「応答を待つ」
門前まで来た。
役割も少し見えた。
足りないのは、向こうからの応答。
そこまで整理された翌日、クロウは珍しく朝から何もしたくなかった。
もちろん実際には、何もしないわけにはいかない。
何もしないで済むなら、たぶんとっくにそうしている。
だが気分としては、少なくとも半日は椅子に座って、熱い飲み物でも手に持ちながら、できれば誰にも「では次ですが」と言われたくなかった。
なぜなら、次が見えてしまっているからだ。
見えてしまっている次ほど面倒なものはない。
(門を見つけた)
(役割も分かった)
(こちら側の条件もだいぶ揃った)
(で、次は“向こうからの応答”)
(いや、何だその最後の工程)
(誰が仕様書を書いたんだ)
だいぶ文句を言いたい。
たぶん言っても仕方がない。
言う相手もいない。
黒鴉城ネヴァーグレイヴの朝は静かだ。
静かだが、その静けさの中に“仕事は減っていません”という気配がちゃんとある。
ひどい城である。
便利だが。
廊下は薄暗く、磨かれた黒石の床に、細い窓から差し込む朝の光が冷たく伸びていた。
遠くで誰かの足音がしても、それはすぐに壁へ吸われる。
城の中はいつもそうだ。人が多くても賑やかにならない。
声は低く、報告は短く、扉の開閉すらどこか遠慮がちで、何か大きなことが動く時ほど、かえって全体の音が減る。
最近は特に、その傾向が強かった。
補助宮。
七柱。
白霜外界。
黒い門。
中継遺構。
そして、向こうからの応答。
言葉だけ並べても、すでに十分重い。
その重さを、この城の者たちはきちんと理解しているのだろう。
だからこそ余計な音を立てない。
その配慮はありがたい。ありがたいが、静かすぎるとそれはそれで“面倒が確実に進行しています”感が増すので、複雑でもあった。
小会議室へ入ると、やはりすでにヴェルミリアがいた。
「おはようございます、陛下」
「ああ」
いると思った。
そしてたぶん、かなり整理してきている。
その顔だ。
彼女はいつも通りだった。
漆黒の髪は乱れず、紫紺の瞳は冴え、卓上に並べられた記録板や地図の位置まで無駄がない。
その整い方を見ると、こちらまで少しだけ背筋を正したくなるから不思議だった。
「休まれましたか」
「少しは」
嘘ではない。
ただし“十分に休んだ”とは言っていない。
ヴェルミリアはそこを深くは追及せず、机上の記録を整えた。
追及しない代わりに、こちらが今どの程度の余裕で座っているかは、おそらくもう把握している。
そういう女だった。
「門前で得た記録の第二整理が終わりました」
「言え」
クロウは椅子に座りながら言った。
いまの自分はかなり素直に“聞きたくないな”と思っているが、顔はたぶん平静だ。
最近そこだけは本当に上達した。
まったく嬉しくない。
「まず、白霜外界と門の関係ですが」
ヴェルミリアが最初の板を開く。
「門が固定された後、白霜外界側の記録揺れは明らかに減衰しております」
「はい!」
バルザードがどこからともなく入ってきて言った。
やはりいた。
いてほしくないわけではないが、出現の仕方が少し怖い。
この男、最近本当に気配を殺すのがうまくなっている。
技師としてその技能が必要かどうかは知らない。
「揺れそのものが消えたわけではありません。しかし“門がある前提での揺れ方”へ変わりました!」
「簡単に言うと」
クロウが促す。
「白霜外界が、門を中心にして少しだけ“場所”になり始めたのです!」
それは分かる。
前回、門前だけ妙に空気が落ち着いた。
白が門の輪郭へ沿って整い直していた。
足元の感覚も、景色の奥行きも、そこだけは“揺れている白の中に、固定点がひとつ刺さっている”ようだった。
あれを別の言い方で説明するなら、たしかにそうなのだろう。
「つまり」
クロウが低く言った。
「門前だけは、向こう側の理屈で地図が引き直されているわけか」
自分でも、少し嫌になるくらいしっくり来る表現だった。
バルザードは大きく頷き、ヴェルミリアは静かに目を伏せる。
「はい。まさに」
やめてほしい。
“まさに”が増えると、自分の適当な整理がどんどん正式見解みたいになる。
(いや、適当ではない)
(たぶん筋は通っている)
(だが、筋が通っているからこそ次の面倒に繋がるんだよな…)
そこが本当に嫌だ。
---
さらに整理を進めると、もう一つの事実が浮いてきた。
「門前で、陛下が役割を言い当てられた直後」
ヴェルミリアが次の記録板を示す。
「門表面の光は、それまでより長く持続しております」
「…ああ」
クロウは小さく頷いた。
あれは自分でも覚えている。
“起こすための門ではない”
“眠っているものを、こちらへ固定するための門だ”
そう言った直後、門の表面が一度、そして二度、応じるように光った。
あれは印象に残る。
残るが、できれば“偶然だといいな”と思っていた。
どうやらあまり偶然ではなさそうだ。
「理解への反応、ですか」
セラフィナが静かに言った。
彼女もいつの間にか室内にいた。
壁際で立っているだけなのに、妙に室内の空気に溶けていて、最初からそこにいたようにも見える。
この城、本当に全員そろうのが早い。
「そう見るのが自然かと」
ヴェルミリアが答える。
「門は侵入者を拒んでいるというより、“接続対象としての理解が正しいか”を見ている節があります」
聞けば聞くほど、いけ好かないほど筋が通っている。
補助宮もそうだった。
王権の施設は、力があるかどうかだけでは動かない。
何をしに来たか、何を理解しているか、どこまで見極めているか、そういう“雑に数えられないもの”まで見ている。
「面倒だな」
思わず言う。
今のはかなり率直な感想だった。
力が要るなら鍛えればいい。
魔力が要るなら用意すればいい。
だが“理解が合っているかを見られる門”は、その、何というか、とても面倒だ。
試験官みたいで嫌である。
しかも、問いそのものをこちらへ渡してくれないタイプの試験官だ。最悪だ。
セラフィナがやわらかく微笑んだ。
「はい。とても」
そこは本当に共感しているらしい。
少しだけ救われる。
---
その日、黒翼庭の中だけでなく、外の観測線でも似た結論が広がっていた。
魔導王国の前進観測点では、オルフェン、リセリア、ザイードたちが門固定後の残滓波形を洗っていた。
結晶板の上で、門周辺だけが妙に“落ち着いた揺れ”を見せている。
それは、乱れていないわけではない。
だが、乱れ方に中心がある。
渦の中心のように、ある一点を前提にして周囲の不安定さが組み直されている。
「…整列していますね」
リセリアが言う。
言葉を選んだ末に、それが一番近かった。
白霜外界の波形は本来、もっと散漫だ。
近いようで遠い。
動いたようで動いていない。
複数の観測者が同じ現象を見ても、微妙に異なる意味へ引きずられていく。
だが門の周囲だけは違う。
揺れていても、揺れが門へ従っている。
「ええ」
オルフェンも頷く。
「まだ不安定です。しかし、無秩序ではない」
白霜外界そのものは、いまだに不安定なままだ。
けれど門を中心にした一定範囲だけは、まるで別の規則へ従い始めたように見える。
「ならやはり」
ザイードが低く言った。
「中継遺構ですな」
今度は誰も異論を挟まなかった。
補助宮は終王側の施設だった。
今回の門は眠りの側へ繋がる施設。
役割は違う。
だが“王権本体へ至る前の段階を支える遺構”という意味では、同種と見ていい。
「問題は」
オルフェンが言う。
「ここから先でしょう」
リセリアもすぐに頷いた。
「門は立ちました。固定条件も見えつつあります。ですが、まだ“向こう側”は返していない」
「応答がない」
「ええ」
その言葉が重い。
もし門が中継遺構なら、こちら側が正しく門を理解し、固定条件を整え、接続の意志を持つだけでは足りない。
向こう側――眠りの王権の側からも何らかの応答が必要になる。
それは補助宮の時より、さらに厄介だ。
補助宮には主がいた。
主認証が通れば、少なくともこちら側だけで開ける段階があった。
だが今回の門は違う。
こちらがいくら正しく近づいても、向こうが眠ったままなら最後までは繋がらない。
「魔導王国としては」
リセリアが静かに言う。
「最も歯痒い段階ですね」
オルフェンは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。ここから先は、観測だけでなく“待つ”も必要になる」
「嫌ですね」
「非常に」
学者は待つのが苦手だ。
いや、学者に限らないかもしれない。
ただ知りたい者ほど、“最後の片側が自分ではどうにもならない”という状況に弱い。
ザイードは記録板へ指を置きながら言った。
「それでも、もう向こう側が“いない”とは言えませんな」
そこが大きかった。
応答がない。
だが応答が必要だと分かった時点で、もう“向こう側そのものが存在しない”という線は薄い。
なら、次は応答を待ち、あるいは引き出す条件を探る話になる。
学者としてはたまらない。
案件としては最悪だ。
---
商盟でもまた、門の意味は少しずつ変わり始めていた。
カイルのもとには、今まで以上に“値段にしにくい報告”が集まっている。
黒い門が立った。
白霜外界の揺れが少し落ち着いた。
黒翼庭はなお欲を出していない。
魔導王国は外から構造を読んでいる。
帝国は踏み込まないまま、観測の密度だけを上げている。
どれも高い。
どれも面白い。
だが、どれも“今ここで全部売り払っていい情報”ではない。
「嫌になってきたな」
帳面を閉じながら、カイルはひとりごちた。
高い案件は好きだ。
だが高すぎる案件は、商人を商人でいさせてくれない。
情報を握った時点で、次に誰へどの順番で流すかまで責任がついて回る。
それはもう、ただの売買ではない。
ある種の盤面管理だ。
総代メリゼアもまた、その点をよく分かっていた。
「応答待ち、ですって?」
報告を聞いた彼女の第一声はそれだった。
「はい。王国筋の推定では」
「面倒ね」
「非常に」
そこは完全に一致する。
門が立つまではまだ良かった。
そこから先が“向こうの返事待ち”となると、一気に色が変わる。
価格が付くのは、扉の前までだ。
その先は、もう値札だけで動く案件ではなくなる。
「商盟は」
メリゼアが静かに言った。
「相変わらず、道と記録だけにしておきなさい」
「了解しました」
「でも観測はやめない」
「もちろん」
向こうが返事をするなら、その瞬間の値段は跳ねる。
だから見ないわけにはいかない。
見たところで自分たちが開けられるわけではなくても。
メリゼアは少しだけ窓の外へ視線を流した。
港では船が出入りし、荷が動き、人が走り、鐘が鳴る。
海の国は、流れが止まれば死ぬ。
だからこそ、自分たちの手で開けられない扉の前に立たされた時も、“何もできない”とは言わない。
見て、測って、値段をつけて、流れを少しだけ変える。
それがこの国の生き方だった。
---
聖冠連邦では、リュミエラの違和感がまた少しだけ深くなっていた。
前より近い。
だが、まだ眠っている。
それが日に日に、妙に確かな感覚になる。
説明できない。
だからこそ気味が悪い。
朝の祈りのあと、一人で聖堂の奥に残る時間が少し増えた。
高い天井。白い石柱。色硝子越しの柔らかな光。
本来なら心を落ち着かせるはずの空間で、最近は逆に、自分の中のざわつきだけがはっきりする。
アシュレイは、その話を聞くたびに眉を寄せていた。
「近づいてるのか?」
「近づいている、というより」
リュミエラは困ったように首を振る。
「こちらが、向こうを遠いままにしておけなくなってきている感じです」
それはまた、厄介な言い方だった。
だが、北の件はだいたいいつもそうだ。
普通の言葉に収まらない。
「…やっぱり、大きくなるな」
アシュレイは小さく呟く。
神敵かどうか。
討つべきかどうか。
それだけの話ではなくなりつつある。
グラウスのような者は、こういう時ほど強い名前を欲しがるだろう。
だが名前を置けば済む段階では、もうないのかもしれない。
北にあるのは、ただの敵ではなく、“こちらからの呼びかけに返すかもしれない何か”へ変わり始めている。
それは連邦にとって、最も扱いづらい種類の真実だった。
---
黒鴉城へ戻る。
その夜、クロウは珍しく玉座の間ではなく、補助宮の複写記録が保管された小書庫に一人でいた。
静かだ。
静かだが、紙と記録板と複写結晶が並んでいるだけで、どこか落ち着かない。
補助宮。
白霜外界。
黒い門。
中継遺構。
向こうからの応答。
情報としては整理できる。
だが感情の方は、きれいには整理できない。
別の王がいるかもしれない。
その痕跡は、もう記録ではなく構造物として前に立った。
なら次は、いよいよ向こう側からの反応を待つ段になる。
救いでもある。
そこに本当に“向こう”がいるなら。
でも同時に、かなり面倒でもある。
(いや、本当にどうすればいいんだ)
(返事を待つって)
(こちらから何をどこまで言えばいい)
(というか、言うのか?誰が?私が?)
(だろうな)
(だろうなじゃないんだよ)
心の中で文句を言っても、状況は少しも軽くならない。
分かっている。
分かっているが、言わないとやっていられない時もある。
その時、扉の外で小さく気配がした。
「陛下」
ヴェルミリアの声だった。
「何だ」
「失礼しても」
「ああ」
彼女が入ってくる。
夜の書庫でも姿勢は崩れない。
それだけで少しだけ、自分も背筋を戻したくなるから不思議だった。
「まだ起きていたか」
クロウが言うと、ヴェルミリアはほんのわずかだけ目元を和らげた。
「陛下ほどではありません」
その返しに、少しだけ苦笑しそうになる。
なぜか最近、この女はこういう軽いやり取りの温度を掴み始めている気がする。
「何かあったのか」
「いえ。ご様子を伺いにきました」
「そうか」
短い沈黙。
ヴェルミリアは机上の複写記録を見て、それから静かに言った。
「応答の件で、お悩みですか」
「…まあな」
さすがにそこは隠せない。
門が立った。
役割が分かった。
なら次に何が足りないかも見えている。
「向こうから返ってくる何かを待つしかない、というのは」
クロウは少しだけ言葉を探した。
「思っていたより落ち着かない」
かなり本音だった。
敵なら、まだいい。
どう対処するか考えればいい。
門なら、まだいい。
どう近づくか考えればいい。
だが、眠っている向こう側からの応答となると、こちらの手だけでは終わらない。
そこが妙に落ち着かない。
ヴェルミリアは少しだけ考え、それから言った。
「陛下は、急いで事を起こそうとはなさらないのですね」
「当たり前だろう」
クロウは即答した。
「門もそう言っているようなものだ」
そこを間違える気はない。
「なら、いま感じておられる落ち着かなさは」
ヴェルミリアは続ける。
「“起こせない”からではなく、“返ってくるかもしれない”からではないですか?」
その言葉に、クロウは一瞬だけ黙った。
たしかにそうだ。
無理なら無理で、諦める方向へ頭を切り替えられる。
だが今は違う。
門が立ち、こちら側の条件が揃い、向こうからの応答さえあれば接続が進むと分かってしまった。
つまり、返ってくる可能性がある。
それが落ち着かない。
「…そうかもしれないな」
素直に認める。
ヴェルミリアは深く一礼した。
「それは、よいことかと」
「よいこと、か」
「はい」
彼女の声は静かだった。
「補助宮で見つけた痕跡は、記録でした。白霜外界で見つけたのは門です。ですが応答となれば、それはもう“向こうに何かがいる”ことの証になります」
そこまで言われると、たしかにそうだった。
そしてそれは、怖さだけではなく、救いでもある。
一人ではなかったかもしれない。
その感覚が、補助宮の時よりもう一歩現実へ近づく。
「…そうだな」
クロウは小さく頷いた。
「そこは、たしかに」
ヴェルミリアはそれ以上、余計なことは言わなかった。
ただ、主が少しだけ整理しやすくなる位置で黙っていてくれる。
そういう沈黙はありがたい。
---
その夜の終わり際、クロウは補助宮の複写記録と、門前での観測記録を並べて、しばらく見比べていた。
終王の裁定。
眠王の応答。
まだ見ぬもう一柱。
大きい。
話がひたすら大きい。
目覚めた時はもっとこう、せいぜい城の中をどうするかくらいだと思っていた。
そこから帝国、連邦、魔導王国、商盟、補助宮、七柱、白霜外界、門、応答である。
だいぶ予定外だ。
(いや、本当に予定外なんだよな)
(誰がここまで話を大きくしてくれと言った)
(…私か?)
(いや、違うな)
(違うんだが、結果的に進んでるんだよな)
そこが一番困る。
だがもう、ここまで来たら進むしかない。
それもよく分かっている。
記録板へ手を置き、クロウは小さく息を吐いた。
「…まだ返事はない」
ぽつりと口にする。
だがその一方で、門は立った。
役割も見えた。
こちら側の条件も、かなり揃った。
なら、もう“何も届いていない”とは言えない。
ただ、返事の形になっていないだけだ。
「でも」
今度はもう少しだけ、静かに続けた。
「届き始めてはいるんだろうな」
その言葉は、誰かに聞かせるためではなかった。
ただ、自分の中で整理するための言葉だ。
そしてその整理は、たぶん間違っていない。
門の固定。
白霜外界の変化。
向こう側から必要とされる応答。
全部を合わせれば、こちらの存在が少しずつ向こうへ届き始めていると考える方が自然だった。
自然であることと、安心できることは別だ。
そこは最後まで別だった。
---
その翌朝、黒翼庭から白霜外界の門周辺へ向けた観測線が、さらにひとつ増やされた。
魔導王国もまた、外から見る位置を少しだけ変えた。
商盟は記録の値段をもう一段上げた。
帝国はなお踏み込まずに見ている。
連邦はまだ形を掴めないまま、嫌な予感だけを深めていく。
世界全体が、気づけば門の前で少しずつ息を潜めている。
まだ返事はない。
だが、門が立ったことで、もう全員が“返事が必要な段階に来た”と知ってしまった。
それは静かな進展だった。
だが、静かだからこそ重い。
黒鴉城ネヴァーグレイヴの高い窓から北を見ながら、クロウは思う。
次に必要なのは、たぶんこれまで以上に“急がないこと”だ。
そして同時に、“逃げないこと”でもある。
面倒だ。
かなり面倒だ。
だが、ここでようやく、向こう側へ伸ばした手が本当に“別の誰か”へ触れる可能性が出てきた。
それを、見ないふりにはできそうになかった。
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