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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第5章

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「連邦は揺れている」

 


 聖冠連邦アルディウスでは、意味は力だ。


 剣の数より先に、何をどう呼ぶかが重い。

 異端か、奇跡か、試練か、救済か。

 その名が定まれば、人も軍も祈りも、一気に同じ方向へ動く。


 連邦において言葉は、単なる説明ではない。

 それは命令であり、秩序であり、正しさの輪郭そのものだ。


 神敵と呼べば、討つべきものになる。

 奇跡と呼べば、ひれ伏すべきものになる。

 試練と呼べば、耐え抜く意味が生まれる。

 救済と呼べば、人は自ら膝を折る。


 だからこそ、名が置けないものは厄介だった。


 今の黒翼庭が、まさにそれだった。


 黒翼の終王。

 白霜外界。

 まだ見えぬまま近づく眠りの気配。

 そして、おそらくは何かが“立った”という感じ。


 感じ、というのがまた最悪だった。


 見たなら断じられる。

 聞いたなら教義へ織り込める。

 触れたなら、聖職者も騎士も異端審問も、それぞれ自分の言葉を持てる。


 だが、感じただけでは足りない。

 足りないのに、無視もできない。


 強い言葉を置けば、何かを取りこぼす気がする。

 置かなければ置かないで、黒翼庭だけが先に形を持ち始める。


 それが今の連邦にとって、一番嫌な揺らぎだった。


 ---


 聖都の朝は、今日も鐘の音で始まった。


 高い尖塔から広がる鐘は、いつも通りの調子で都の空気を震わせる。

 白い石壁。

 高窓。

 回廊。

 祈りに向かう人々の足取り。

 そのすべてが、連邦らしく整っている。


 だが、その震えの中に、最近は前より少しだけ“届ききらないもの”が混じる。


 鐘は都の中へは届く。

 だが、北の方角にだけは、何か別の沈黙が残る。


 それは音の届かなさではない。

 意味の届かなさに近い。


 聖女リュミエラは、朝の祈りを終えたあともしばらく祭壇の前に残っていた。


 高い天井。

 白い石柱。

 色硝子を透けた淡い光。

 祭壇に落ちる静かな影。

 祈りの言葉を吸い込んだ石床の冷たさ。


 どれも変わらない。

 どれも、昨日までと同じように整っている。


 それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。


 以前より近い。


 その感覚は、もうごまかしきれないところまで来ていた。


 近いと言っても、足音が聞こえるような近さではない。

 目の前に立っているわけでもない。

 むしろ逆で、まだ眠っている。

 まだ向こう側にいる。


 それでも、遠いままでいてくれなくなっている。


 この感覚をどう説明すればいいのか、リュミエラ自身にも分からなかった。


 何かがこちらへ歩いてきたのではない。

 こちらが近づいたのでもない。

 けれど、遠かったものが、遠いだけではいられなくなっている。


 そうとしか言いようがなかった。


「…何が立ったのでしょう」


 また、小さく口からこぼれる。


 自分でも、その言い方が変だと思う。

 だが一番近いのがそれだった。


 何かが起きた、ではない。

 何かが現れた、でもない。

 近づいた、とも違う。


 立った。

 向こう側にあったものが、少しだけ“こちらへ意味を持ち始めた”。


 そんな感じがする。


 背後で、控えていた若い修道女が気遣わしげに声をかけた。


「聖女様、お加減でも」


「いえ」


 リュミエラはやわらかく首を振る。


「少し、考えごとをしていただけです」


 それも嘘ではない。

 ただ、その考えごとがここ数日ずっと同じ方向を向いているだけだ。


 黒翼庭。

 黒翼の終王。

 そして、まだ見えない眠りの気配。


 考えたところで、答えが簡単に出るものではない。

 それでも考えずにはいられない。


 聖女という立場は、信じることを求められる。

 だが今の黒翼庭に対しては、信じるより先に“まだ決めきれない”という感覚の方が強かった。


 ---


 同じ頃、聖都の一角にある騎士訓練場では、アシュレイが朝の打ち込みを終えていた。


 木剣を打ち合わせる乾いた音が止み、冷たい空気が戻る。

 汗を拭いながら息を整える若い聖騎士たち。

 踏みしめられた砂。

 白い息。

 まだ朝の早い光の中で、訓練場の輪郭だけがきりりと浮いていた。


 その中央で、アシュレイはまだ木剣を手にしたまま立っていた。


 勇者と呼ばれる立場にある。

 だが本人としては、その肩書に酔ってはいない。


 北方禁域以後はなおさらだった。


 黒翼の終王を見た。

 あの王が単純な神敵の言葉だけでは収まりきらないことも知った。

 恐ろしく、重く、敵である可能性を否定はできない。

 だが、だからといって“はい神敵ですね、討ちましょう”で済むほど簡単でもなかった。


 だから今の黒翼庭を前にすると、どうしても“名前だけ先に置きたくない”という気持ちが強くなる。


 その時、訓練場の入口から副官が駆け寄ってきた。


「アシュレイ殿」


「どうした」


「聖女様がお呼びです」


 またか、と思う。


 だが嫌ではない。

 むしろ、リュミエラが“呼ぶべきだ”と判断した時点で、何かしら放っておけない違和感が増しているのだろうと分かる。


「今行く」


 木剣を返し、外套を羽織る。

 回廊を歩きながら、アシュレイは窓の外を見た。


 聖都の空は穏やかだった。

 白い石壁、整った街並み、祈りと秩序の都。

 それは連邦そのものの顔でもある。


 その外側にある黒翼庭だけが、最近はどうにも穏やかではない。


(また進んだのか)


 胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。


 分からない。

 だが、分からないままで進んでいる気配だけはある。

 それが嫌だった。


 はっきり見えた危険なら、剣を取れる。

 名が定まった脅威なら、連邦は迷わず動ける。

 けれど今の黒翼庭は、輪郭だけが先に濃くなり、名前は置けず、意味だけが重くなる。


 戦士としても、あまり気持ちのいい相手ではなかった。


 ---


 リュミエラの私室で顔を合わせた時、アシュレイはすぐに彼女の様子を読み取った。


 顔色が悪いわけではない。

 取り乱してもいない。

 ただ、落ち着いた中に、いつもより一段深い迷いがある。


 聖女としての整った静けさの、その奥にだけ、小さな揺れが残っていた。


「強くなったか」


 アシュレイが単刀直入に問う。


 リュミエラは少しだけ目を伏せたあと、頷いた。


「はい」


「昨日より?」


「昨日より」


「前より“近い”」


「ええ」


 短いやり取りだった。

 それで十分、事態の重さは伝わる。


 アシュレイは腕を組み、しばらく黙った。


 気配だけ。

 名もまだない。

 だが近くなる。


 それは普通の怪異の動き方ではない。

 もっと別の、“こちらの認識の方が向こうへ引かれていく”感じに近い。


「また、何か立ったような感じが?」


 彼が聞くと、リュミエラは少し驚いたように顔を上げた。


「…そうです」


「やっぱりか」


「分かるのですか?」


「分かるってほどじゃない」


 アシュレイは苦く笑う。


「でも最近の黒翼庭って、そういう変な言い方の方が逆に近いだろ」


 それはかなり本音だった。


 起きる。

 現れる。

 近づく。

 そういう普通の動詞だと、今の黒翼庭は妙に嘘っぽくなる。


 立つ。

 定まる。

 遠いままでいてくれなくなる。

 そういう変な言い方の方が、まだ近い。


 リュミエラは小さく頷いた。


「ええ。まさに、そんな感じです」


「門みたいなもの、かもしれないな」


 そこまで言ってから、アシュレイは少しだけ眉を寄せた。


 根拠はない。

 ただの直感だ。

 だが北方禁域からこっち、何となく思いついた嫌な予感ほど、妙に筋の通る形で当たりやすい。


 リュミエラは、その言葉を胸の中で反芻した。


「門…」


 その語を口にした瞬間、胸の奥であの違和感が少しだけ動いた。


 それは肯定とも否定とも言えない。

 ただ、その語に対して“完全な見当違いではない”とでも言うような、ひどく曖昧な反応だった。


 彼女はそっと息を吐く。


「分かりません」


「だろうな」


「でも、今までより近い気がします」


「それもだろうな」


 二人の会話は、確信ではなく確認の積み重ねだった。

 けれど、今の連邦に必要なのはそれかもしれない。


 断言より、まず崩れない違和感の輪郭を取る。

 名前より先に、形の気配を掴む。


 連邦にとって、それは本来あまり得意なやり方ではない。

 だが、今の黒翼庭はそれを求めている気がした。



 ---


 一方、連邦には連邦の速度で“名前を置きたい者”たちもいる。


 異端審問局。


 白い石壁の奥、窓を細く絞った執務室で、グラウスは机の上の断片報告を見下ろしていた。


 帝国筋から流れた薄い噂。

 商盟経由で混ざった価格の高い断片。

 魔導王国の古記録収集強化。

 そして、聖女リュミエラの“北方感応”が以前より強まっているという内部報告。


 どれも単体では断定しにくい。

 だが、束ねれば十分に嫌な絵になる。


「進んでいる」


 彼は低く言った。


 部下が無言で頭を垂れる。


 黒翼庭は止まっていない。

 白霜外界の先で、何か次の段階へ手を伸ばしている。

 それだけは、ほぼ確信だった。


「問題は何だと思う」


 グラウスが問う。


 部下は少しだけ迷ってから答えた。


「北方の異変が、単なる神敵の活動拡大ではない可能性、でしょうか」


「半分だ」


 グラウスは切る。


「もう半分は」


「それを知りながら、まだ誰も正しい名を置けていないことだ」


 そこに苛立ちが混じっていた。


 名が定まらない。

 だから動きも揃わない。

 揃わないから、相手へ意味を与えすぎる余地が残る。


 グラウスはそこを最も嫌っていた。


 黒翼の終王が厄介なのは、理を持つように見えることだ。

 ただの災厄なら、斬ればいい。

 ただの怪異なら、祓えばいい。


 だが“理のある神敵”は、人を迷わせる。


 そして今、その迷いがさらに広がろうとしている。


「門、かもしれません」


 部下が慎重に言った。


 グラウスの視線が上がる。


「なぜそう思う」


「近づいたのではなく、向こうが意味を持ち始めたという感応報告が…」


「門なら、なおさらだ」


 グラウスは低く言った。


「門なら、何かを通す」


 その一言で室内の空気が冷える。


 通す。

 その言葉だけで、連邦の中では意味が重すぎる。


 異端が通るのか。

 災厄が通るのか。

 あるいは、神話そのものが現実へ通じるのか。


 どれであっても、審問長としては好ましい話ではない。


「猊下は慎重です」


 部下がおそるおそる言う。


「勇者殿も、聖女様も」


「知っている」


 グラウスは苛立ちを隠さない。


「だから遅い」


 それが彼の本音だった。


 慎重は尊い。

 だが、慎重すぎれば相手に先に形を取られる。

 いま北方禁域で起きているのは、まさにそれではないか。


「監視を増やせ」


「どこまで」


「意味の境界までだ」


 部下は一瞬だけ困った顔をした。

 意味の境界、というのは連邦らしい言い方だが、実務としては厄介だ。


「神学班にも整理を急がせる」


 グラウスは続ける。


「“神敵”“災厄”“王権”の三つで収まらぬなら、四つ目の整理が要る」


 それが、異端審問長としてのやり方だった。


 まず名を作る。

 名ができれば、人を動かせる。


 見えていないからこそ、先に言葉を作る。

 それは危うい。

 だが、彼にとっては危うさより統一の方が重要だった。


 ---


 一方、法王庁ではもっと静かな速度で話が進んでいた。


 法王ユリオス十三世は、リュミエラとアシュレイから話を聞き終えたあと、しばらく長く黙っていた。


 老いた手が、ゆっくりと机の上で重なる。

 部屋には余計な飾りが少なく、光も穏やかだった。

 その静けさが、この老人の物の考え方そのもののようでもある。


「立った感じがする…ということか?」


 彼はその言葉を繰り返した。


「はい」


 リュミエラは答える。


「見えたわけではありません。ですが、その表現が一番近いと思いました」


「近づいた、ではなくか?」


「ええ」


 アシュレイも補足する。


「何かが“向こうだけのものではいられなくなっている”感じです」


 ユリオス十三世はそこで、ゆっくりと目を閉じた。


 彼もまた、北方禁域の件に関しては簡単な言葉を置きたくない一人だった。


 黒翼の終王は、神敵と断じれば済む顔をしていない。

 かといって、放置してよいとも言えない。

 そして今、新しい何かがそこへ重なろうとしている。


「門」


 法王は静かに言った。


 アシュレイとリュミエラが顔を上げる。


「可能性としては、ありますな」


「猊下もそう思われますか」


 アシュレイが問うと、法王は目を開いた。


「立つ、という言い方が気にかかります。立つものは、地ではなく構えを持つ」


 いかにも法王らしい言葉だった。


「構えを持つものは、境界になることが多い」


 つまり門だ。


 リュミエラは胸の奥で、またわずかにあの反応が揺れるのを感じた。

 やはり完全な見当違いではない。

 だが、それ以上の明瞭さにはならない。


「名を急ぐな」


 ユリオス十三世はゆっくり言った。


「だが、形からも目を逸らすな」


 それが彼の結論だった。


 グラウスなら、ここで神敵の名を厚くする。

 だが法王は違う。


 まだ見えぬものに対して、見たい形を先に押しつけるな。

 それは信仰においても、時に必要な慎重さだった。


「はい」


 リュミエラが頷く。


 アシュレイも同じく頭を下げた。


 だが三人とも分かっている。


 この慎重さは、連邦全体の速度ではない。

 あくまでこの部屋の速度だ。


 外へ出れば、もっと強い言葉、もっと早い断定を欲しがる者たちが待っている。


 ---


 その夜、聖都の高い回廊を一人で歩きながら、アシュレイは窓の外を見ていた。


 整った白の都。

 静かな灯り。

 平穏な夜。


 だが、その外にある北だけがひどく遠く、そして遠いままで済まない。


「門、か」


 小さく呟く。


 まだ断言はできない。

 でも、もしそうなら話は一段重くなる。


 門は通す。

 門は繋ぐ。

 門は、向こう側をこちら側へ近づける。


 それが黒翼の終王の先にあるのだとしたら。

 しかもあの王が、いまそれを“急がずに見ている”のだとしたら。


「…ますます名前だけ先に置けないな」


 苦い声だった。


 だが本当にその通りだった。


 神敵。

 王。

 災厄。

 どの言葉も足りない。


 足りないのに、言葉を置かなければ連邦は動けない。

 そこが苦しい。


 リュミエラの感応も、前より明らかに深まっている。

 北方禁域は確実に、次の段階へ進んでいる。


 それを感じながら、なお“まだ分からない”と言わねばならないのは、勇者としてあまり気持ちのいい立場ではなかった。


 ---


 同じ頃、リュミエラは自室の窓辺に立っていた。


 聖都の夜は静かだ。

 だが、その静けさの奥へ、またごくわずかに“遠い眠り”の感覚が混じる。


 以前より、少しだけ形がある。


 門。

 境界。

 向こうだけにあったものが、こちらからも無視できない位置に立つ感じ。


「まだ眠っているのに」


 小さく呟く。


「遠くない」


 その矛盾した感覚が、胸に残る。


 目覚めてはいない。

 だが届き始めている。


 その在り方は、どこか黒翼の終王とも違う。

 クロウは既に輪郭を持っている。

 恐ろしく、静かで、はっきりしている。


 今感じるものは、もっと白い。

 もっと曖昧で、眠りの中にある。


 だからこそ、怖いのかもしれなかった。


「門のようなものが…」


 言いかけて、そこで止める。


 まだ断言したくない。

 まだ、したくない。


 けれど、その言葉を胸の中へ戻しても、反応は消えなかった。


 それが今の連邦の正直な姿だった。


 名はまだない。

 だが、気配だけは濃くなる。


 それは祈りにとって、ひどく扱いづらい形の近さだった。


 祈るにはまだ曖昧で。

 拒むにはまだ確信が足りず。

 それでも胸の奥に残り続ける。


 白い都の夜の中で、北方禁域だけが少しずつ“こちらへ意味を持ち始めている”。


 そのことを、リュミエラはもう、無視できなくなっていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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