にそっと移した。灰は軽い。軽いが、意味を持つと重くなる。重さは、指にだけ分かる。重くなった灰は、紙の上で音を吸わなくなる。吸わない沈黙——それを柊は、筆を置く前の一呼吸に重ねて覚える。


 宮司の孫は巻物を開いた。古文の見出しに、小さく「影を数える術」とある。彼は行を指で辿り、声にして読み下す。「“影は光の数だけ生まれる。動く影を数えるには、光ではなく隙間を置け。息の止まる間に、影は重なる。重なりを拾え”」


 「息の止まる間……」紅葉は顎に指を添えた。「鈴が鳴らない瞬間を拾えば、通った者の“間”が見える」


 柊は頷き、青糸の端を指先で弾いた。糸は低く鳴り、鳴りの中に微かなざらつきを残した。灰の粉が糸に触れたときの抵抗の音だ。外はまだ冷たい。冷たい内側で、拝殿の空気だけが一段柔らかい。穴がひとつ塞がって、拝殿は呼吸の仕方を覚え直したところだった。


     ◇


 昼の会議は、机の木目がやたらと濃く見えるほど、誰も筆を持たなかった。村長が卓を叩くと、木目は縦横に走る血管のようにぶるりと震えた。「観客だの影だの、詩の話はもう結構だ。名を出せ。名が分かれば、話は早い」


 匿名投票で育った舌は、実名の刃を持つと重さで折れる。言い切る筋肉が痩せているのだ。痩せているから悪いわけではない。鍛え直す時間が要るだけだ。柊は、急かさない。急かす声は合唱に似ている。合唱は、今は要らない。


 教師は会議に出なかった。家に伏したまま、と聞く。紅葉の見立てで妻は体力を戻しつつあり、日中は乾いた湯気のような呼吸をゆっくり吐いている。だが夜になると、眼に月の光が宿る。紅葉は昨夜の巡回から戻るなり、柊に耳打ちした。「あの人、眠る前に喉を鳴らす。犬じゃない。遠吠えの前に喉が鳴る、あの感じ。声ではなく、声の前口」


 宮司の孫は、会議の隅で古文の注を写していた。「“混じるを神は嫌う。人に獣の意志あり。獣に人の恥あり。混じりを分けるには“同意”と“歌””」彼は朱で小さく線を引き、「同意はその者の声に限る」の注を横に添えた。


 名を出せ、と言う村長に、紅葉は淡々と返した。「名は、本人が出す。『同意はその者の声に限る』——あなたが一昨日、反対した文と同じ巻に、そうあります」


 村長の額に、短い影が落ちた。怒りの影ではない。怒りの前口——呼吸が一瞬止まる、短い影。


 「夜に、“影を数える”」柊は静かに告げた。「名を出すのはその後だ」


     ◇


 日が落ちる。拝殿の周りに薄粉を撒く。雪の上ではなく、雪を払った土の帯に、指でほぐした小麦粉を薄く。粉は湿りが好きだ。湿りに触れると、色こそ変わらないが、粒が微かに膨らんで跡を持つ。そこへ、青糸の鈴を三方に張る。尾根へ向かう細道、杉林を巻く道、集落へ下る段。鈴は今夜、鳴るためにそこにあるのではない。鳴り損ねるためにある。


 人が通れば一瞬だけ鈴が鳴らず、粉の上に息の止んだ歩幅が刻まれる——宮司の孫の読み出した古法に、紅葉の看護の直感を接いで仕掛けた術。風は鳴らす。息は鳴らさない。息を止めた者は、粉の上に「鳴らなさ」を刻んで通る。


 夜。拝殿の灯は低く、影は厚い。犬は扉の内で丸くなり、たまにだけ耳を動かす。柊は写し板の端に身を置き、鈴の鳴りの間を数える。鳴る、鳴る、……鳴らない。間。粉の上に、細い線の列。歩幅の一定さ。踵の深さ。母指球の沈み。


 結果は、明瞭だった。大きな足跡は、村長。踵が深く、踵から入って膝で受ける、重いが正しい歩き方。だが、息の止め方はぎこちない。慣れていない、無理している止め方。鈴は一瞬だけ鳴らないが、すぐ鳴る。粉の跡は踵に偏る。


 小さな猫足は、驚くほど、教師の妻に一致した。彼女は日中、紅葉の付けた杖を軽く使う、細い足取りだ。けれど夜、粉の上に現れた歩幅は、踵を使わず、母指球で押していく。息は止まる。胸がほとんど動かない。止めるのではない。止まるのだ。体のどこかが、月の呼吸に合わせて、独りでに止まる。


 紅葉は唇を噛んだ。「月が高い夜は、喉が渇く。舌が乾く。乾いた舌は、唾を求めて動く。……その動きを止めるために、息を止めてる」


 柊は視線を上げ、宮司の孫と目を合わせる。彼は供物盤の縁に現れた細い線を指で辿っていた。昨日はなかった線だ。「“人に獣の意志あり。獣に人の恥あり。混じるを神は嫌う”」彼は読み上げ、指を止めた。「続きがある。“混じりを分けるには“同意”と“歌””」


 「歌……」柊は喉の奥で繰り返す。昨夜、穴は読み上げで閉じた。最後に歌うのは誰の声か——あれは、まだ続いている問いだ。


     ◇


 村長は夜更けに姿を現した。棒を持っていた。棒は、落ちた枝を剥いただけのものだ。手が馴染むまで握っていない棒は、持ち主の体を守らない。守らない棒ほど、相手を傷つけるのに便利な道具はない。


 柊は棒を見なかった。見れば、棒に目を取られる。棒は目を食う。見るべきは息だ。息の止まり方。息の続け方。


 教師の家の前。雪が薄く、月が濃い。扉が僅かに軋み、妻が外へ出る。裸足。猫足。足裏の肉が雪の皮を撫で、爪先が内へ寄り、踵は浮く。胸は——動かない。喉が、微かに鳴った。


 柊は声をかけない。代わりに、手をひらりと上げた。掌に、空札。能力はない。嘘も剣も、今は持たない。持たない手を見せる。持たない場所から、話を始める。


 妻の眼が揺れた。黒目の周りの薄い茶が、月の白をかすかに弾いた。喉がもう一度鳴り、彼女は月を見上げた。遠吠えの前口——紅葉が言った通りの、あの小さな鳴り方。


 背後で雪が軋んだ。村長だ。棒を握り、声を張る。「証拠は揃った」棒が上下する。「足跡。鈴。粉。猫足。村を脅かす混じり。吊るしかない」


 合意の合唱の入口を、村長は心得ている。入口で声を張れば、喉の奥が勝手に音を選んで揃う。揃えるな。——柊は、背中の筋でその言葉を支えた。紅葉が一歩、前に出る。「“同意はその者の声に限る”。代理は原則、禁」


 妻の唇が震えた。震えは寒さではない。震えは、恥の前口。恥は悪くない。恥は境界線の感覚だ。境界線を感じない手は、血管を誤って縫う。


 「……わたしは、狼の血を持つ」妻は、やっと声にした。「食べてはいない。食べないために、夫が閉じ込めた。けれど、月は舌を乾かす。乾くと、喉が鳴る。鳴ると、歩く」


 村長の棒の先が、雪の上で震えた。棒の震えは怒りではなく、安堵の前口——名が出た。名が出れば、吊るのは簡単だ。簡単さは麻薬だ。甘い。短い。すぐ、腹が空く。


 柊は腕の内側で拳を握った。血の音が、耳の奥で短く跳ねる。跳ねる音は刃の音に似ている。刃は悪くない。刃は、固結びを切るためにある。


 その瞬間、供物盤の穴が一瞬だけ縮んだ。拝殿は遠いのに、耳の奥の水面がわずかに揺れるのが分かった。穴の縁が許しの音を小さく立て、すぐに止む。——同意と歌の、前駆音。


 だが、村長の声が空気を裂いた。「血は血だ。吊るしかない」裂け目から、合唱が戻りかける。背中のほうで、何人かの喉が勝手に同じ高さを選びつつある。合わせるな。——柊は足の裏で雪の硬さを測り、呼吸の長さを一段長くした。次の一手が要る。


     ◇


 宮司の孫が、巻物を抱えて走ってきた。息は上がっていない。読み上げるための息の身のこなし。彼は村長と妻と柊と紅葉、その四人をまとめて視界に入れる位置に立ち、古文の行を開いて声にした。「“混じりを分ける儀”」


 雪の上の声はまっすぐだ。音は、跳ねてから吸われる。「“人の歌/獣の声/守る指/縛る糸”」彼はそれぞれの行の横に、朱で小さな印を付けた。歌の横に点。声の横に波。指の横に円。糸の横に線。「歌は人が歌う。声は獣が出す。守る指は喉の前に一本。縛る糸は手首に一本。——歌と声が重なる間、混じりは分かれる」


 紅葉は青糸を指に巻き、柊を見た。「歌える?」


 歌。昨夜、柊は短い言葉を置いた。歌ではなかった。読み上げだった。今夜は、歌だ。喉を楽器にする。合唱ではない。和音でもない。最初の一音。


 村長が棒を握り直し、「儀など待てぬ」と言いかけたとき、見習い書記の鈴が小さく鳴った。鳴ろうとして鳴ったのではない。息が動いて、結果として鳴った。鳴りは高く、短く、雪に吸われる前に拝殿の方へ細く走った。


 紅葉が妻の前に膝をついた。指を一本、喉の前に立てる。「守る指。ここまで。ここから先へは、行かない」彼女の指は白く、指先は温かい。温かさには、体温だけではない湿りが含まれている。詩の湿り。看護の湿り。指は喉の前に小さな柵を立て、その柵は、喉の奥の遠吠えの前口を静かにくぐらせる。


 宮司の孫は巻物の最後の注を探し、見つけ、うなずいた。「“歌は短く、重ねるべからず。獣の声は止めず、押さえず。糸は切らず、固く結ばず”」


 柊は空札を握っていた手を開き、空札を雪の上に置いた。置いた紙は、すぐに湿りを吸って角が丸くなる。丸くなる角は、刃の丸め方に似ている。柊はひとつ息を吸い、吐いた。吐く息をそのまま音に換える。歌は短く。短く、しかし、逃げない。


 「——見た。怖い。守る」


 昨夜、紅葉が写し板に置いた一行と同じ言葉を、歌にする。言葉の高さは少しだけ上げる。息の長さは、妻の喉の鳴りをなぞる。


 妻の喉が応えた。声ではない。獣の声。遠吠えではない。遠吠えの前口の、素の鳴り。喉の奥の柔らかな壁が、月に触れて震え、震えが指の前で小さくほどけ、声にならない音が、柊の歌の下に潜り込む。


 青糸は、縛るためにではなく、忘れないために妻の手首に一本、やわらかに回された。結びは固くない。引けば締まる。緩めるには、呼吸がいる。


 村長の棒は、雪の上で止まった。止まった棒は、重さを思い出す。重い棒は、持つ者の腹の奥に戻るべきものだ。腹が思い出せば、喉は忘れる。


 見習い書記の鈴が、もう一度鳴った。二度目は一度目より低い。低い鳴りは、拝殿の青糸のどこかに共鳴して、短く返事をした。彼は胸の前で鈴を押さえ、震えを掌に閉じ込める。閉じ込めるのではない。抱き込む。抱き込むと、震えは逃げない。


 柊はもう一度だけ歌った。昨夜、自分が盤の前で置いた言葉を、今夜は喉で鳴らす。


 「——助けられなかった。けれど、もう匿名には隠れない」


 短い歌。二行。歌のあと、拝殿のあたりで、ほんのかすかな雪解けの音がした。穴は遠い。だが、耳の奥はもう拝殿の耳だ。穴は、音を覚えている。覚えている音に、近づく。


 妻は、喉を鳴らしたあと、唇を噛み、そして唇を離した。「——吊らないで」声だ。獣の声が、ひとつ人の声に重なった。重なりは薄いが、薄い重なりはほどけにくい。厚い重なりは剥がれやすい。看護も、縫い目も、同じだ。


 宮司の孫が合図をした。「今は、ここまで。“歌と声が重なる間、混じりは分かれる”。今夜は、間を作った。混じりの分かれ目に印を置いた」


 村長は棒を下ろし、肩を大きく落とした。「明日は、どうする」


 紅葉は青糸を指から外し、妻の手首の結びをわずかに直した。「明日は“縛る糸”の続き。手首ではなく、足。猫足を、人の足に戻す。結び目を舞台の上で見せる。隠さない。見せた結び目は、ほどける。ほどく力は、歌で足りる」


 村長は眉間の影を指で払った。払った指は震えていない。震えないのは、怒りが去ったからではない。怒りの置き場所を一時的に見つけたからだ。「……見せろ。わしにも」


 紅葉は頷き、柊は空札を拾い上げた。拾った紙は、角が丸い。紙は生きている。生きている紙は、刃を包む。


     ◇


 夜が薄くなり始めるまで、拝殿の周りの粉の帯はぽつりぽつりと新しい間を集めた。鈴は、鳴らない瞬間を数える道具でありながら、今夜はほとんど鳴らなかった。鳴らないことが記録になり、紙の上に呼吸の地図が増える。大きな足の間は薄くなり、小さな猫足の間は、一箇所だけ短く、頻繁に刻まれた。拝殿の戸口——読み上げの火のそばだ。


 宮司の孫は供物盤の縁の文字を押さえ、「“混じりを分ける――人の歌/獣の声/守る指/縛る糸”」の四行に、各々朱で印を添えた。今夜は、歌と声と指まで。糸は、明夜。


 柊は見習い書記の鈴の舌を少しだけ擦り、霜の粒を落とした。彼は息を整え、その息で鈴を乾かす。「鳴らすのは、君のタイミングでいい。鳴らさないのも、君の判断でいい」


 「うん」と見習い書記。声は小さく、しかし喉が固まっていない。喉の筋肉は眠る前の猫の背中のように柔らかい。「今夜、ぼく、みた。こわかった。でも、きこえた。うた」


 紅葉は彼の肩に手を置き、手の重さを最小にして、皮膚の温度だけを渡した。「ありがとう。『見た』『怖い』『聞いた』——三段、全部を外に出した。それだけで、足跡の形が変わる」


 村長は黙って拝殿の戸の前に立った。足を肩幅に開き、棒を横に置く。棒を置く音は、今日一日で初めて静かだった。彼は盤を見ず、青糸を見た。糸は鳴らないが、光る。光らない夜には見えない光り方だ。見えるのは、今ここにいる人の目の湿りが、ちょうどよい厚みを選んだからだ。


 教師の家では、妻が眠った。眠る前に喉は鳴らなかった。紅葉の指が作った柵は、喉の前で呼吸の順番を整え、遠吠えの前口を人の呼吸の後ろに下げてから、そっと消えた。消えたのに、効果は残る。人の看護は、ときどきそういう働き方をする。


 柊は拝殿の板に座り、羊皮紙の空白を眺めた。空白は沈黙ではない。明夜のための段取り表だ。空白の端に小さく、「糸」と書く。糸は縛るためではなく、思い出すためにある。思い出せる結びは、ほどける。


     ◇


 翌朝。雪は薄く、空は高い。高台の灯はまだ座っている。観客席は今夜、何人になるかは分からない。ひとつでもいい。十でも、百でも。数は歌の強さを決めない。歌は長さを嫌い、厚みを嫌い、重さの配分だけを選ぶ。


 拝殿に集まった村人たちの前で、宮司の孫が巻物の余白に今日の日付を書き、昨夜の短い歌の二行を、その隣に移した。紅葉は手首のゆるい結びを何度か作って見せ、縛っていないのに縛られているように感じる結びの怖さと、縛っているのに縛られていないように感じる結びの安心の違いを、指の腹で説明した。村長は、棒を持たずに立ち、目で糸を追った。


 柊は、供物盤の天板の端を見た。夜明けの斜光は、今日も灰の足跡を浮かび上がらせた。大きな踵の跡は浅い。小さな猫足の跡は、拝殿の戸口のところで途切れている。途切れた跡は、悪くない。途切れたところで、歌が挟まったのだ。


 村は、今夜、「糸」を見る。糸は、縛る。縛らない。結ぶ。ほどく。全部を見せる。その間に、誰かが歌い、誰かが声を出し、誰かが指を立て、誰かが糸を手に取る。——「混じりを分ける儀」は、合唱ではない。役割の交代劇だ。役割の交代には、誰の名前も要らない。要るのは、声の高さと息の長さと、指の温度だけ。


 拝殿の外で、見習い書記の鈴が一度だけ鳴った。今朝の鳴りは、昨日より少し、長い。長いというのは、迷っていないのと同じだ。彼は胸の前で鈴を下げ、雪の上の自分の足跡を見て、笑った。笑いは短く、音は低い。低い笑いは、糸を鳴らさない。鳴らさない音は、紙に残る。


 柊は青糸の端を軽く撫でた。糸は返事をしない。返事をしない代わりに、指の脂をほんの少し受け取って、自分の繊維の間にしまった。しまわれた脂は、今夜、鈴の舌が選ぶ音の高さに、たぶん少しだけ影響する。


 「今夜」紅葉が言った。「“糸”をやる。わたしが結ぶ。あなたが歌う。……歌える?」


 柊は頷いた。歌うのは、喉ではない。喉の前口だ。喉の手前で、息を短く置いて、音にする。整った言葉の刃は、今夜は鞘の中。固結びを切るためだけ、少し刃先を覗かせる。村長は黙ってそれを見て、教師の妻は指先で自分の手首の結び目を触り、見習い書記は鈴の紐を握り直した。


 仮面の司祭は来ないかもしれない。来るかもしれない。外の観客は座っている。一人か、二人か。数は、もう合意を大きくしない。——穴は、歌で閉まる。閉まった穴の上で、足跡は、朝の斜光にだけ見える。見えたものを、見たと書く。怖いと書く。守ると書く。書くことは、吊ることではない。吊らないために、書く。


 「行こう」と柊は言った。「粉を集めて、糸を整えて、歌の長さを決める。——二つの足跡は、まだここにある。ひとつの告白は、もう出た。次は、混じりを分ける」


 村の空気は、昨日より軽いが、軽さを疑うだけの厚みを残していた。厚みは、油断を妨げる。油断を妨げる厚みの上で、雪は静かに溶け、庇の先からひとしずくが落ちた。穴が塞がるときに聞いた、あの音に似ていた。許す音。許す音は、忘れるためではない。覚えた上で、次へ進むためだ。

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