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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第7章

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「白の向こう」

 


 白霜外界では、距離という言葉があまり役に立たない。


 近いと思ったものが、次の瞬間には遠のく。

 遠いはずのものが、ある時だけ妙に手前へ寄る。

 歩いた長さと、実際に届いた深さが一致しない。


 だから門の前で何かが進んだかどうかを測る時、ただ何歩進んだかで考えるのは、たいてい間違いだった。


 大事なのは距離ではない。

 どれだけ深く、その場へ触れられたかだ。


 白霜外界の朝は、今日も白かった。

 空も、地平も、風も、見えるもの全部が、曖昧さを抱えたまま白く広がっている。


 だが今日の白は、昨日までの白と同じではないと、門前に立つ者ならもう分かる。


 応答のあと。

 受容配置のあと。

 接見配置が始まり、向こう側の場がごく薄くこちらへ重なったあと。


 門前は、また一段深いところへ進み始めていた。


 接見配置。


 言葉にすると、やはり少し大げさだ。

 だが実際、いま門前で行われているのは、それくらい重いことだった。


 ただ待つのではない。

 ただ受け取るのでもない。


 向こう側の王と、こちらが“同じ場へ立てる条件”を、場そのものに作っていく。


 それが今日の意味だった。


 ---


 黒翼庭の前進拠点では、夜明け前から静かな調整が続いていた。


 兵が騒ぐことはない。

 走る者もいない。

 怒鳴り声も響かない。


 それでも、見れば分かる。

 これはいつもの警戒線の入れ替えではない。


 護衛線が少しだけ薄くなる。

 記録杭の数がわずかに減る。

 祈りの幕がさらに後ろへ下がる。

 流通遮断線が目立たぬよう、外へ広がる。


 誰かを排するためではなく、場を一つの意味へ寄せるための調整だった。


 人の数は、実はそれほど減っていない。

 だが“ここには強い意志があります”と見せる圧だけが、きれいに削られている。


 中央を守るための配置ではなく、中央が揺れずに立つための配置。

 違いは細い。

 だが大きい。


 クロウは中央線の少し手前に立ち、その変化を見ていた。


 黒い外套の裾が朝の風に静かに揺れる。

 背後にある護衛の気配は、今日に限ってやけに遠い。


(薄いな)

(昨日も思ったが、今日はさらに薄い)

(いや、理屈は分かる)

(中央を守りすぎれば、それ自体が“こちらの圧”になる)

(分かるんだが)

(立つ側からすると、やっぱり少し落ち着かないな)


 接見配置とは、中央を強くすることではない。

 むしろ逆で、中央に余計な“強さの見せ方”を乗せないことだ。


 説明としては綺麗だ。

 綺麗だが、本人としてはやはり少し心許ない。


 もう少し普通に守ってもいいのではないか。

 王を中心に置くなら、普通はもう少し堅く囲むものではないか。

 と思わないでもない。


 だが、門前案件に“普通”を持ち込んだ時点で、だいたいろくなことにならない。

 それももう十分に学んでいた。


「落ち着きませんか」


 いつの間にか隣へ来ていたヴェルミリアが、静かな声で言った。


「顔に出ているか」


「少々」


「そうか」


「ですが、本日はそれでよろしいかと」


 クロウが目だけを向ける。


「どういう意味だ」


「本日は“守られた王”として立つ日ではなく、“揺れぬ王権核”として立つ日ですので」


 相変わらず、嫌なくらい正確で、少し腹の立つ言い方だった。


 揺れぬ王権核。

 意味は分かる。

 分かるが、仰々しい。


「私はただ立つだけだ」


「はい」


 ヴェルミリアはあっさり頷いた。


「ただ、その“立つだけ”の意味が、本日は非常に重いのですが」


「…知ってる」


 知っている。

 知っているから、こうして朝から気が重いのだ。


 ---


 夜が明け切る頃には、各国の配置もおおむね整っていた。


 帝国の境界線は、受容配置の時よりもさらに滑らかだった。

 前へ圧をかけるための形ではない。

 中央へ食い込むための形でもない。


 ただ、外から割り込む余計なものを静かに止めるだけの線。


 見ればすぐ分かる。

 これは攻める軍ではない。

 席を壊させないための軍だ。


 レオンハルトは境界の中ほどに立ち、今日も馬を降りたまま白を見ていた。

 甲冑は身につけている。

 だが、装飾は少ない。

 旗も必要最低限。

 竜騎の気配も後ろへ下げてある。


 帝国がここまで“武を薄く見せる”のは珍しい。

 それだけ、この段階の意味を本気で理解しているのだろう。


 王国側は、また違う意味で切実だった。


 第二圏近傍の記録線は、昨日よりさらに細い。

 杭の本数も減っている。

 記録具も必要最小限。

 見るための線ではなく、見誤らないための線へ削られていた。


 リセリアは結晶板を胸元に抱えたまま、一歩も前へ出ようとしない。

 オルフェンも、いつもならもっと近くで確かめたがる場面で、むしろ半歩後ろに立っている。


 学者としては、本能に逆らう配置だろう。


 もっと見たい。

 もっと近くで記録したい。

 もっと明確な形で掴みたい。


 そう思わないはずがない。

 だが今ここで必要なのは、知の前進ではなく、知の自制だった。


 連邦はもっと分かりやすい変化を見せていた。


 祈りの幕は薄く、白く、ほとんど風景の一部みたいに置かれている。

 祭壇はある。

 だが中心にはない。

 燭台の火も少ない。


 リュミエラは、中央に近すぎず、しかし遠すぎもしない位置に立っている。

 アシュレイはその少し外で、彼女を守るというより、彼女に余計な意味が乗りすぎないよう支える位置にいる。


 祈るために前へ出るのではない。

 祈りが場を乱さないよう、形を細くして残している。


 かなり奇妙な祈り方だ。

 だが、今の連邦にはそれが必要なのだろう。


 商盟はもっと露骨だった。


 メリゼアたちは前へ出ない。

 接見の価値がどれだけ高いかを知っているからこそ、むしろ引いている。


 流通線も、情報線も、私設観測の気配も、全部が少しずつ薄い。

 今ここで一番高いのは、“会えるかもしれない”という話題そのものではなく、その話題を下品に広げないことだと理解している顔だった。


 各国が、それぞれの“引き方”で同じ方向を向いていく。


 その光景を見て、クロウは内心でかなり率直に思っていた。


(嫌なくらい整ってきたな)

(本当に嫌なくらいだ)

(ここまで噛み合うと、いよいよ“会う”が現実になってくる)

(…重いな)


 ここまで来ると、もう抽象ではない。

 条件が揃い始めている。

 それは確かな進展だ。

 喜ばしいとすら言えるはずだ。


 なのに、気分は軽くならない。


 たぶん、進展だからこそ重いのだ。


 ---


 午前の早い時間に、一度だけ各国代表が中央近くで短い確認を行った。


 会議というほど大げさではない。

 軍議とも違う。

 もっと静かで、もっと細い確認だった。


 ヴェルミリアが中央線の一歩手前へ出る。


「本日も接見配置を維持します」


 短い。

 だが、それで十分だった。


「目的は一つ。向こう側とこちら側が、一部でも同じ場へ立てる局所位相を保つこと」


 レオンハルトが低く問う。


「中央は保てるのか」


「保ちます」


 答えたのはクロウだった。


 声は短く、静かだ。

 だが、それで十分伝わる。


「守りを捨てるわけではない。見せる圧を削るだけだ」


「理解した」


 レオンハルトはすぐに頷く。

 余計な反発はない。

 もう帝国も、ここで武を厚くすることが正解ではないと分かっている。


「王国は記録線をさらに絞ります」


 オルフェンが言う。


「見るな。見誤るな、でしたね」


「そうだ」


 クロウが短く返す。


「連邦は祈りの形を保ちます。ただし意味を前へ出しません」


 アシュレイが言い、横のリュミエラが静かに頭を下げる。


「商盟は雑音をさらに削ります」


 カイルが軽く一礼した。


「接見の価値はまだ売りません」


「助かる」


 クロウが言うと、カイルは少しだけ目を細めた。


「でしょうね」


 軽く聞こえるが、本質は外していない返しだ。


 最後にヴェルミリアが静かに告げた。


「黒翼庭は中央線を維持します。ただし“来てもよい場”としての見せ方を優先し、“押し返す場”にはしません」


 誰も勇ましいことは言わない。

 誰も大きな宣言はしない。

 それでいい。


 いま門前で必要なのは、熱ではなく精度だった。


 ---


 配置の維持と微調整が終わったあと、白の揺れ方が少しずつ変わり始めた。


 最初に気づいたのは、やはり王国だった。


 リセリアが結晶板を見たまま、ほんのわずかに呼吸を浅くする。


「…変わりました」


「どう変わった」


 オルフェンが問う。


「白が浅くなっていません」


「ええ」


「でも、位相のぶれがさらに減っています。昨日よりも深いところで噛み合っています」


 それは昨日の“重なり”とは少し違う反応だった。


 昨日は、向こう側の場の境界がこちらへごく薄く重なった。

 今日はその重なりが、さらに内側へ触れている。


 整いではない。

 受容でもない。

 もっと中心へ向かう静けさだった。


 連邦側でも、リュミエラが胸へ当てた手を少し強く握った。


「違います…」


 小さな声が漏れる。


 アシュレイが横を見る。


「何がだ」


「昨日は、ただ場が重なっていました」


「今日は?」


「静けさが、どこかへ集まっています」


 彼女は目を閉じたまま続ける。


「広いだけじゃないんです。中心があります」


 その言葉に、アシュレイも黙る。


 中心。

 それが何を意味するのか、もう誰も薄々分かっていた。


 ---


 帝国側でも、同じ変化は別の形で捉えられていた。


 レオンハルトは境界から中央を見たまま、場の重さが変わったことを感じていた。


 前へ来たわけではない。

 だが、白の向こうに“核”がある時の圧に似ている。


 兵には分からないだろう。

 だが長く戦場の空気を読んできた者には、中心を持つ場の重みが分かる。


「殿下」


 エルマが隣へ来る。


「王国と連邦、ほぼ同じ結論です」


「向こうに座がある、か」


「はい。正確には“そうとしか説明できない中心性”です」


「回りくどいな」


「学者らしいでしょう」


 それには少しだけ口元が動いた。


 回りくどい。

 だが、回りくどいからこそ信用できることもある。

 無理に断じず、それでもそうとしか見えないと言っているのだから。


「なら次は」


 レオンハルトが低く言う。


「その座が見えるかどうかだな」


「ええ」


「そして見えた時、もう門前だけの案件ではなくなる」


 それは帝国の現実感覚だった。


 応答があった。

 王がいる。

 そしてその王の座が景色として見えるなら、それはもう北方均衡だけの話では済まない。


 世界そのものの前提が変わる。


 ---


 午前が深まるにつれて、門前の白は昨日よりさらに深いところで静まり始めた。


 派手な変化はない。

 風もある。

 冷気もある。

 見た目の白さも、ぱっと見では変わらない。


 それでも、場にいる者なら分かる。


 今日は白の奥に、“ただ広がっているだけではないもの”がある。


 白がどこかへ向かっている。

 いや、向かうというより、静けさが一点へ集まっている。


 クロウは中央に立ったまま、その変化を受けていた。


 昨日の重なりは、向こう側の境界だった。

 なら今日は、その内側が少し見えてもおかしくない。


(来るのか)

(いや、見えるだけかもしれない)

(でも、昨日よりは深い)

(白の奥に、集まる感じがあるな)

(…本当に座でもあるのか)


 その時だった。


 白の奥で、ごくわずかに静けさが沈んだ。


 白は濃くならない。

 浅くもならない。

 ただ、ある一点へ向けて“揃う”。


 その揃い方が、今までと決定的に違った。


 広がる白ではない。

 中心を持つ白だ。


 リセリアが息を呑む。


「見えます」


 声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。


「何がだ」


 オルフェンが問い返す。

 問い返すが、たぶん彼自身も分かっている。


「座です」


 リセリアが言った。


「玉座、とは断定できません。棺とも違う。壇でもない」


「ですが」


「王権の中心です」


 その言葉とほとんど同時に、リュミエラも胸へ当てた手を強く握った。


「…あります」


 アシュレイが振り向く。


「お前にもか」


「はい」


「静けさが、そこへ集まっています」


 帝国ではエルマが、思わず小さく息を止めた。


「殿下…」


「ああ」


 レオンハルトの声も、普段よりわずかに低い。


「見えたな」


 商盟側では、メリゼアすらすぐには言葉を出さなかった。

 カイルが横で小さく呟く。


「本当に、あるんですね」


「…ええ」


 彼女の返事も、今日はやけに静かだった。


 ---


 白の奥にある座は、はっきりした輪郭を結んでいたわけではない。


 それでも、見た者には分かる。


 玉座のようでもある。

 棺のようでもある。

 眠りを置くための台座のようでもある。


 白でできているわけではない。

 むしろ周囲の白が、その中心だけを避けるように静まり、そこへ集まっている。


 そこに何かが“置かれている”のではない。

 そこがあるから、白がその形へ整っている。


 クロウは、その座を見ていた。


 妙な既視感ではない。

 懐かしさでもない。

 もっと静かな理解だった。


 あれが、ルシエルの席だ。


 ただ眠るための場所ではない。

 まだ終えてはならないものを、白き眠りの中で留め続けるための王権の中心。


(そういう場所か)

(ただ座ってる王じゃないな)

(あそこで、何かを保っているのか)

(…重いな)


 白き王の役割は、まだ全部は分からない。

 だが少なくとも、“ただ眠っていただけではない”ことだけは、もう十分に伝わる。


 ---


 その時、白の座の周囲で、ごく薄い揺れが起きた。


 応答ではない。

 言葉でもない。

 だが、ただ見せただけでもなかった。


 座の周囲の白が、ごく静かにこちらへ沿う。


 まるで**「ここまでなら見せてよい」**と返しているような揺れだった。


 クロウは息を止める。


 向こう側は、座の存在を隠し切らなくなった。

 それはつまり、接見配置がさらに深く届いたということだ。


「…進んだな」


 小さく呟く。


 ヴェルミリアがごく低い声で答える。


「はい」


「昨日は場の境界」


「今日は王権の中心」


「明日は」


 そこまで言って、クロウは言葉を切った。


 明日、何が来るのか。

 それを口にするのは、まだ少し早い気がしたからだ。


 だが、皆も同じことを考えているだろう。


 座が見えた。

 なら次は、その座にいる王そのものが見えるのではないか。


 ---


 今日もまた、観測の切り上げは早かった。


 欲を出す段ではない。

 今日は“白の向こうに座がある”ことが見えただけで十分だ。


 いや、“だけ”ではない。

 それだけで、世界の前提を変えるには十分すぎる。


「ここまでだ」


 クロウが静かに告げる。


 誰も逆らわない。


 王国は結晶板を抱えたまま、興奮と恐れの混じった顔で下がり、連邦は祈りの形を崩さぬように退き、帝国は境界線を保ったまま静かに後退し、商盟は流れをさらに細くして散っていく。


 その全部が、昨日よりさらに慎重だった。


 白の向こうに座がある。

 それを見た以上、次の一歩の重さはまた一段増してしまったからだ。


 ---


 夜。

 黒鴉城ネヴァーグレイヴの小会議室で、クロウは記録板の上に浮かぶ簡易図を見ていた。


 白。

 重なり。

 中心。

 座。


 王国は“王権の中心”と記した。

 連邦は“静けさの集束点”と書いた。

 帝国は“場の核”と整理し、商盟は珍しく比喩を使わず“中心座標”とした。


 言葉は違う。

 だが意味はほぼ同じだ。


 白の向こうに、王の席がある。


「…見えたな」


 ぽつりと出る。


 向こう側はもう、概念だけではない。

 応答もあった。

 座も見えた。


 なら次は、その座にいる王を見る番だ。


 そう思うと、重い。

 非常に重い。

 だが、不思議と引き返したい感じではなかった。


 むしろ、ここまで来ておいて見ないまま終える方が、たぶんずっと落ち着かない。


「陛下」


 扉の外からヴェルミリアの声がした。


「何だ」


「本日は、昨日よりさらに白の奥を見ておられました」


「そうか」


「はい」


 少しだけ間があってから、彼女は続ける。


「目を逸らしたくないお顔です」


 クロウは小さく息を吐いた。


「…否定はしない」


 向こうに座がある。

 そこに王がいる。




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