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第11話 仮面の同行者

 夜道に、灰の帯が続いていた。風に吹かれて伸びる線ではない。誰かの歩幅に従って、音符のように規則的に落とされ、ところどころで立ち止まった呼吸の深さが濃淡になっている。柊は膝を折って、雪の皮膚に指先を近づけた。指に触れる前に、灰の縁だけがふっと逃げる。逃げる動きは、風ではなかった。脈に似ていた。

 村犬は鼻を低く鳴らし、尾の根元だけを細かく震わせる。紅葉は杖の先で雪を軽く叩き、鳴りの高さで薄氷の厚みを測る。宮司の孫は巻物の革紐を締め直し、青糸の予備を懐に秩序よく収めた。


 「灰は、道が分かれたときだけ脈が強くなる」柊は言った。「迷いの拍動が、残ってる」


 「迷いは、呼吸を深くする」紅葉が応じる。「深い呼吸は、灰を重くする。重い灰は、雪に沈んで残る」


 足跡は杉林の奥へと伸び、やがて祈祷の匂いが濃くなる。松脂と香の混じる甘さが、肩の高さに帯を作っていて、その帯の内側だけ空気が乾いた。枝々の影が、結界の見えない縁を形にしている。遠く見えるはずの星が、そこだけ少し滲む。


 小堂があった。古い。屋根の反りが低く、板壁は幾度も塗り直された痕でかさなり、その皮膜が夜の冷たさに縮んで音もなく皺を寄せている。戸口には祈祷札。色は抜け、角は丸い。けれど、貼るときの手の力は生きている。


 堂の中に、仮面の司祭がいた。白木の面は夜目にも薄く光り、目穴は細い。面の裏の顔は見えない。肩に手を置かれているのは教師だった。彼は炎のようなものから遠い人間なのに、今は火に照らされた鉄のような色をしていた。


 「君の言葉は美しい」仮面は静かに言った。面の口は動かないのに、声は確かな位置を持って空気に立つ。「外の舞台でこそ映える。ここより広い席で、より多くの沈黙に頷かせることができる」


 教師は微笑み、仮面に頷いた。その頷きは、彼自身よりも、頷くという行為そのものの熟練を示していた。黙っていることが賛成になるという仕組みの中で、彼は達人だった。


 犬が一歩だけ前に出て、鼻先を低く下げた。堂の戸口の下に灰の帯。細く、途切れず、小さなうねり。紅葉の肩がこわばる。「灰が、生きてるみたいに動いてる」


 「風じゃない」と柊。「脈だ。外からの合意を吸ったり吐いたりしてる。誰かの呼吸じゃない。仕組みの呼吸」


 宮司の孫は懐から紙片と薄墨を出し、戸の左右に短い詩を貼っていく。古い封印詩。彼の指は震えない。震えないのは、恐れがないからではなく、恐れの置き場所を知っているからだ。

 「かみのまえ/こえのまえ/うそはかえす/あしはかえす」

 四行の最後に、彼は朱で小さく「止」の字を押した。押した朱は夜気に滲まず、そのまま静かに沈んでいく。


 中の仮面が、こちらに面をわずかに傾けた。面の角度の調整は、あまりにも正確すぎた。人の筋肉が長く使われてこそ持つ癖が、そこにない。あるのは、機械のように規則正しく磨かれた運動。


 「人は合意の器」仮面は言った。「君たちも器に過ぎない。盤も器、私も器。違うのは、盤は声を必要とし、私は沈黙の頷きで満たせるという点だ」


 「器なら、割れる」宮司の孫が小さく返す。「割れれば、水は自由になる」


 教師が小さく笑った。「器は形を与える。自由は器を嫌わない。器を選ぶのが自由だ」


 紅葉は堂の敷居に視線を落とし、灰の流れの筋を読む。流れは、足元から外へ向かって細くなっていた。堂の中で太り、外で細る。外から吸っているのではない。内から吐き出している。「面、あなたは、人ではない」彼女はほとんど囁きで言う。「呼吸はない。匂いもない。汗も、脂も、ない。あるのは、合意の流路を繋ぐ、仕組みだけ」


 面は、静かに頷いた。頷きは、同意というより、確認だった。「私は道具。君たちも道具。道具の善悪は、使い手の合意に従う」


 「なら、見せてやる」柊は懐から連結紐を取り出した。二つの輪が、呼気に合わせてわずかに揺れる。「使い手がどちらか」


 彼は足を踏み込んで、紐の一端を仮面の面へ、もう一端を教師の胸の襟へ投げた。紐は夜気の抵抗で弧を描き、二者の間に張る。張られた瞬間、写し板に似た透明な膜が紐の中央に生まれ、そこに二人の「動き」が二重露光のように映った。

 目の動きの一致。灰化の手の順序。面が先に動く。教師の言葉が、後から整合して追いかける。仮面が主。教師は拡声器。

 柊は息を吸い、紐の張りを指で確かめた。張りは良い。わずかに震えるのは、堂の結界の呼吸のせいだ。それでも、映像は崩れない。


 「主従、逆だね」紅葉が言う。「あなたの言葉は、面の後ろから出ている」


 教師の微笑が、ほんの一拍だけ揺れた。仮面は揺れない。面は位置を変えず、「構わない」とだけ答えた。「拡声器は拡声器であり、舞台には拡声器が要る。音量は合意の仲立ちをする。美しい言葉は音量を上げる」


 紅葉は青糸を取り出し、仮面の足元に巻いた。糸は触れたものの脂を吸う。触れれば、誰の指がそこにあったかが後から分かる。仮面の足首に糸がかかった瞬間、糸はかすかに鳴り、けれど色を拾わなかった。拾うべき脂が、ない。

 「体温がない」紅葉は糸を指で弾き、糸の返事を聞いた。「人間のふりをした機構。その周りに、人間が自分の言葉の形を投影してる」


 堂の扉に貼られた封印詩が、静かに燃え始めた。紙に火をつけたのではない。詩の「行」が、上から順に薄く炎になってほどけ、黒い灰の羽根を落としながら消えていく。

 かみのまえ

 こえのまえ

 うそはかえす

 ……最後に、残った一文字だけが、強く黒く立った。

 返れ。


 仮面は、教師の肩から手を離した。堂を出ようと、一歩踏み出す。教師の足も、反射で半歩出る。


 柊は前に立った。身体を細く見せようとせず、厚みを広げようとせず、ただ「ここ」という位置を占める。「整った言葉は、あなたを守っていない」


 教師の目が、今度ははっきりと揺れた。一瞬だけ、微笑の裏に生の眼球が現れ、それは戸惑いの形を持っていた。


 紅葉が低く言う。「あの夜、奥さんは“自分で言う”って決めた。その夜を、あなたは盗んだ。あなたの沈黙の頷きのために」


 仮面が手を振った。灰手。堂の空気が乾いて、紙の繊維が一斉に身構える。灰手は青糸に向けられ、糸を焼き切ろうとした。

 燃えない。

 糸は、濡れていた。濡れは水ではなかった。子どもたちの詩——「みた」「たすかった」「まだ、いきてる」——が、糸の繊維に薄く染みていた。染みた言葉の湿りは、熱に強い。意味のない水分ではなく、意味のある湿りは、燃えにくい。

 灰手は、糸の表面で火花を二度散らし、やがて鈍い煙だけを残して収まった。


 堂の外側で、写し板が引き伸ばされる。羊皮紙は板より柔らかく、板より長く、影の上にのびやかに出ていける。紅葉と宮司の孫が端を持ち、柊が中央を押さえる。板に刻まれた無数の一行が、夜気を吸って浮かび上がる。

 怖い。でも吊りたくない。

 こえは、こえが出す。

 座った/座らなかった。

 みた。たすかった。まだ、いきてる。

 ——匿名の声は匿名のまま、仮面の周囲に滲み出した。言葉は合意の外形を崩す。崩し方は、破壊ではない。形に小さな綻びを増やし、呼吸の出入り口を増やす。


 仮面が、退いた。退き方は慎重で、しかし諦めではない。ただ、今夜の舞台設定では、ここまで、という判断。面は客席の反応をよく知っている。今鳴っている和音の上では、拡声器は逆効果だ。


 教師が、膝から崩れ落ちた。膝は、丁寧に板に触れた。板は鳴らず、息だけが少しずつ出ていく。合意の衣を脱いだ身体は、ただの人だった。争うための筋肉も、逃げるための筋肉も、どちらも同じ厚さで、どちらも同じ温度で、そこにあった。


 宮司の孫がそっと囁く。「器は器でも、割れれば水は自由。器に残っていた水も、器の外にこぼれた水も、同じ水だ」


 紅葉は膝をついて、教師の呼吸を視た。視る、というのは、耳で脈を、目で胸の上下を、指で皮膚の温度を読むことだ。彼女は手を置かない。置いたら、彼の身体が自分の手で動くと思い込んでしまうから。置かない手で、彼の身体が自分で動くのを、見守る。


 仮面は堂の奥へ一歩下がり、面だけをこちらへ向けた。面の目穴の奥で、何かがわずかに反射した。光ではない。判断の角度だった。面は、判断を持つ。持つが、それは内側の人間のためではなく、外側の舞台のためだ。


 「返れ」封印詩の最後の文字が風で転がり、小さく堂の床を跳ねた。面は、返らなかった。堂の奥の壁が、短く低く鳴り、結界の膜が縮む。面の姿は、次の瞬間、影の濃さに混じって見えなくなった。


 外へ出ると、杉の匂いが厚く、雪の匂いが薄かった。犬は鼻を上げ、夜の湿りの層を一枚ずつ嗅ぎ分けるように空気を切り、やがて柊の脛に鼻先を押しつけて座った。戻る合図だ。


 道を戻りながら、柊は連結紐を懐に収め、青糸の端を指で弾いてみた。糸は低く、長く鳴った。糸が拾うのは指の脂だけではない。誰かの詩の湿り、誰かのため息の薄い塩、誰かの泣き笑いの温度。糸は、夜のうちに、それらを少しずつ織り込んだ。


 拝殿に着くと、灯明は細くなり、芯のかすかな赤が呼吸の残り火のように明滅していた。写し板は板の上に戻され、羊皮紙は四隅で青糸に留め直される。紅葉は自身の手に付いたわずかな灰を拭わず、糸に移す。「触れた跡は、明日に効く」


 教師は集会所に運ばれ、毛布で包まれた。彼は目を閉じていたが、まぶたの上の薄い筋肉が微かに震え、内側の眼球が夢と現の間の揺れを続けていた。彼が目を開ける時、言葉は長くないほうがいい、と柊は思った。長い言葉はまた衣になる。衣は必要だが、いまは薄布でいい。


 紅葉は犬の耳の後ろを撫で、宮司の孫は火皿に残った灰を紙に移し、朱の枠で囲んだ。「灰は風ではなく、脈で動く」今日の見出しを、彼は紙の上に書いた。


 夜がほどけると、東の空の薄青の帯が、村の屋根の雪を淡く染めた。柊は拝殿の板の冷たさを掌で一度受け止め、深く息を吸い、吐いた。吸うときに胸を大きくせず、吐くときにただ長く。看護の呼吸。


 朝、供物盤の穴が一つ、静かに閉じていた。音はなかった。小さな水面に針をそっと置いたときのように、ただ波紋も立てず、縁だけがわずかに重なっていた。初めてだった。合意をほどくことで穴が塞がったのは。


 盤の底の文が、もう一行、読めた。漆の薄膜の下に隠れていた線が、朝の光で浮いた。

 最後に歌うのは、誰の声。


 紅葉がその行を声に直し、宮司の孫は余白に写した。柊は青糸の張りを確かめ、鈴の舌をほんの少し曲げ直した。最後に歌う声は、合唱ではなく、和音の中の一音だ。誰の喉からでもいい。ただ、その人の喉で鳴ること。


 犬がくわえてきた小さな紙片に、子どもの字があった。

 まだみてる。

 でもすわった。

 すわったら、ねむくなった。

 ——観客席からの手紙。眠気は、安心の最初の兆しでもあり、油断の最初の兆しでもある。柊は笑って、紙片を写し板の端に挟み、青糸の一本に軽く絡めた。糸は短く鳴り、音はやわらかく消えた。


 村の空気は、薄く澄んでいた。整った言葉の衣は、裂け目を見せたまま、まだ床の上に残っている。拾って畳むか、洗って干すか、捨てるか。それを決めるのは、今日の一行だ。盤は一つ穴を閉じ、代わりに問いを開いた。最後に歌うのは、誰の声。


 柊は拝殿の戸を開け、外の冷たさを胸に入れた。冷たさは痛みではない。痛みは、傷の輪郭を教える。輪郭が分かれば、縫える。縫えれば、次にほどける。ほどければ、また縫える。縫って、ほどいて、歌う。その繰り返しの中で、仮面はまた来るだろう。来るたびに、和音は厚くなる。厚くなれば、拡声器は要らない。


 宮司の孫が筆を持ち直し、紅葉が袖をまくり、犬が一度だけ吠えた。吠え声は雪に吸われ、杉の枝で反射し、遠見台のほうへ薄く伸びた。山の灯は、朝でも、しぶとく小さく残っている。観客は、まだ座っている。座っているなら、見せよう。合意に頼らない、声の和音を。盤はそれを、今度は穴を閉じるために使う。


 「行こう」柊は言った。「今日は、洗う日だ」


 汚れた救いを干すために。裂けた衣を縫うために。最後に歌う声を、誰の喉で鳴らすかを確かめるために。青糸が朝の光で細く光り、鈴は鳴らずに、ただそこにあった。

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