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第10話 整った言葉の刃

 朝の集会所は、湯気のような人心で曇っていた。柱に手を当てれば、昨夜の冷えがまだ内部に縒り残っているのが分かる。柊は、会場の奥で写し板の包みを抱え、青糸の端を袖に隠す。紅葉は入口脇で立ち、息の長さだけで緊張を隠そうとした。宮司の孫は巻物の端に小さく栞を挟み、教師が壇上に上がるのを視線だけで追う。


 教師は静かだった。静かであることが、彼の最初の説得だった。荒れた空気は、大きな声を餌にして騒ぐ。静かな声は、腹の底に直接落ちて、聴き手の体温のほうを変える。彼はそのことを、たぶん職業の年輪のうちに骨まで学んできた。


 「——妻は、供物の前払いを選んだ」


 第一声。柊の背が浅くこわばる。会場の空気は、まるで外の雪に均すように、すうっと平らになっていった。


 「だから、穴が赤く祝福された。あなた方は恐れたかもしれない。だが、ここにいる誰も、あの赤を“汚れ”だと決めつけてはならない。私の妻は、村のために、未来のために、自ら先に歩いた。私情で言っているのではない。制度の外に、個人の勇気があるからこそ、制度は清浄を保てる」


 清浄。祝福。先に歩く。言葉は均衡の取れた皿に等間隔で盛られていて、どこから掬っても口当たりが良い。反論の隙間は、盛り付けの工夫で見えにくくなっている。


 紅葉は震えた。声が、ではない。胸骨の内側、心臓のすぐ上にある小さな筋が、ひゅっと引かれて緩み、また引かれた。「選んだって、どうして言えるの」


 教師は紅葉を見た。憐憫に似た優しさで、しかし眼差しの中に一切の重さを持たない種類の優しさで。「君たちが、楽になるために」


 楽。軽くする、という意味の楽ではない。考えをやめられる、という意味の楽だった。柊は歯の裏に血の味をほんの少し感じた。噛んだのか、噛んでいないのか、自分でも分からないほど微かな傷。


 「合意を、作るつもりなんだ」と宮司の孫が耳もとで囁いた。「匿名に寄りかかる集団の合意を、整った言葉で包んで、個人の声を“楽”に紛れ込ませる」


 なら、やるべきことは決まっている。柊は包みを解いた。羊皮紙の写し板。四隅に青糸。昨日まで、票は札の位置の座標として記録した。でも、今日は違う。今日、ここに投げ込まれる意志は、ただの小石であってはならない。


 柊は壇を見上げた。「今日の投票は、全員、自筆で一行を添えてください。字は上手でなくていい。名前や印は要りません。けれど、“そのとき胸の中で立ち上がった言葉”だけは、必ず書いてください。札は合唱の音符じゃない。声です」


 笑い混じりのざわめき。「字が汚い」「恥ずかしい」「だからこその匿名だ」——予想した反発は、想像と同じ角度で来た。教師は微笑を崩さない。反発という泡は、長い言葉で包んでしまえば細かく砕けることを、彼は知っている。


 紅葉が前に出た。腰から小さな筆を取り出し、写し板の端に膝をつく。掌の汗を雪で拭けば、紙は濡れる。濡れは墨を散らす。だから、彼女は汗のまま、筆を持った。字の最初の一本は、汗の重みを含むべきだ。


 ぎこちない字で、紅葉は書く。


 怖い。でも吊りたくない。


 筆圧は弱い。弱いが、止める位置が一定だ。看護に必要な節度が、そのまま字幅の節度になっている。柊は胸の内で「ありがとう」と言った。口に出さない礼は、彼女には必ず届く。届くほど長い時間を並んで歩いた。


 その一枚が基準になった。幼い字、震える字、細い字、事務的に整った字。短い吐息のような一行、言い訳のような一行、思い出の切れ端みたいな一行。票は声になった。合唱のために整えられた合成音ではなく、ばらばらの喉の高さと息の速度を持った声になった。


 「……こうしても、合意は作れる」と教師は言った。否定ではなく取り込み。柊は頷いた。取り込もうとするのなら、なおさら良い。整った言葉の外側に、いびつな音の余白を増やせば、合唱は割れて和音になる。


 宮司の孫は別の仕事をしていた。供物盤の穴の縁――あの乾いた赤の反応を、時間ごとに観察していく。指の腹で触れず、紙で触れる。羊皮紙の端を剃刀で薄く削ぎ、粉を軽く拾って、古文書の白い余白に置く。置いた粉は、油脂に触れると色が少しだけ濃くなる。粉の濃淡と時間の推移を見れば、血の“同意”が盤を養っているのか、それとも単なる汚れかが見えてくる。


 「やっぱり、養ってる」と宮司の孫。「赤は時間で痩せず、わずかに濃くなる。誰かが“よし”と頷いたたびに、粉は呼吸をするみたいに色を拾う。合意の匂いを、吸っている」


 教師は壇で新しい比喩を編む。「妻の同意は、私の同意だ。夫婦は二で一だ。だから、私がここで同意を述べるのは、彼女の言葉の代行に他ならない」


 宮司の孫は、巻物の注を指で開いた。古文の端、余白も余白に、虫に食われかけた小さな文字。彼はそれを音に直す。「“同意は、その者の声に限る。代理は原則、禁”。書き手の癖、筆の癖、呼吸の癖——それらを持たない同意は、同意とは呼ばない」


 紅葉は目を伏せ、拳を握る。代理が悪ではない。誰かの手を握って歩くことは、救いだ。でも、声だけは——最初の一音だけは——本人の喉で鳴らさないと、体が後からついてこない。


     ◇


 夜。柊の枕元に来た札は、占いだった。彼は躊躇せず教師を視た。結果は、黒。


 墨の黒は、紙の目を潰す。潰された目は、光を飲んで静かに沈む。柊は指の腹を紙から離せなかった。これを出せば、明日、盤は歌うように教師を飲み込むだろう。歌は合唱になる。整った言葉の合唱が、最後に最も整った標的を得て、陶酔のまま穴へ流れる。自分が刃を研ぎ、柄を握り、投げ入れることになる。


 投げない。——今は。


 柊は札を懐にしまい、灯を消した。暗闇のなかで呼吸を整える。呼吸は、合唱ではなく、和音だ。自分の呼吸と紅葉の呼吸と、犬の寝息と、宮司の孫のわずかな紙の擦れる音。その全部が重なって、夜を持ち上げる厚みになる。


 「先に、声を探す」と柊は言った。誰の? ——行方不明の妻の。


     ◇


 教師の家は、昨夜の血の線をまだ敷居の内側に残していた。雪が足跡を埋め直している。戸口の霜は形が良く、整った言葉のように見た目を飾る。柊は膝をつき、床板の筋を指で追った。長年の掃除の癖で、磨かれる場所と磨かれない場所に差がある。磨かれない場所の埃は、語る。歩かない動線、開けない板。


 寝台の裏板に、細い跡があった。爪で刻んだ線。規則的に五本セット。一本一本の間隔は、息と息の間くらいの短さ。紅葉が息を呑み、頷く。「日数だ。閉じ込められていた。区切りの五。指で刻む人は、手が使えない時に日を覚える」


 「どこへ」


 紅葉は床を撫で、宮司の孫が耳を床板に当てる。木の中の空洞は、風の通り道の音を持つ。乾いた音。そこに湿った音が混じれば、人がいる。彼は静かに首を上げ、目で一点を指した。囲炉裏の脇。板は薄く、手入れの行き届いた光沢を持つ——つまり、最近、触れられている。


 鍵。あの薄い舌。柊は懐から内鍵を取り出した。裏蓋に差した金具は、蓋だけのためのものではない。村の古い造作は、形を繰り返す。鍵穴の形は似ていて、少しずつ違う。違いは癖みたいなものだ。鍵は、癖を覚える。


 合った。軽い音。板が呼吸を覚え直すみたいに、わずかに膨らんで、外れた。


 下へ降りる匂いが、柊の顔を撫でた。湿り気、油の薄い香り、土の匂い、そして微かな燻り。紅葉が灯を掲げ、先に下る。「ゆっくりでいい。光は眩しくしない」


 狭い空間。寝台ほどの長さの床。布団ではなく、布。巻かれた布は、解けばすぐに包帯の幅になる。看護の布だ。そこに、細い身体が横たわっていた。頬はこけ、髪は束になり、唇は乾いて白い。けれど、胸は、上がり、下がっている。


 「——生きてる」


 紅葉の声は、目の中に直接降りた。彼女は膝をつき、声で触れ、手で触れずに、呼吸のリズムを合わせる。「吸って、吐いて。吸って。吐いて」

 宮司の孫が水を少し布に含ませ、唇に触れるか触れないかのところで湿りを置いた。置きすぎると、咽る。咽る喉は攫う。少ないほど、喉は自分で飲み方を思い出す。


 薄く開いた目に、光が入った。最初は、光を拒む目の筋肉がぎゅっと寄って、次に、拒むのをやめる筋肉が解けた。声は細かった。けれど、喉は自分で震え、空気を割った。


 「——私の同意は、私が言う」


 その一音一音は、冷えた石に落ちる水滴みたいに、はっきりと床の上に輪を作った。紅葉は息を吐き、頷いた。柊は背の筋がほどける音を、内側で聞いた。


 上へ戻ると、供物盤の赤が、すうっと褪せていった。粉は色を捨てるとき、いったん白よりも白くなる。白すぎる白の瞬間を過ぎると、ただの灰になる。養っていた赤は、養われるのをやめた。穴は呼吸をやり直し、拝殿は、その呼吸を受けてわずかに膨らんだ。


 匿名投票の合唱は、崩れた。崩れる音は、壊れる音ではない。形のないところに残っていた支えが、ほどける音だ。教師の整った衣は、裂け目を見せた。裂け目は、汚れではない。縫い目の前提だ。


 教師は、そこにいなかった。妻の声が自分の声の代行ではないと証された場から、彼は姿を消した。残ったのは、集会所での比喩と、壇に置かれた書きかけの原稿。そこには、最後の段落に、こうあった。


 ——誰かが代わりに言ってくれれば、君たちは楽になる。


 柊は紙を折り、朱の線で小さく囲んだ。楽の文字に、細い斜線を一本、引いた。楽は必要だ。呼吸のために。けれど、楽だけは刃になる。刃が悪いのではない。どこに収めるかが問題だ。


     ◇


 昼の会議は、短く終わった。誰も、議論の仕方をまだ思い出せていない。長い言葉の衣が脱げた後、身体はすぐには日差しに慣れない。紅葉は妻の脈を取り、宮司の孫は古文書の欄外に今日の日付と出来事を写し、写し板には新しい一行が増えた。


 こえは、こえが出す。

 かわりは、いらない。


 子どもの字だ。柱に刻まれたあの詩と同じ癖。筆の丸が二重になりがちで、細い線が途中で途切れ、呼吸が短い。柊はその一行に朱で薄く枠を引き、青糸の影をわずかに落とした。影は、声の居場所を示す。


 夕方、山の肩の灯は二つだけ点いた。三つのうち、一つは消えたまま。鈴は尾根道で一度だけ鳴り、細道では鳴らなかった。観客席は、座ることを覚え直している。座ることは、黙ることではない。黙ることは、座ることではない。別々の筋肉でやる運動だ。


 夜になる前に、柊は占い札を燃やさず、伏せたまま写し板の端に挟んだ。挟むことは、捨てることではない。捨てることは、選ぶことではない。選ぶために、置いておく。置くために、見せない。


 紅葉は拝殿の戸に青糸を渡し、鈴の舌をほんの少し折り曲げた。「今夜は鳴らなくていい。鳴ったら、来る。来たら、守る。守るけど、鳴らないなら、内側で呼吸を増やす」


 宮司の孫は火皿の砂を薄くならし、灰化した小札の残骸を一列に並べた。灰は軽い。軽いものは、意味の重さで動く。意味が重いときだけ、風に逆らう。


     ◇


 夜半、犬が一度だけ喉を鳴らし、拝殿の外に向けて短く唸った。鈴は鳴らない。青糸は静かだ。風は、雪の上で音を吸われている。


 その時だった。村の反対側、教師の家のほうから、火の音が上がった。火は、最初の一息で乾いたものを歓喜して、次の一息で湿ったものを嫌う。嫌う音は、腹の底に落ちる。柊は立ち上がり、紅葉と目を合わせる。彼女は頷き、宮司の孫は巻物を閉じ、犬は走った。


 教師の家は、炎になっていた。屋根はまだ落ちていないが、骨組みの影が炎の内側で歪む。雪は火の縁で湯気に変わり、蒸気は低く漂ってから星空へ伸びていく。


 教師の姿は、なかった。


 雪の上に、灰の帯が続いている。歩幅は狭く、しかし揺れが少ない。仮面の司祭が、外へ導く足跡。足跡の横に、細いさらさらの灰の線。紙の灰。灰手のあと。仮面の司祭は教師を連れたのか、教師が仮面の司祭を選んだのか——どちらでも、今夜は同じことだ。外へ行った。舞台の外へ。


 紅葉は火に近づき、袖で口を覆って咳をひとつ。彼女は火を恐れない。恐れないのではない。怖がり方を知っている。怖がり方を知っている人間は、火に近づける。


 宮司の孫は雪に膝をつき、灰の帯と足跡の重なりを見た。「灰は、軽いのに、重いふりをする。重いふりをする灰は、意志にくっつく。今夜、意志は二つ。面の意志と、言葉の意志」


 柊は灰の線の端に屈み、指先でそっと触れた。灰は、残ってくる。指の腹に、薄く。彼はそれを写し板の隅の小さな紙片に移した。移すことは、留めることではない。留めるために、移す。移した灰は、明日、また色を持つかもしれない。


 火は上がり、やがて一度、息を吐くように低くなった。人々が集まり、誰かが水を運び、誰かが雪を投げ込む。合唱は起きない。叫びは重ならない。ばらばらの声が、それぞれの高さで火を囲んだ。和音になりかける夜だ、と柊は思う。


 教師の家が炎上しても、教師の言葉は燃えない。言葉は、燃えにくい。燃やすのは、喉の筋肉の痛みであって、紙ではない。喉の筋肉は、誰のものだ。——それぞれの者のものだ。


 柊は拝殿のほうを振り返った。青糸は、月光で細く光っている。鈴は鳴らない。写し板の上には、子どもの字が一行、また増えていた。


 みた。

 たすかった。

 まだ、いきてる。


 「まだ、いきてる」——誰のこと? 妻のことか、自分のことか、村のことか。柊は頷いた。和音は、誰のものでもなく、誰のものでもある。だから、夜は長くてもいい。長い夜に、整った言葉の刃を鞘に収める場所を、今夜はやっと見つけかけている。


 仮面の司祭の足跡は、外へ。山の肩のほうへ。観客席に導く線だ。けれど、その先で、誰かが座布団をひっくり返すかもしれない。座ることは、見せられることではない。見せる側が用意した角度から、少しだけずれる自由が、今、村に戻り始めている。


 柊は息を整え、紅葉の肩に目で合図を送り、宮司の孫に頷いた。今夜は追わない。追うべきものは、明日、音になる。音になったとき、鈴が鳴る。鳴ったら、行く。それまで、拝殿を戻して、写し板の空白を開けておく。


 空白は、沈黙ではない。これから書かれる一行のための席だ。そこに、明日、誰かが書く。


 ——私の同意は、私が言う。


 柊はその言葉を、心の奥でもう一度、ゆっくりと反芻した。整った言葉の刃は、斬るためだけにあるんじゃない。固結びを切るためにある。切ったあとの紐を、結び直す手がここにある。紅葉の指、宮司の孫の筆、子どもの丸い字、犬の尾。結び直した紐は、青い糸に添えられ、鈴の舌は今夜、静かに眠る。


 夜風が、一度だけ村を撫でた。火の匂い、灰の匂い、油の匂い、土の匂い。それらが薄く混ざり合って、観客席のほうへ、細い帯になって流れていく。山の灯は、二度、瞬いた。面の向こうで、誰かが歯を食いしばる音が、もう音ではなく、ただの影になって遠のいた。


 整った言葉の幕が、一枚、降りた。次の幕は、和音で上がる。柊はそれを見届けるために、今夜は目を閉じずに呼吸を数えた。合唱ではない呼吸の数えかたで、ひとつ、ふたつ、みっつ。鈴は鳴らない。鳴らない音が、いつか村を守ることを、彼はやっと信じかけていた。

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