第12話 穴が塞がる音
朝の拝殿は、柔らかな静けさで満ちていた。静けさにもいろいろな質がある。刃物を布で包めば生まれる緊張の静けさ、雨の前に地面が吸い込む気配の静けさ、眠る子どものそばで息を潜める大人の静けさ。今ここにあるのは、そのどれとも少し違って、雪が日に溶け、庇の先からひとしずくが落ちるときの音を孕んだ静けさだった。
穴が一つ、昨夜のうちに閉じたのだ。音は、金属でも木でもない。板が鳴るのとも違う。溶け残った雪片が、しずかに形をやめて水になるときに生まれる、かすかな「許す」という響き。誰かが合図したわけではないのに、拝殿にいた村人たちは顔を見合わせ、自然と呼吸を合わせて吐いた。合唱ではない。合わせようとしたのではなく、たまたま同じ長さの息を選んだだけの、和音の呼吸。
柊はその響きを胸の奥に置いて、青糸の張りを確かめた。糸は乾いているが、言葉の湿りを覚えている。羊皮紙の写し板は四隅で糸に留められ、昨夜までの一行一行が薄く光を拾っている。紅葉は灯明の炎をひと息だけ落として、影の厚みを測った。「影が薄いと跡が見えない。厚すぎると、声が詰まる。今日はこのくらい」
宮司の孫は盤の縁に腰をおろし、古文の巻物を膝に広げる。「昨夜の閉じ方は、記載にある“静止の閉”と一致する。合意をほどいた上で、声の重なりを一定時間保って塞ぐやり方だ」
「じゃあ、残る穴も、声で塞げる?」柊が問う。
「塞げる」と宮司の孫。「けれど、最後の穴は“自動では閉じない”(じどうにはとじない)とある。誰かが歌わなければならない、らしい」
歌。紅葉はその語を舌で確かめるみたいに何度か反芻してから、頷いた。「“読み上げ”にしよう。歌うというより、読み上げる。写し板に残った匿名の声を、火のそばで、一つずつ、名前を呼ばずに。ただ言葉だけを連ねて」
その前に、と柊は写し板の余白に朱で小さな枠を描いた。「票の声を三段に分けたい」
「三段?」村長が目を細める。彼は穴が一つ閉じたという事実の前で警戒を緩めかけていたが、柊の声の調子にふたたび腹に力を戻した。
「一つ目は事実。見た/聞いた——“目”と“耳”。二つ目は感情。怖い/悲しい/怒り——“波線”“涙”“握り拳”。三つ目が判断。吊る/保留/守る——“刃”“砂時計”“傘”。これまでの整った言葉の合唱は、判断だけを膨らませて、事実と感情を薄く背後に置いていた。三つを同じ強度で前に置きたい」
村長は渋い顔をした。「字が増えると、読めぬ。わしの目も、みんなの目も、年を取る」
紅葉が一歩出た。「だから、絵記号を用意します。目=見た、耳=聞いた、波線=怖い、涙=悲しい、握り拳=怒り、刃=吊る、砂時計=保留、傘=守る。子どもも参加できます。線は太く、形は単純に。筆がなくても、炭でもできる」
「子どもが?」と誰かが言い、別の誰かが「そのための匿名だろう」と続けた。笑いともため息ともつかぬ音が拝殿をかすめる。紅葉は、口元だけで笑ってみせた。「匿名の幼い票が、盤の前に並ぶ。匿名の幼い呼吸が、村の中に混ざる。混ざれば、声の高さが少し広がる」
教師は、今日も現れなかった。集会所の端に彼の影を探す癖は、まだ村人の眼球に残っている。だが、その影は、家の中にうずくまっていると聞いた。妻は救い出され、生きている。柊は昨夜、護衛札を受け取って、その夜は教師の家の傍で眠らずにいた。守る対象は彼女の呼吸だった。呼吸を守ることは、言葉を守る準備だ。
拝殿の隙間から、昼なお灰の粉が細く流れ込む瞬間があった。仮面の司祭は戻らない。だが、外の観客はまだ諦めていないらしい。灰は風の癖を持たず、脈の癖で動く。粉は盤の縁でわずかに溜まり、羊皮紙の端に小さな星座を作った。宮司の孫はそれを薄墨で囲み、「外の呼吸」と書いて朱を一点置いた。点は、音にならない太鼓の一打だ。
◇
午後、三段構造の票が拝殿に集まり始めた。最初は大人たちの足どりが重かった。「書くことに慣れていない」「字が汚い」「恥ずかしい」。そのための匿名だろう、と言い、匿名を盾にして遠ざかる。盾は、持ち上げる腕の力を要る。力が要ることを、遠ざけたい気持ちはわかる。柊は無理に引き寄せなかった。ただ、先に道を示した。
紅葉が、また最初に書いた。大きな目の記号、その横に小さな波線、さらに傘。そして短い言葉。
見た。怖い。守る。
筆圧はやはり弱い。けれど、迷いがない。線の終わりが全て、同じ呼吸のところで止まっている。柊はそれを写し板の上段に貼り、「基準」と朱で記した。
子どもが来た。柱に詩を書いた筆跡の子も、別の子も。丸の中に点を二つ打って目にし、耳は渦巻きで、波線は三本。涙は大きく、握り拳は紙いっぱいに描かれた。記号の下に、ひらがなの一行。
みた。こわい。まもる。
きいた。かなしい。ほりゅう。
みてない。わからない。すわる(座る=保留の自分なりの印)。
幼い票が盤の前に並ぶ。匿名のまま、しかし匿名の湿りではなく、息の温度でそこに立つ。村長が、思わず前のめりに覗き込んだ。「……読める。目が、読める」
大人も続いた。耳だけを描いて「聞いた。怒り。保留」。涙だけを描いて「見ない。悲しい。守る」。事実と感情と判断が、同じ太さで紙の上に立つ。判断だけが肥大化しない。柊は胸の中で、その重さの配分を何度も撫でた。
宮司の孫は、古文の余白に筆を滑らせた。「最後の穴は自動では閉じない/誰かが歌う必要あり」。彼は「歌」の字の横に小さく「詠」と添え、「読み上げ」の訓をつける。「声の高さを合わせる必要はなく、順に言うだけでいい、と注がある」
「順に、ね」と紅葉。「看護の報告と同じにする。『誰が』『いつ』『どこで』『何を見た/聞いた』『どう感じた』『何を選んだ』。名前は呼ばない。けれど、行の順は、人の順にする」
「人の順?」
「来た順。息の長さの順。筆を置くまでの時間の順。今日の身体が決める順」
◇
日が落ちる気配が拝殿の床に広がる頃、柊の枕元に札が来た。護衛。彼は迷いなく教師の家へ向かった。妻は眠っている。呼吸は滑らかではないが、乱れてもいない。褥の脇に小さな鈴がひとつ置かれているのを、柊は見た。昨日、見習い書記が胸に下げていたものとよく似ている。「鳴らす?」と柊は問わない。鳴らすのは本人の判断だからだ。ただ、鈴の舌が凍りつかないように、ほんの少し角度を変えておいた。
拝殿に戻ると、紅葉が薪を一段ゆっくりくべ、炎を高くしすぎないように調整していた。影と光の境目が濃くなって、文字が浮かびやすい。青糸は四方に張り出し、鈴は今夜は結ばれない。観客席は、座っているだけでいい。音を求める夜ではない。
読み上げが始まった。宮司の孫が端に立ち、紅葉が中央で紙束を持つ。柊は盤の前に座り、羊皮紙の余白を指で押さえた。誰の名前も呼ばない。紙の記号と一行だけが、火のそばで音に変わっていく。
「目。波線。傘。『見た。怖い。守る』」
火の音と混ざる。炎は、言葉が通ると一瞬だけ高く、すぐ元の高さに戻る。目の記号が二つ重なって、耳の記号が三度続いて、涙がひとつ置かれる。
「耳。涙。砂時計。『聞いた。悲しい。保留』」
「目。握り拳。刃。『見た。怒り。吊る』」
「目。波線。砂時計。『見ない。怖い。保留』」
呼吸が合っていく。合唱ではない。読み手の息と火の呼吸と、紙の擦れる音が、似た長さの波を作る。穴の縁が、わずかに縮む。金属の音はしない。雪が解ける音でもない。呼吸がひとつ減ったみたいな、小さな空隙の音。
外から灰の粉がまた流れ入る。仮面の匂いではない。匂いのない匂い。粉は盤の縁で止まり、読み上げのたびに、粉の形が弱く崩れる。外の観客は、まだ座っている。けれど、拍は刻まない。
「目。波線。傘。『見た。怖い。守る』」
「目。涙。傘。『見た。悲しい。守る』」
「耳。握り拳。砂時計。『聞いた。怒り。保留』」
穴は、さらに縮む。けれど、最後のひとつが頑なに残る。縁は薄く、中心が硬い。宮司の孫が巻物を閉じ、呟いた。「最後に歌うのは、誰の声」
それは今朝読んだ行であり、さっき紅葉が口にした言葉であり、今この場を締める問いでもあった。柊は息を呑んだ。自分がまだ、歌っていないことを、ようやく身体が知らせてきた。
彼は立ち上がった。足が震えたわけではない。震えようとする足を、膝で受け止め、背筋で分配しただけだ。盤の前に立つ。火は少し弱く、光は少し柔らかい。青糸が音をつくらない夜に、自分の喉だけが楽器になる。
紙は用意しない。記号も書かない。代わりに、三段の順番だけを守る。事実、感情、判断。整った言葉の刃を、鞘の外に出さないように、短く。
「——見た。吊りたくない。怖かった。助けられなかった。けれど、もう匿名には隠れない」
言ってから、彼は息を吐いた。吐く音は大きくない。けれど、穴が音を立てずに閉じ始めたのを、拝殿中が同時に知った。雪の解ける音に似て、柱の内側で木が呼吸する音に似て、誰かの涙が頬を離れて衣に吸われるときの音に似た、許しの音。
紅葉は目を閉じ、宮司の孫は紙の端に小さく日付を書いた。村人たちは誰ともなく息を合わせて、吐いた。吐ききって、吸った。合唱ではない呼吸。音にならない和音が拝殿に広がり、盤の底の闇が一度だけ波打つように動いて、止まった。
◇
静けさのあとで、外から拍手が聞こえた。二度、三度。高台の観客席のほうから。だが、その拍手は一人分だった。大きくない。手のひらが小さい。柊は戸口へ歩み寄り、雪の向こうを見た。
灯がひとつ、肩の高さで揺れた。灯の後ろに、小さな影。見習い書記だった。胸に小さな鈴を下げて、こちらを見ている。鈴は鳴っていない。舌は静かに口の中にある。目は、起きている。
「降りる?」と紅葉が声をかけると、彼は首を横に振り、震える声で言った。「——狼、まだいるよ」
柊は背の筋をまたひとつだけ固くし、頷いた。「どこに」
見習い書記は灯を低くし、空いた手で拝殿のほうを指さした。「そこ」
拝殿の中。供物盤の天板の端。灰でなぞられた足跡が二つ、並んでいた。灰の足は、爪先が内側にわずかに寄っている。人ではない。けれど、人のふりをしようとした癖が残っている。仮面の司祭のものではない。仮面の灰は体温を持たない。いまここに残った灰には、かすかな湿りがあった。息の湿り。獣の湿り。
「合意の戦いは終わっていない」と宮司の孫。「合意をほどいたあとの戦いが、今から来る。穴は閉じたが、餌を探す牙は、別だ」
「牙に、和音は聞こえない」と村長がぽつりと洩らした。「牙は、血の音しか聞かない」
「血の音は、隠せない。だから、守る」と紅葉。「看護は、いつも『次』のためにある」
柊は頷き、見習い書記に向かって手を振った。「そこに座って。鈴は鳴らさなくていい。鳴らすのは、あなたの決める時」
見習い書記はこくりと頷いた。灯は小刻みに揺れ、青糸の影が雪面に細く落ちる。外の観客席は、今夜、一人用の座布団だけが敷かれた。仮面の司祭は来ない。灰の粉は来る。鈴は鳴らない。穴は閉じた。けれど、灰の足は拝殿の縁に二つ残っている。
柊は写し板の端に新しい枠をひとつ描いた。「合意の後」。枠の中に、今夜の三段をもう一度書く。
目。波線。傘。——見た。怖い。守る。
耳。握り拳。砂時計。——聞いた。怒り。保留。
空欄。空欄。刃。——判断の刃は、まだ鞘の中。
紅葉は火の高さをわずかに上げ、宮司の孫は古文の巻末を閉じ、犬は戸口で丸くなって尻尾だけを小さく振った。雪の匂いと灰の匂いが混ざる。混ざり方は昨日より穏やかだ。穏やかさは油断ではない。和音の厚みだ。
村人たちは帰り支度をしながら、もう一度だけ拝殿の中央を見た。盤の穴は、静かに塞がっている。縁は赤くない。白すぎる白でもない。木の地肌に近い色。そこに、薄い問いが置かれたままだ。「最後に歌うのは、誰の声」。今夜、それは柊の声だった。明日は、別の声になるかもしれない。声は交代できる。呼吸は交代できない。だから、呼吸を守る。守った呼吸で、また声を出す。
外の高台に灯が一つ、眠たげに瞬いた。見習い書記は鈴を握るでもなく、ただ胸の前で手を重ねた。重ねた手は、小さく震えている。震えは悪ではない。生きている証拠だ。震えない手は、紙を殺す。震える手は、紙を生かす。
柊は拝殿の戸を半分だけ開けた。半分、という位置は、今日と明日の境目にふさわしい。雪の冷たさが頬に触れ、火の温かさが背に残る。青糸は静かで、鈴は眠っている。羊皮紙の上には、まだ空白がある。空白は沈黙ではない。これから書かれる一行のための席だ。
「——狼は、まだいるよ」
見習い書記の言葉が、夜の最初の一打になった。柊は、その上に和音を足す準備をしながら、短く頷いた。合意の後に来る戦いは、合唱ではなく、組曲になる。一つずつの楽章が、息でつながる。整った言葉は刃であり得る。けれど、刃を鞘に収めた手が、和音を選び直す。
穴が塞がる音は、もう鳴らない。代わりに、歩く音が増える。雪の上、灰の帯の脈。犬の爪先、子どもの鈴、青糸の微かな共鳴。村はそれらを譜面に載せ、明日の夜に備える。盤は沈黙したまま、しかし静かではない。沈黙は、今は、歌の前口だ。