「近づくほどに遠い」
白霜外界について最初に思ったことは、ひどく単純だった。
嫌だな、である。
補助宮の記録を見た時点で、ろくでもない場所だとは分かっていた。
白の果てよりなお外。
眠りそのものが積もっている。
偏在。
記録の不一致。
ここまで不穏な単語を丁寧に並べておいて、良い場所である可能性があるだろうか。
ない。
絶対にない。
仮にあったとしても、そういう場所は後からだいたい別方向に面倒を増やす。
経験則で分かる。
そして今、クロウは黒鴉城ネヴァーグレイヴの監視棟上層で、白霜外界の整理報告を聞かされていた。
窓の外には北の空が広がっている。
雲は重く、光は薄く、見るからに“外へ出たくない日”だった。
雪そのものはひどくない。
だが、空の色がよくない。
遠くまで見えそうで見えず、見えないくせに、何かだけは見えてしまいそうな色をしている。
それだけならまだいい。
問題は、室内に集まっている面々が全員かなりやる気だということだ。
ヴェルミリアは涼しい顔で資料を整えている。
ガルドは壁際で無駄なく立っている。
あれはたぶん、もう護衛編成を頭の中で三通りくらい組み終えている顔だ。
セラフィナは微笑んでいる。
たぶん怖い方の微笑みである。
バルザードに至っては、すでに机の端へ見慣れない監視機材を三つも並べている。
しかも三つで済ませているだけで、たぶん控え室にはもっとある。
帰りたい。
いや、まだ何も始まっていない。帰るも何もない。
だが気持ちとしては帰りたい。
むしろ、始まる前だからこそ帰りたい。
「陛下」
ヴェルミリアが一礼した。
「白霜外界の基礎情報、整理が終わりました」
「ああ」
クロウは短く返した。
できるだけ落ち着いて。
王っぽく。
ここで「できれば聞きたくない」とか顔に出すと、余計な意味が乗る。
もう学んでいる。
この城では、主の微妙な渋り顔ひとつが、いつの間にか“深謀遠慮の末の重い沈黙”とか”危険性への鋭い直観”とかに翻訳される。
半分くらいは本当にそうなのかもしれないが、残り半分くらいは普通に気が重いだけの時もある。
「まず確認したい」
ヴェルミリアが机上の図を開く。
「白霜外界は、地理上の辺境であると同時に、位相の安定しない異常圏です。問題は、その不安定さが単なる地形や気候によるものではなく、“到達そのもの”に干渉している点にあります」
言い方がすでに嫌だ。
到達そのものに干渉。
普通の人間はあまり日常で聞かない表現である。
聞きたくもない。
「要するに」
クロウが言った。
「近づくほど遠くなる、そういう類か」
「はい」
ヴェルミリアは即答した。
「極めて近いかと」
当たってしまった。
嫌な予感が的確だと、気分はよくない。
バルザードがすかさず補足する。
「より厳密には、“近づいたという事実の記録”が安定しないのです。現地での体感距離、外部監視上の移動、帰還後の記録、その三つが噛み合わなくなるのです」
そういうところだぞ、と思う。
厳密にされると余計に嫌だ。
(なんで嫌なことって、説明されるともっと嫌になるんだろうな)
不思議である。
だが本当にそうなのだから仕方ない。
ヴェルミリアが次の記録板を開いた。
「影鴉衆の先行監視では、三隊とも異常を経験しております」
セラフィナが一歩進み、やわらかい声で内容を読み上げた。
「第一隊。移動距離の自覚は浅いにもかかわらず、境界より深い霜成分を持ち帰りました」
「第二隊。本人たちは目印から動いていないと認識しておりますが、外部監視では別方向へ半日以上移動したとのこと」
「第三隊」
そこで彼女は、ほんの少しだけ微笑みを深める。
「報告書に記された記録時刻が、帰還時刻より後でした」
さらっと言うな。
かなり怖いだろう、それは。
クロウは思わず額に手をやりたくなったが、さすがに我慢した。
王はたぶん額に手をやりすぎない。
少なくとも人前では。
「…書き間違いではないのか」
いちおう聞く。
最後の望みである。
「その可能性も検証いたしました」
ヴェルミリアが冷静に答える。
「ですが、三隊とも別方式で記録を取っており、いずれも似た傾向が確認されています」
駄目だった。
最後の望みは死んだ。
(分かっていたが、分かっていたがさあ…)
こういう時、たまに“実は単純なミスでした”であってほしい。
だが、この城にいる連中はそういうところだけ妙にきっちりしている。
ありがたい。
ありがたいが、今はありがたくない。
「補助宮記録との照合では」
バルザードがまた口を挟んだ。
「白霜外界は、おそらく偏在王権の影響圏です」
「簡単に言え」
クロウが切ると、バルザードは一拍だけ考えた。
「王そのものが一箇所に定まっていないせいで、その周辺の地図まで落ち着かない、ということです」
それなら分かる。
分かるが、分かったところで嫌なものは嫌だ。
「つまり」
クロウは低く言う。
「歩き方が悪いと迷うのではなく、そもそも歩いた記録ごと信用できなくなるわけか」
ヴェルミリアが目を伏せる。
「はい」
「嫌だな」
ぽろっと出た。
すると四人の空気がほんの少しだけ引き締まる。
違う。
違うのだ。
今の“嫌だな”は、ものすごく個人的な感想であって、深遠な危機評価ではない。
もちろん結果的にはそうだとしても、出発点はかなり素朴だ。
だがもう遅い。
セラフィナが静かに頷いた。
「陛下がそこまで強く警戒なさる以上、白霜外界は“道”として扱うべきではありませんね」
強く警戒。
そう聞くと立派だが、本人の気持ちはもっとこう、面倒な出張先が一つ増えた中間管理職に近い。
(いや、強く警戒はしている。しているんだが…)
(“うわあ行きたくない”の比率もかなり高いんだよな)
だがこの気持ちは誰にも伝わるまい。
いや、伝わらなくていい。王のイメージ的に。
ガルドが短く言う。
「ならば護衛は分散させません」
「理由を」
クロウが問うと、ガルドは即答した。
「外界が陛下の位相へ引かれる可能性があります。中心から離れれば、別の場所を歩く恐れがある」
それは筋が通っている。
白霜外界が単なる地理ではなく、王権の偏在に引きずられているなら、自分を軸に組むのが一番ましなのだろう。
ましなのだろうが。
(つまり全部、私の近くで起きるのか)
(嫌だな)
(いや、嫌だなしか言っていない気がするな、私は)
さすがに内心でもう一度だけ言い直す。
(面倒だ。うん、面倒だ。嫌だなより少し王っぽい気がする)
まったく意味は変わっていない。
「陛下」
ヴェルミリアが静かに続ける。
「進行方針ですが、外界に対しては“最短到達”より“帰還条件の維持”を優先すべきかと」
それは全面的に賛成だった。
賛成どころではない。
今のところ一番大事まである。
「そうだな」
クロウは頷いた。
「帰れなくなった探索は、探索ではない」
自分でも、かなりまともなことを言ったと思う。
というか普通のことだ。
だが四天王には違ったらしい。
ヴェルミリアは深く頭を垂れた。
「可逆性の確保を最優先に、ということですね」
バルザードが片眼鏡を押し上げる。
「なるほど。到達より先に“戻る道が存在する状態”を維持する。偏在王権相手の探索としては理に適っております」
セラフィナはやわらかく微笑んだ。
「先へ進むのではなく、白霜外界に“こちらがまだ帰るつもりである”と認識させるわけですね」
そんな高等技術だったのか、今のは。
いや、結果的にはそうかもしれない。
だが本人はもっと普通に、
“帰れなくなったら嫌だから”
である。
(なんでこう、言葉が勝手に立派になるんだろうな)
不思議である。
たぶん、一緒にいる相手が悪い。
「その方針で再構成します」
ガルドが言う。
「離脱基点を三つ設け、切り離されても戻れるように」
「記録も二重では足りませんね」
ヴェルミリアがすぐ続けた。
「監視者本人の記録、外部監視、補助監視具による自動蓄積。最低三層必要です」
「素晴らしい」
バルザードが本当に嬉しそうに言う。
「では各層のズレ方自体を比較対象にできます」
「褒めていません」
ヴェルミリアが一刀両断する。
このやり取りには少し救われる。
少なくとも、城の全員が同じ方向に暴走しているわけではないらしい。
「…バルザード」
クロウが呼ぶ。
「はい」
「機材は増やしすぎるな。持つ側が扱い切れなくなる」
これは普通に経験則だ。
便利な道具は多いほど良いように見える。
だが、知らない土地ほど道具が増えると余計に面倒が増える。
記録を取るための機材が、逆に“それを維持するための行動”を増やし、結果として監視者の自由を奪う。
白霜外界のような場所でそれをやると、たぶん道具に合わせて人間の方が迷う。
バルザードは一瞬だけ真顔になり、それから頷いた。
「理解いたしました。機材を増やすのではなく、“失っても戻れる基準”だけを絞ります」
よかった。
通じた。
(今のは普通に通じてほしかった)
(頼むから試作七号とかを中で起動しないでくれ)
それは切実な願いである。
報告と議論がひととおり流れたあと、セラフィナが新しい記録板を差し出した。
「もう一点」
「何だ」
「白霜外界の境界で、目印の定着しない中、ただ一つだけ“見失われにくい”地点があります」
クロウが視線を上げる。
「地点?」
「はい。地形ではありません」
「では何だ」
セラフィナは微笑んだまま答えた。
「黒い影です」
それだけでは何も分からない。
だが、その場にいた全員の空気は一瞬で変わった。
補助宮。
中継遺構。
別の王の痕跡。
そうした話の延長に、“黒い影”という言葉は妙に意味を持つ。
「影鴉衆の二隊が、別方向から同じものを監視しました」
セラフィナは続ける。
「塔のようにも見え、門のようにも見える。近づこうとすると消える。ですが、見たと報告した時刻だけは一致しています」
「方角は」
ヴェルミリアが問う。
「一致しません」
「距離は」
「一致しません」
「では何が一致した」
クロウが問うと、セラフィナはわずかに目を細めた。
「“見えてはいけないものを見た”と、全員が即座に理解したことです」
何だその報告は。
曖昧なのに、妙に嫌な説得力がある。
(嫌な予感しかしない)
(本当に、嫌な予感しかしない)
そしてこういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。
当たらなくても、それはそれで別方向に面倒になる。
クロウは椅子の肘掛けへ指を置き、短く考えた。
正面から突っ込むのは嫌だ。
というか絶対にやめた方がいい。
だが見えているものを放置するのもまずい。
なら、やることは一つだ。
「焦るな」
静かに言う。
「影を追うな。まず“影がどこで見えるか”を固定しろ」
これは普通の判断だと思う。
見えたものへ飛びつくより先に、監視条件を固めるべきだ。
白霜外界では、“何があるか”より“どういう時にそれが見えるのか”の方が先に来る。
影そのものの正体より、影が立ち上がる条件の方が、この場所ではたぶん本質に近い。
だが四天王の受け取り方はやはり違った。
ヴェルミリアがすぐに頷く。
「対象の正体ではなく、出現条件を先に押さえるのですね」
ガルドが低く言う。
「了解しました。追跡ではなく、監視点の固定へ切り替えます」
セラフィナは微笑みを深める。
「“見えたもの”より、“見せた条件”を見る。実に陛下らしいご判断です」
らしくはない。
いや、最近ちょっとらしくなってきているのかもしれないが、自分でそう思うのは嫌だ。
(普通に、飛びつくとろくなことにならないと思っただけなんだが)
(いや、でも結果としてはそれでいいのか)
(それでいいのが一番困るんだよな…)
最近の悩みだった。
会議が終わる頃には、白霜外界遠征の骨格はほとんど固まっていた。
護衛は第三案。
監視は三層。
記録は本人・外部・機材の三重。
影は追わず、出現条件を監視する。
帰還条件の維持を最優先。
慎重に行動する。
かなりまともだ。
まともだが、内容だけ見るとやはり“王権異常圏への慎重な先行踏査”になっていて、どう考えても普通の散歩ではない。
クロウは小さく息を吐いた。
もう行く流れは止まらない。
止めるつもりもない。
ただ、できれば穏当に済んでほしいだけだ。
その“穏当”がたぶん、この世界では一番難しい。
ヴェルミリアが最後の確認のため、もう一度だけ地図を指した。
「陛下」
「何だ」
「三導線のうち、初手はどちらを主軸に据えるべきでしょうか」
来た。
結局、最後はそこだ。
短い正面。
遠い迂回。
気味の悪い暫定導線。
どれも嫌だ。
どれも嫌だが、今の気分で言うなら正面だけはもっと嫌だった。
あれはどう見ても“来い”と見せかけて“来るな”の顔をしている。
つまり、普通に嫌だ。
「正面はまだ早い」
クロウは言った。
「まずは迂回だ。回って、帰れる形で白霜外界に慣れろ」
そう言った瞬間、四天王の空気がはっきり変わった。
やめてくれ。
今のはかなり普通の判断だ。
“白霜外界に慣れろ”だって、要するに変な場所にいきなり正面から入るなという意味でしかない。
だが、今さら撤回するのも変だ。
クロウは表情だけは崩さず、机上の白い地図を見下ろした。
「順番を誤るな」
もう一度だけ言う。
「向こうが見せるものに、いきなり応じるな」
言い終わった瞬間、自分でも少しだけ驚いた。
今のは、思ったより王っぽかった。
いや、王っぽいというか、白霜外界みたいな場所に対しては普通にそうするしかないだろうというだけなのだが。
白が“見せてくる”という感覚は、もうこの時点である。
影もそうだ。
道もそうだ。
近づくほど遠くなるという性質もまた、“こちらの都合では来させない”という態度に近い。
なら、向こうの誘いに正面から応じるのはたぶん悪手だ。
その理解だけは、かなり本気だった。
ヴェルミリアが深く頭を垂れる。
「承知いたしました」
セラフィナも続く。
「白霜外界に、こちらの順番を教えてまいります」
いや、教えなくていい。
というか白霜外界に順番という概念があるのかすら怪しい。
だが、もう止めても無駄だろう。
ガルドが言う。
「出立の準備を進めます」
バルザードは片眼鏡を押さえた。
「では機材は絞ります。最低限に。ですが最低限の定義については、後ほど少々ご相談を」
「本当に最低限にしろ」
「善処いたします!」
善処で済ませるな。
だが今は、これ以上突っ込む気力もなかった。
四天王が退出し、小会議室に一人残ったところで、クロウはようやく背もたれへ深く体を預けた。
窓の外の北空はまだ重い。
机の上の白い地図も、見れば見るほど信用できない。
「…絶対に面倒だ」
今度ははっきり口にした。
誰もいないから、少しだけ素直になる。
「でも行くしかないんだよな」
他国に先を越されたくない。
自分でも知りたい。
そして補助宮で見つけた痕跡を、見なかったことにはできない。
面倒だ。
怖い。
嫌な予感しかしない。
それでも行く。
それが最近、自分に一番多い結論だった。
嬉しくはない。
だがたぶん、間違ってもいない。
クロウは机の上の地図を指先で軽く押さえた。
白霜外界。
眠りの境界。
まだ地図の外側にある場所。
そこへ向かう前からもう、面倒は始まっている。
そしてたぶん、本番はこれからだ。
思えば、目覚めてからずっとそうだった気がする。
少し慣れてきたのが嫌だった。
けれど、慣れてきたからこそ分かることもある。
嫌な場所へ行かなければならない時、無理に好きになる必要はない。
怖いなら怖いままでいい。
面倒なら面倒だと思ったままでいい。
その上で、行くと決めればいい。
王というものは、たぶんそういう役だ。
喜んで踏み込むのではなく、行きたくなくても、そこを見なければならないから行く。
あまり嬉しくない理解だった。
だが、その理解は以前より少しだけ自分の中へ収まっていた。
王のふりをしているだけではなく、嫌でも行くべき場所を、自分で選び始めている。
なら、それでいい。
白霜外界の地図はまだ揃わない。
道も定まらない。
だが少なくとも、こちらの順番だけは決まった。
帰れる形で踏む。
外から慣れる。
見せられたものへ即座に食いつかない。
向こうの拒絶条件を先に測る。
その方針が机の上へ置かれた瞬間、散っていた白い線が、ようやく一つの遠征計画として呼吸を始めた気がした。
白の果てよりなお外。
眠りそのものが積もっている場所。
そしてたぶん、その白の向こう側でも、こちらが来ることをまだ知らないふりで待っている何かがいるのだろう。
クロウは地図から手を離し、ゆっくり立ち上がった。
「…行くか」
誰に聞かせるでもない、小さな確認だった。
嫌でも、行く。
面倒でも、見に行く。
それが今の自分の役目で、たぶん、終わらせる王として次に選ぶべき順番なのだ。
朝の薄い光はまだ冷たかった。
だが、その冷たさの中でだけ、白霜外界へ向かう覚悟の輪郭も、少しだけはっきりしていた。




